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造山古墳群(岡山市)

 邪馬台国の所在地に関しては、畿内ヤマト説と九州説が対立していますが、桜井市纒向学研究センター所長の寺沢薫先生が、『卑弥呼とヤマト王権』(中公選書、2023年)で新たな説を示されました。
2世紀初め、北部九州を中心とする倭国(イト倭国)が誕生。
3世紀初め、イト国連合・キビ国連合・イヅモ国連合等による新生倭国(ヤマト王権)が誕生
纒向に位置する邪馬台国は新生倭国の王都が置かれた場所に過ぎない(新生倭国≠邪馬台国)。
卑弥呼は新生倭国の女王であり、邪馬台国の女王ではない。


 ③のヤマト王権を構成したキビ国連合の古墳を見たことがなかったので、令和5年7月4日(火)、造山(つくりやま)古墳群(岡山市、5世紀前半)などを訪ねました。JR総社駅から7.5km東方に位置するため、レンタサイクルを利用します。


 古墳群の中心となる造山古墳は南を向いた前方後円墳で、墳長350mと日本で4番目の大きさです。

 

 後円部には竪穴式石室があったと考えられますが、詳細は不明です。


 後円部から東には、足守(あしもり)川流域に広がる平野が一望できます。この平野から古墳を見ると威容を誇っていたことでしょう。


 北には古代山城「鬼ノ城」が見えます。


 戦国時代には毛利方の砦として利用されました。土塁跡に上がれば、備中高松城が見えます。

 


 前方部には荒神社が鎮座しており、一辺15~20mの高まりは、格式の高い「方形壇(ほうけいだん)」の可能性があります。

 

 前方部にも埋葬施設があり、阿蘇ピンク石で作られた刳抜式石棺の身が置かれています。


 小口には四角い突起が彫られており、畿内の長持型石棺の縄掛突起を真似たものと考えられています。


 北側には、蓋の破片が残っています。


 造山古墳の前方部の南には多くの陪塚(ばいちょう)が残っています。


 墳長81mの帆立貝型古墳「千足古墳(第5古墳)」は令和5年度に復元整備され、埴輪が並んでいます。

 

 後円部には二つの埋葬施設があり、南に開口した第一石室はガラス越しに見ることができます。


 石棺の手前に、肥後の横穴式石室の特徴である石障があり、仕切り石には直弧文が彫られています。

 

 せっかくの機会なので、JR総社駅から造山古墳群に向う途中、総社市にある作山(つくりやま)古墳と、こうもり塚古墳にも寄りました。
 作山古墳(5世紀中頃)は、墳長280mの大きな前方後円墳ですが、丘陵を利用しているので①後円部が楕円形、②前方部がいびつなど、先にできた作山古墳に比べて完成度に劣ります

 

 

 こうもり塚古墳(6世紀)は、墳長100mの前方後円墳です。

 

 全長19.4mの横穴石室は大きな石を使って築かれており、石棺は貝殻石灰岩(波形石)を使った吉備地方独特のものです。

 

 真夏日と暑い一日でしたが、吉備地方の古墳の立派さを体感することができました。

2023年07月04日古墳:円墳, 前方後円墳, 方墳歴史:古墳時代

近畿文化会「大寺の展開-百済大寺・大官大寺・大安寺を訪ねて-」(奈良県桜井市、明日香村、奈良市ほか)

 令和5年6月17日(土)、近畿文化会の臨地講座「大寺の展開-百済大寺・大官大寺・大安寺を訪ねて-」に参加しました、講師は、奈良県立橿原考古学研究所共同研究員の森下惠介先生です。
 ここで言う「大寺(おおでら)」とは、“大きな寺”ではなく“天皇の寺”を意味します。最初の大寺は639年に舒明天皇が創建した百済大寺(くだらのおおでら)で、高市大寺(たけちのおおでら)・大官大寺(だいかんだいじ、天武朝)を経て大安寺になりますが、その跡を訪ねるのが講座の趣旨です。


1 百済大寺跡
 一時は百済寺(広陵町)が有力でしたが、平成8(1996)年~12(2000)年の発掘調査の結果、吉備池廃寺(桜井市)が有力となりました。
 吉備池の東南に東西37m・南北25mの金堂基壇、西南に一辺32mの塔基壇が見つかったのです。『日本書紀』の記述から、塔は九層だったと考えられます。
 講堂跡は見つかっていませんが、法隆寺式伽藍配置だと考えられています。


 

 また、森下先生は、大寺と大宮はセットだったされます。百済大宮は吉備池廃寺の西にあったと考えられますが、発掘調査は行われていません。 

2 高市大寺跡・大官大寺跡(天武朝)
 天武天皇は、673年、百済大寺を移転させて高市大寺としました。
 その理由について、森下先生は、天武天皇が即位した飛鳥浄御原を擁護する大寺として高市の地に移転させたと説明されます。
 高市大寺の候補地は三つあります。
(1)木之本廃寺(畝尾都多本神社)
 ①高市郡でなく十市郡の属していること、②寺の伽藍が見つかっていないことが弱点です。吉備池廃寺や大官大寺の瓦が出土したことが有力な根拠ですが、森下先生は“単なる瓦置き場”だとされます。


(2)小山廃寺
 藤原京で本薬師寺と対称的な位置にあるのが有力な根拠です。
 しかし、①高市大寺の着工後に藤原京の位置が決まっていること、②規模が小さいことが弱点です。


(3)ギヲ山西遺跡
 ①大官大寺(文武朝)の軒丸瓦が出土したこと、②大安寺と同じ凸面布目瓦が出土することを根拠として、森下先生は有力な候補地とされます。ただし、寺院遺構は未発見です。


 天武天皇は、677年、高市大寺の法号を「大官大寺」と改めました

3 大官大寺跡(文武朝)
 明日香村に残る大官大寺跡は、701年、文武天皇が藤原宮に対応するものとして造営に着手したものです。昭和49(1974)年~54(1979)年の発掘調査で、東西54.6m・南北30.1mと同規模の塔と金堂の基壇が見つかりました。これらは当時としては最大級の建物ですが、完成前に焼失したことも判明しました。ここから500m西方に、ギオ西山遺跡があります。

 


4 大安寺
 平城遷都後の716年、大官大寺(天武朝)を平城宮に対応するものとして移転させることが決まり、745年には寺号が「大安寺」に改められました。
 現在の南門は興福寺の旧一乗院から移設したものですが、往時は平城宮の朱雀門と同規模の南大門が建っていました。

 


 森下先生の案内で現地を訪ねることで、“百済大寺→高市大寺→大官大寺(天武朝)→大安寺”の変遷を体感することができました。

2023年06月17日建造物:寺院歴史:古代奈良県:その他, 奈良市

ちとせなら「巨勢谷の非公開古墳を巡る(奈良県御所市、高取町)」

 令和5年6月16日(金)、ちとせなら「巨勢谷の非公開古墳を巡る(御所(ごせ)市、高取町)」に参加しました。案内は雜賀耕三郎さんです。
 飛鳥から西南に宇智(うち)郡を経て紀州に通じるのが古代の紀路(きじ、旧高野街道)で、その途中にあるのが巨勢(こせ)谷です。

 

 巨勢谷一帯を支配していた葛城氏が衰退した後、新興の巨勢(許勢)氏が本拠地としました。今回探訪するのは、巨勢氏が古墳時代後期(6世紀)に築いた古墳で、いずれも大規模な横穴式石室を持っています。
 最初に訪れるのは、御所市の水泥(みどろ)北(塚穴)古墳と南古墳です。
 北古墳は直径20mの円墳で、西尾さんのお宅の裏庭にあります。


 両袖式の横穴式石室は全長13.4mで、玄室は長さ5.6m・幅2.9m・高さ3.3mです。羨道は2段に積み、玄室の側壁は3~4石を3段・奥壁は1石を2段に積んでいます。

 


 石室の平面プランは、茅原狐塚古墳(桜井市)と共通していることから同設計である可能性が高いとされます。


 南古墳も西尾さんの所有地にある直径25mの円墳です。両袖式の横穴式石室は全長15mで、玄室は長さ4.6m・幅2.4m・高さ2.6mです。


 玄室と羨道に刳抜式家形石棺が置かれており、玄室のものは二上山の凝灰岩、羨道のものはハイアロクラスタイト「竜山石」で作られています。
 玄室までたどり着けないため、玄室の石棺は羨道の石棺越しに眺めるだけです。


 羨道の石棺はギリギリの幅に置かれており、側面の縄掛突起には搬入時に削られた跡が残っています。小口部の縄掛突起には蓮華文が彫られており、古墳文化と仏教文化の結合例だとされています。


 

 次に訪れるのは、直径25mの円墳(前方後円墳の可能性もある)新宮山(しんぐうやま)古墳です。御所市役所の人に特別に鍵を開けてもらい、石室に入ります。
 両袖式の横穴式石室は全長13.6mで、玄室は長さ6.1m・幅2.3m・高さ3.0mです。

 

 

 玄室には結晶片岩の組合式箱形石棺の一部が残り、その前には竜山石製の刳抜式家形石棺が置かれています。


 家形石棺の盗掘穴から中を覗くと、赤色顔料が確認できます。


 最後は、全長47mの前方後円墳・市尾宮塚古墳(高取町)で、前方部は削平されて低くなっています。


 こちらも、高取町役場の方に特別に鍵を開けてもらい、石室に入ります。
 両袖式の横穴式石室は全長11.6mで、玄室は長さ6.2m・幅2.5m・高さ3.0mです。

 

 二上山凝灰岩製の刳抜式石棺の側面の縄掛突起からは赤色塗料が確認できます。


 通常では入りにくい巨勢谷にある四つの古墳の石室に入ることにより、巨勢氏が持っていた勢力の大きさを体感できました。

2023年06月16日古墳:円墳歴史:古墳時代奈良県:その他

ちとせなら「魅惑の磚積石室を体験する(奈良県宇陀市)」

 令和5年5月20日(土)、「ちとせなら」の古墳探訪ツアー「魅惑の磚積(せんづみ)石室を体験する(宇陀市)」に参加しました。講師は雜賀耕三郎さんです。


 磚積石室とは凝灰岩「榛原石(はいばらいし)」の板石を積み上げた石室で、桜井市東部から宇陀市にかけて「古東海道」に沿って存在します。
 最初に、奥ノ芝1号墳と2号墳を訪ねます。いずれも鳥見山から南東に延びる福地丘陵上に営まれた直径10mの円墳で、鍵を開けて石室に入ります。
 奥ノ芝1号墳は宅地開発業者により破壊され、公園内に再構築されました。

 


 奥ノ芝2号墳の石室には、板石を組み合わせた箱型石棺が残っています。

 


 墳丘の上から北を眺め、丘陵が宅地化される前の状況を偲びます。


 その後、西に移動して一辺8mの方墳「西峠古墳」を訪ねます。鍵を開けて石室に入りますが、こちらも移築復元されたものです。


 

 午後は、南東の丹切古墳群を訪ねます。北西に延びる尾根上に築かれており、最初に33号墳を訪ねます。石室には、板石を組み合わせた箱型石棺が残っています。

 

 

 下方の県立榛生昇陽高等学校の敷地内には、34号墳が見えます。


 最後は14号墳です。羨道が埋もれているため、天井石が抜き取られた後からロープを使って石室に入ります。こちらは大きな石を積んでおり、磚積石室ではありません。

 


 なお、磚積石室とはレンガ「磚(せん)」を使った百済系「磚槨墓」に由来するのものであり、磚に加工されていない丹切古墳群は磚積石室でなく「在地横穴式石室」だとする見解もあります(森下惠介先生)。

2023年05月20日古墳:円墳, 方墳歴史:古墳時代奈良県:その他

鬼ノ城(岡山県総社市)

 令和5年5月2日(火)、鬼ノ城(きのじょう、岡山県総社市)に行きました。
 鬼ノ城は、鬼城山(きのじょうさん、397m)に築かれた古代山城です。
 JR総社駅から麓の砂川公園までレンタサイクルで進みますが、遠くに復元された西門などが見えます。



 砂川公園から山頂までは、舗装された車道を歩きます。

 
 途中、経山(きょうやま、373m)に築かれた中世の山城「経山城」に寄り、石垣や堀切などを確認します。

 


 山頂には、四等三角点があります。


 車道に戻り、犬墓山(いぬはかやま、443m)をめざします。
 こちらの山頂にあるのは、三等三角点です。


 山頂近くの展望所から東には、鬼城山が一望できます。


 北に進めば、馬頭観音菩薩坐像と地蔵菩薩坐像の小さな石仏が並んでおられます。


 さらに進めば、巨大な「鬼の差し上げ岩」があります。


 かつては大きな岩屋寺がありましたが、今は小さな観音院の建物が残るだけです。


 少し寄り道して県指定文化財「岩屋の皇(おう)の墓」を見学します。花崗岩で作られた無縫塔(八角の台座の上に円形の塔身)で鎌倉時代のものです。


 ここから、国指定史跡「鬼ノ城」に向かいます。
 鬼ノ城は古代山城ですが、築城の経緯や由来が不明な「神籠石山城(こうごいしやまじろ)」に分類されています。
 四つの城門跡が確認されており、北門から入ります。版築(粘土層と砂層が交互)土塁の上に掘立柱建物が築かれていました。門の西には犬墓山が聳えています。


 西門の周辺は最も整備が進んでおり、土塁や板塀だけでなく建物も復元されています。


 西門の東には、城内の水を排出するための水門があり、石積みの上は版築土塁で覆われています。


 東門から北に寄り道します。


 高石垣のうちで、折れの角度が大きく平面形が凸状に築かれている「屏風折れ石垣」を見るのが目的です。


 石垣の上に立つと、背面側まで石垣が加工されているのが分かります。


 下りは阿弥陀原登山道を利用しますが、岩肌が露出しており慎重に進みます。


 奥坂休憩所から砂川公園までは、舗装された車道を延々と歩きます。


 トレッキングと山城探訪を楽しんだ一日でしたが、さすがに疲れたので歩数を確認すると、40,000歩を超えていました。

 

2023年05月02日城郭:山城歴史:中世, 古代トレッキング:トレッキング

やまとびとツアーズ「ヘリツアー」(奈良県)

 令和5年4月14日(金)午前、やまとびとツアーズ「ヘリツアー」に参加しました。
 奈良県ヘリポート(奈良市)を出発して吉野山を往復する30分程度の行程です。


 最初に、耳成山(みみなしやま)・天香久山(あまのかぐやま)・畝傍山(うねびやま)の大和三山が見えてきます。
 手前には大和(おおやまと)神社の社叢、遠くには箸墓(はしはか)古墳(全長280mの前方後円墳)、さらに遠くには大峯山系の山々が見えます。


 

 オオヤマト古墳群(大和・柳本・纒向)に沿って南に進みます。
 手前には崇神天皇陵(全長240mの前方後円墳)・景行天皇陵(全長300mの前方後円墳)や黒塚古墳(全長130mの前方後円墳)、その先には箸墓古墳が見えます。
 左手には麓に大神(おおみわ)神社が鎮座する三輪山、さらに奥には飛鳥と吉野を隔てる龍門岳(904m)が聳えます。

 


 談山神社が鎮座する御破裂山(608m)、高取城が築かれた高取山(583m)の間を南に進みます。


 

 龍門山塊を越せば、古代の神仙境・吉野です。東西に吉野川が流れており、その向こうには吉野山、東の上流には宮滝遺跡が見えます。


 吉野山の中千本に沿って南に進むと、金峯山寺「蔵王堂」や修理中の仁王門が見えます。

 

 北東に向きを変えると、宮滝遺跡や喜佐谷が眼下に見えます。

 


 長谷寺(桜井市)の近くを通って奈良県ヘリポートに戻ります。


 今年は桜の開花が早かったので吉野山のヤマザクラは楽しめませんでしたが、その分、吉野山周辺の地形や古墳の分布状況を空から眺めて体感することができました。

2023年04月14日古墳:前方後円墳建造物:寺院歴史:中世, 古代, 古墳時代奈良県:その他, 吉野郡, 奈良市

玄蕃尾城(滋賀県長浜市・福井県敦賀市)

 令和5年4月3日(月)、玄蕃尾城(げんばおじょう、長浜市・敦賀市)に行きました。


 柴田勝家が羽柴秀吉と戦った賤ヶ岳の合戦では、約20の城砦が築かれましたが、勝家の本陣となったのが玄蕃尾城です。
 穏やかな山道を進み、倉阪峠から椿が咲き誇る急な斜面を登ります。

 

 

 登り切ったところが柳ヶ瀬山頂(439.1m)で、四等三角点があります。


 東尾根の穏やかな山道を進めば、国指定史跡「玄蕃尾城」です。


 縄張(設計プラン)は技巧的で規模が大きく、短期間で臨時的に造られたものではないと考えられます。


 植林されていないため、土塁(土を盛り上げた防御施設)、堀切(尾根を切断した空堀)など築城当時の遺構を見ることができます。

 

 大手道を北に進めばⅦ郭「虎口(出入口)」です。郭の内側は二段で、敵に対して上段から攻撃できるようになっています。


 Ⅵ郭の先にあるⅡ郭は、主郭1の正面虎口の馬出(うまだし、敵と戦う陣地)だと考えられます。


 主郭Ⅰは一辺40mの正方形で、東北隅には方形の土壇Aがあります。

 

 土壇Aの上面には礎石が残っていることから、櫓台だったと考えられます。


 東部に張り出しているⅢ郭は見張り台の役割を果たしていました。


 Ⅳ郭も馬出で、土橋を渡ればⅤ郭です。

 

 Ⅴ郭は主郭Ⅰ郭より広いのですが、造成が雑であることから、兵站基地の役割を果たしていたと考えられています。

 

 実際に現地を歩いてみて、“織豊系の陣城(じんじろ、臨時に築いた城)の到達点を示す遺構”(中井均先生)であることが体感できました。

2023年04月03日城郭:山城歴史:中世トレッキング:トレッキング

龍王山(奈良県天理市)

 令和5年3月31日(金)、久しぶりに龍王山(天理市、585.7m)に登りました。


 JR柳本駅で下車して、33面の三角縁神獣鏡が出土したことで有名な黒塚古墳に寄ります。後円部からは、満開の桜の向こうに龍王山が見えます。

 

 

 大和(おおやまと)神社の神宮寺だった長岳寺の山門前には、神仏習合の名残でしょうか、勧請綱が掛かっています。


 長岳寺の北の道を東に進んで山頂に向かいます。
 途中で寄った長岳寺奥の院では、不動明王の石像が立っておられます。


 近くには、立派な横穴式石室を備えた、円墳と思しき古墳があります。標高460mと高い場所にある墳丘は、下から見えたのでしょうか。

 

 山頂から西側を見ると、遠くには生駒・金剛山系の山並み、眼下には崇神天皇陵・景行天皇陵・黒塚古墳、さらに耳成山・香具山・畝傍山の大和三山や箸墓古墳も見えます。

 

 


 

 龍王山には、中世、十市(といち)氏が山城「龍王山城」を築きました。
 山頂に主郭を置いた南城は郭が連なる連郭式で、虎口(出入口)の石段が残っています。

 


 一方、北城は、南城より60m低い位置にあるものの、郭は複雑に配置されており、主郭東西100m・南北60mと広大です。さらに、水場「馬池」も残っています。こうしたことから、南城と北城は併存していたものの、北城の造営時期の方が新しいと考えられています。

 

 

 北城には、敵の進入を防ぐために尾根を切断した大きな堀切や、横移動を防ぐ畝状竪堀も残っています。

 

 

 下りは、龍王山古墳群を通り崇神天皇陵の横に出る道を利用しました。

 


 穏かな天気の下、山城探訪を楽しむことができました。

2023年03月31日古墳:円墳, 前方後円墳城郭:山城歴史:中世, 古墳時代奈良県:その他トレッキング:トレッキング

東近江市観光協会「竜王にいます聖徳太子御製の秘佛特別参拝」(滋賀県竜王町)

 令和5年3月26日(日)、東近江市観光協会「竜王にいます聖徳太子御製の秘佛特別参拝」に参加しました。


 講師は、昨年、『近江の聖徳太子』(海青社)を出された大沼芳幸先生です。


 大沼先生の著書によると、聖徳太子の縁起を伝える寺院数のポイントを計算すると、滋賀県は185ポイントと奈良県の97ポイントの1.9倍もあります。
 もちろん、これは滋賀県に太子創建の寺院や製作の仏像を有する寺院が多いと言うことではなく、「縁起・伝説の世界」の話です。
 その理由について、大沼先生は次の仮説を提示されます。
(1)聖徳太子は慧思(えし)の生まれ変わりで、慧思の弟子・智顕から教えを受けた最澄が天台宗を創始。→近江の天台系寺院が寺格を上げるために聖徳太子を利用。
(2)聖徳太子は観音菩薩と同体。→聖徳太子の作とされる仏像は観音像が多い。


 このツアーのメインは、竜王観音禅寺の伝・太子作の「十一面観音菩薩立像」です。大開帳は60年ごと・30年目の中開帳が2030年なのですが、1400年御遠忌を記念して一か月余り特別大開帳されました。この日は最終日で閉扉法要が行われ、たくさんの人で賑わっていました。

 


 吉祥寺(きっしょうじ)は、かつては天台宗の「淨慶寺」でしたが、江戸時代後期に浄土宗に転宗した際に現在の寺号に改めました。本尊は重文「阿弥陀如来坐像」です。観音堂には伝・太子作の「十一面観音菩薩立像」がおられ、今年が30年目の大開帳に当たります。

 


 

 弓削(ゆげ)阿弥陀寺には住職がおられず、8人の「長老」が守っておられます。本尊は阿弥陀如来でなく伝・太子作の「釈迦如来坐像」で、太子創建の法満寺(ほうまんじ)の別院・弓削寺伝来と伝えられています。

 


 駕輿丁(かよちょう)地蔵堂に安置されているのは、伝・太子作の「地蔵菩薩立像」で、安産祈願の信仰を集めています。開帳されるのは年2回ですが、12人の役員の方が交代で毎日お参りされています。地蔵菩薩は福田寺(ふくでんじ)伝来とされ、同寺の本尊だった阿弥陀如来坐像も安置されています。


 


 須恵善通寺観音堂は、須恵八幡神社の一角にあり、神仏習合の面影を残しています。伝・太子作の「千手観音立像」は、太子創建の雲冠寺(うんかんじ)伝来とされています。

 


 美術品としての仏像鑑賞でなく、地元の人々が仏像に寄せる思いを体感できた一日でした。

2023年03月26日歴史:中世, 古代仏像:木彫像

城南宮・鳥羽離宮跡(京都市)

 令和5年3月9日(木)、京都市伏見区にある城南宮・鳥羽離宮跡などを散策しました。


 城南宮は、平安遷都の際に国の守護神として創建されたと伝えられています。祭神は、国常立尊(くにのとこたちのみこと)・八千矛神(やちほこのかみ、大国主命)・神功皇后の三柱です。


 明治初期には「真幡寸(ほはたき)神社」に名前を変えましたが、1965(昭和40年)頃に「城南宮」に戻りました。その際、真幡寸神社は境内摂社として残りました。


 神苑「春の山」は昭和を代表する作庭家・中根金作の手によるものです。枝垂れ梅が満開と聞き、午前9時の開苑直後に行ったのですが、たくさんの人で賑わっていました。


 陽光に照らされた梅落ち椿と梅などさまざまな梅を楽しむことができました。

 


 その後、鳥羽離宮跡を探訪しました。鳥羽離宮とは、平安時代末期、白河上皇と鳥羽上皇が作った、わが国最大の離宮です。離宮と平安京は、朱雀大路から南に続く鳥羽作道(つくりみち)によって結ばれていました。


 鳥羽離宮造営に伴い城南宮は鎮守社となり、上皇が熊野参詣などを行う際に行う「方除(ほうよ)け」の精進社に当てられました。城南宮が方除けで知られているのは、こうした歴史的経緯があるからです。


 鳥羽離宮の南殿跡鳥羽離宮公園として保存されています。


 公園の北端には小山がありますが、庭園の築山で「秋の山」と呼ばれていました。城南宮「神苑」の「春の山」は、この「秋の山」に対応したものです。


 離宮内には、第73代・白河天皇陵、第74代・鳥羽天皇陵、第76代・近衛天皇陵と三つの天皇陵があります。鳥羽天皇陵には法華堂が、近衛天皇陵には多宝塔が建てられています。

 

 

 この二つに比べると、白河天皇陵極端に小さく違和感を覚えました。


 家に帰ってから『鳥羽離宮跡』(新泉社、2018年)を読んだところ、説明されていました。

 白川天皇は離宮内に三つの塔を建立しましたが、遺勅により泉殿御所跡の三重塔が御陵になりました。この時、鳥羽天皇は塔の周りに濠をめぐらせました。濠に囲まれた範囲で見ると他の二つの陵と同じ面積だそうです。


 枝垂れ梅を見るために出かけたのですが、周辺を散策することにより鳥羽離宮の広大さを体感することができました。

2023年03月09日建造物:寺院, 神社歴史:中世

近畿文化会「萬福寺の文化財」(京都府宇治市)

 令和5年2月26日(日)、近畿文化会「萬福寺の文化財」(京都府宇治市)に参加しました。講師は龍谷大学教授の神田雅章先生です。
 黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)は、江戸時代初期に、中国福建省から渡来した隠元禅師が創建しました。このため、伽藍配置や建造物は中国風です。境内は広々としており、奈良の寺院にいるようなおおらかさを感じます。


 最初に「総門」を潜ります。中央を一段高くした牌楼(ぱいろう)式の門で、中国風寺院に参拝する気分が高まります。


 さらに進むと、二階建ての「三門」です。三間三戸と大きく、左右に裳階と山廊を備えています。


 三門を進めば、黄檗宗寺院にのみ見られる天王殿」で、玄関の役割を果たしています。


 内陣正面には、弥勒菩薩の化身とされる布袋坐像」が祀られています。
 この像の作者は、中国福建省から来日した笵道生(はんどうせい)です。隠元の信任が厚く、黄檗様の仏像を数多く残しています。


 布袋坐像の背面には、護法善神の「韋駄天立像」が祀られています。この配置は、清代に定着しました。


 笵道生作の韋駄天立像は、合掌した両腕の上に宝剣を横たえており、天王殿の像は日本の仏師が加わった工房で作られた可能性が高いそうです。


 さらに奥には、本堂「大雄寶殿」があります。


 ご本尊は「釈迦如来坐像」、両脇侍は「迦葉尊者立像」「阿難尊者立像」です。
 釈迦如来坐像の作者は京都の大仏師兵部ですが、中国の様式を良く吸収消化しているそうです。

 

 昼食は、中国風精進料理「普茶弁当」です。

 

 境内を案内いただくのは教学部長の吉野心源師で、通常は拝観できない場所も拝見します。
 「禅堂」の中央には「白衣観音坐像」「善財童子立像」「八歳龍女立像」が祀られており、いずれも笵道生作です。
 白衣観音坐像は乾漆作りですが、X線CT調査で内部に構造材が組み入れられていないことが判明したそうです。

 

 禅堂の隣にある「祖師堂」には、笵道生作の「達磨大師坐像」が祀られています。達磨大師坐像と言えば、奈良県王寺町の達磨寺のようにずんぐりとした体形で目を見開く姿が一般的ですが、この像は丈高な体形で目は半眼と対照的です。


 僧が食事をする「斎堂」には、笵道生作の「緊那羅王(きんならおう)菩薩立像」が祀られています。左手を振って左足を踏み出す姿は躍動的です。


 「斎堂」の隣にある「伽藍堂」には、笵道生作の「華光(かこう)菩薩倚像」が祀られています。寺院を守る伽藍神です。


 萬福寺の拝観を終えてから、近くの宝蔵院に移動します。

 
 宝蔵院は、仏典の集成「漢訳一切経」の開版を志した鉄眼(てつがん)禅師が、隠元から寺地を授かり建立した蔵板・印刷所です。
 重文「鉄眼版一切経版木」(48,275枚)を見学します。令和4年の年末まで、重文の版木を使って経典を刷っていたそうです。この版木は、明朝体と原稿用紙のルーツとなっています。

 

 版木の材料は、吉野山に生えていた山桜だそうです。


 収蔵庫には、小さな「韋駄天立像」が祀られており、兜に銅製のコイルを用いて宝珠と鳥を付けているのが特徴的です。


 本堂には、「鉄眼禅師倚像」が祀られています。
 鼻が大きく穏かな表情には、親しみを感じます。


 江戸時代の仏像については侮っていましたが、中国人仏師・笵道生の強い影響を受けて特徴のある仏像が作られていることを知り認識を改めました

2023年02月26日建造物:寺院歴史:近世・近代仏像:乾漆像, 木彫像

近畿文化会「古市古墳群を歩く②」(大阪府藤井寺市、羽曳野市)

 令和5年2月11日(土・祝)、近畿文化会「古市古墳群を歩く②(藤井寺市、羽曳野市)」に参加しました。講師は、大阪府文化財センターの森本徹さんです。
 古市古墳群とは、4世紀前半~6世紀前半に大阪府南部の藤井寺市・羽曳野市に築造された古墳群で、堺市の百舌鳥古墳群と合わせて世界文化遺産に指定されています。
 この古市古墳群に関して、森本さんは斬新な考えを持っておられます。その考えを聞きながら、北の津堂城山古墳から南に古墳を探訪します。

 

(1)大王墓が奈良盆地から百舌鳥・古市に移動したことに関して、①大和王権内で権力が移動したのではなく、②奈良盆地東南部を本拠とする有力者の 墓域が移動 しただけ。百舌鳥と古市は交互に造営されているので、一体のものと考える。
(2)治定が正しいかどうかは別として、 大王墓(天皇陵)が存在 したことは確実。
(3)①前方後円墳など 古墳の形は「家柄」 を、大きさは「権力」 を示す。
(4)前期の津堂城山古墳は前方後円墳(墳長210m)だが、 試験的に造営 したもので(二重の周濠、三段築成、龍山石の石棺)、成功したので本格的に墓域を移動。

 

 


(5)中期は、東側に応神天皇陵(墳長425m)など大型前方後円墳を造営。大王墓と匹敵する大きさの墓山古墳(225m)の存在から グループ指導体制 だったと推測。

 


(6)後期は、西側に仲哀天皇陵(245m)などを造営。墳丘を小さくする流れの中で小さくなっているが、 大きさは相対的なもの で、大王の権力が低下したのではない。

 

(7)鉢塚古墳は、仲哀天皇陵の中軸線上に90度回転した位置にあるので、陪塚と推定。


(8)後期は グループ指導体制から大王に権力が集中 したので大王墓に次ぐ古墳がなくなる。
 仁賢天皇陵は、北東を向いた墳丘長122mの前方円墳です。


 清寧天皇陵(白髪山古墳、115m)の同軸線上には、陪塚・小白髪山古墳(46m)があります。


 

 安閑天皇陵は、墳丘長122mの全歩後円墳で、近鉄古市駅の方向から見上げると大きく見えます。

 


(8) 白鳥陵(200m)の被葬者は倭建命ではないが、 大王墓 と推定。


 古市古墳群は十年ぶりですが、体系的な説明を受けながら歩いて理解が深まりました。

2023年02月11日古墳:前方後円墳歴史:古墳時代

朝拝式(奈良県川上村)

 令和5年2月4日(土)~5日(日)、(一社)かわかみ源流ツーリズム「後南朝の歴史を体感」(奈良県川上村)に参加しました。
 後醍醐天皇の吉野出奔(しゅっぽん)で始まった南朝は「南北朝の合一(ごういつ)」まで約60年間続きましたが、南朝復興運動「後南朝」は約90年続きました。後南朝の歴史は川上村で受け継がれており、その象徴が朝拝式(御朝拝(おちょうはい))です。
 朝拝式は長禄(ちょうろく)2(1458)年から絶えることなく毎年2月5日に執り行われており、今回で566回目になります。


◎事前講座(2月4日(土))
 前日の2月4日(土)午後、源流ツーリズムの佐藤充事務局長による概要説明の後、朝拝式保存会の下西昭昌総代長・春増公文監事を加えて座談会が行われます。
(1)朝拝式は、赤松氏に殺害された一宮(自天王(じてんのう))の遺品である重文「兜・胴丸金具・大袖」を御神体として崇(あが)める式典。
(2)朝拝式の名称は、三之公(さんのこ)の八幡平行宮(あんぐう)で行われた新年の朝賀拝礼の儀式を模していることに由来。
(3)565年間欠かすことなく行っていることが誇り。
(4)中心になる出仕人(殿様と呼ばれていた。)は、かつては筋目(特定の家)に限定していたが、式典を継続するために拡大。将来的には女性への拡大も検討。


◎朝拝式(2月5日(日))
 ホテル杉の湯を出発して、朝拝式が行われる金剛寺境内に向かいます。
 本堂の奥には、自天親王神社と遺品である重文「兜・胴丸金具・大袖」を収める宝物殿が向かい合わせに建っています。

 


 朝拝殿での支度を終えた出仕人が自天親王神社に向かいます。
 裃(かみしも)を着けた人が出仕人で、黒い着物を着た人が総代・副総代です。


 最初に、自天王を祀る自天親王神社で、修祓(しゅばつ)・祭文奉誦・玉串奉奠などの儀式が行われます。


 次に、向かい側の宝物殿前に移動して、「御朝拝の儀」が行われます。
 自天王の遺品である兜などを御神体として崇(あが)める式典です。
 出仕人は榊葉(さかきば)を縦向きに咥(くわ)えますが、これは、不用意に自天王の居場所を口にして殺害されたことを戒める意味があります。

 

 

 その後、「御陵参拝の儀」です。
 宮内庁は弟・二宮「河野宮墓」と治定していますが、川上村の人々は自天王の墓と信じており、「南帝自天皇陵」と彫った石碑が建てられています。


 念願の朝拝式に参列して、後南朝にかける川上村の人々の熱い思いを体感することができました。

2023年02月05日建造物:神社歴史:中世奈良県:吉野郡

岩橋千塚古墳群ガイドツアー「大谷山22号墳」(和歌山市)

 令和5年1月29日(日)、岩橋千塚(いわせせんづか)古墳群(和歌山市)のガイドツアーに参加して、非公開の大谷山22号墳の横穴式石室に入りました。


 岩橋千塚古墳群岩橋古墳群は紀直(きのあたい)系集団の墓域だと考えられています。岩橋型横穴式石室と呼ばれ、①板状の結晶片岩、②石棚・仕切石や石梁、③玄室前道等の特徴があります。


 大日山頂(141m)には墳長86mの前方後円墳・大日山35号墳があり、その北の大谷山頂(132m)にあるのが墳長68mの前方後円墳「大谷山22号墳」です。
 二つの山は和歌山城の大天守からはっきりと見えることから、逆に二つの古墳は平野部から大きく見えたことでしょう。


 大谷山22号墳の玄室は長さ4.1m・高さ3.2mで、2枚の石棚水平方向に取り付けられた1本の石梁があります。

 


 玄室は両袖式ですが、玄室前道・羨道は左寄りにあります。


 墳丘南側の別区(べっく)からは、様々な形の埴輪が出土しました。


 大谷山には樹木が生い茂っていますが、大日山は伐採されているので大日山古墳の墳長から北には大谷山が、西には和歌山市内が一望できます。

 

 

 和歌山城の大天守も見えます。


 大日山25号墳の玄室は、平成29年3月に見学しました。


 東方には墳長86~88mと岩橋千塚の中では最も大きい前方後円墳・天王塚古墳があります。玄室は5.9mと全国で二番目の高さで、2枚の石棚と8本の石梁で支えられています。こちらの石梁は垂直方向に取り付けられており、令和4年8月に見学しました。


 岩橋千塚古墳には小さな古墳群があり、被葬者は渡来系集団の墓域だと考えられています。
 前山A56号墳の3.88mの石室(羨道+玄室)は妙に落ち着きます。

 


 特徴のある岩橋千塚古墳群には、奈良の古墳とは違う魅力があります。

2023年01月29日古墳:円墳, 前方後円墳歴史:古墳時代トレッキング:トレッキング

宝満山(福岡県筑紫野市・太宰府市)

 令和5年1月19日(木)、宝満山(ほうまんざん、福岡県筑紫野市・太宰府市、標高829m)に登りました。


 大宰府の背後の四王寺山から北東に聳える姿を見て気になっていました。JR西日本「サイコロきっぷ」(5,000円)を買ったところ、1/9の確率の博多往復が当たり訪ねることができたのです。


 宝満山は古代から信仰の山として知られ、山中には山岳信仰に伴う遺跡が残されています。こうしたことから、平成25(2013)年、国史跡に指定されました。
 かつては「下宮」と呼ばれた山麓には玉依姫命(たまよりひめのみこと)を主祭神とする竈門(かまど)神社があり、参拝してから登り始めます。


 往路は正面登山道を利用します。
 7世紀後半から山頂や山中で祭祀が行われ、9世紀初頭には「竈門山寺」に最澄が来たとの記録があります。こうしたことから、「羊腸の道」と呼ばれる急なジグザク道ですが、石を積んで整備されています。

 

 一の鳥居は、宝満山に残る数少ない江戸時代の建築物です。


 さらに登れば、休堂跡です。近くには中世の山城「有智山城」の遺構もわずかに残っています。

 

 厳しい石段が続く場所は「百段雁木」と呼ばれています。


 途中には、儀式に用いる神聖な水を汲んだ「閼伽の井」があります。


 少し登れば「中宮」です。かつては最澄作と伝承される十一面観音を祀る講堂などの建物がありましたが、明治初期の神仏分離で取り壊され、今は石碑「竈門山碑」が建つだけです。


 ここで男道と女道に別れますが、左手の男道を進みます。


 途中に、三石が鼎立した「竈門岩」があります。宝満山は竈門山とも呼ばれましたが、その由来となった岩です。


 「袖すり岩」を過ぎれば、山頂はすぐです。


 山頂の「上宮」には礼拝石がありますが、社殿はコンクリート造りです。

 


 社殿の後ろにある巨岩から北を見下ろすと身がすくむ思いがします。


 座主跡のキャンプセンターに向かいますが、鎖を頼りに大岩を下りるので細心の注意が必要です。


 座主跡からは女道を進みますが、楽な道ではありません。


 途中の建物跡では、筑紫野市教育委員会が文化財調査を実施していました。


 中宮跡からの復路は、愛嶽山(おたけやま、439m)に向かいます。行者道と呼ばれるだけあり、急坂を下る厳しい道でした。


 愛嶽神社の社地は、鉄の鳥居が倒れ石段も壊れるなど寂しい状態です。


 ここからのんびりと山道を下り、出発地点の竈門神社に戻りました。
 トレッキング気分で登った宝満山ですが、国史跡に指定されただけあり充実した歴史探訪ができました。

2023年01月19日建造物:寺院, 神社歴史:中世, 古代, 近世・近代トレッキング:トレッキング

近畿文化会「北宇智周辺の古墳と史跡(奈良県五條市)」

 令和5年1月14日(土)、近畿文化会「北宇智周辺の古墳と史跡(奈良県五條市)」に参加しました。講師は、県立橿原考古学研究所研究顧問の泉森皓先生です。
 泉森先生は畿内の古墳研究をライフワークとしておられ、昨年は畿内の男山古墳群(京都府八幡市)を訪ねたので、今回は南端の近内(ちかうち)古墳群を中心に探訪します。

 

 泉森先生は、古墳の位置付けを考察するのに際して、道に着目されます。この視点によると、近内古墳群は、東を走る葛城山辺道(後の下街道)に巨勢(こせ)道や吉野道が合流し、西の金剛山麓は重阪(へいさか)峠道が走る位置、すなわち大和の入口に位置あります。そこで、この古墳群を築いたのは大和の入口部を守っていた一団である内氏(うちうじ)だと考えられます。


 近内古墳群の中心である「近内鑵子塚(ちかうちかんすづか)古墳」は、葛城山辺道と巨勢道が合流する地点のすぐ西・近内丘陵の最高所(213.7m)に位置する直径85m・高さ10mの大円墳で、周囲を空堀が巡っています。

 


 近内鑵子塚古墳の東にある「西山古墳」は、一辺54m・高さ8.0mの方墳で、箱式石棺の石材が神社の燈籠の部材として残っています。

 

 

 西にある「五條猫塚古墳」は一辺27mの方墳で、出土した蒙古鉢形冑などは五條文化博物館で展示されています。

 


 今井1号墳は、この地域で唯一の帆立貝型前方後円墳で、墳長は35mです。
 近くにある今井2号墳は円墳だと思われますが、未調査です。

 

 

 近内古墳群の最北端にある「塚山古墳」は一辺24m・高さ5mの方墳で、墳丘に登ってみると尾根を切断して作られたことが体感できます。
 この古墳について、泉森先生は、築造者は葛城氏が支配する馬見古墳群の豪族の次男以下であり、古墳を守る人々が近くに住んでいたと大胆な推理をされます。

 

 


 この地は隣接する紀伊国の強い影響下にあると思い込んでいたのですが、実際に数々の古墳を訪ねることにより、畿内の入口に当たる宇智国として重要な位置を占めていたことが体感できました。

2023年01月14日古墳:円墳, 前方後円墳, 方墳歴史:古墳時代奈良県:その他

吉野水分神社旧社地(奈良県吉野町)

 令和5年1月5日(木)、吉野水分神社旧社地(奈良県吉野町)を訪ねました。令和4年3月3日(木)のリベンジですが、今回は吉野町国栖出身の今西一郎さんと一緒なので、心強い限りです。近鉄大和上市駅から登山口までは吉野スタイルの磯﨑典央さんに自家用車で送っていただきます。


 いつもは登山口から右(西)に進んで「象の小川」に沿って進むのですが、今日は左(南)の林道を喜佐谷川に沿って進みます。



 途中で右(南西)に分かれる細い道が現れます。前回は本道に沿って真っすぐ進んだのが間違いでした。今回は、喜佐谷川の支流の右岸に沿って進みます


 少し進めば、「賜淵(たんばれぶち)」です。雨乞いの際に吉野水分神社の御幣を沈め石を詰めて祈ったと伝えられています。


 ここから川に沿って進むのですが、道が荒廃しています。


 砂防ダムに堆積した土砂の上を歩いて対岸に渡ります。

 

 斜面を登る林道があります。荒廃していますが、歩くのに支障はありません。


 植林の間から南には、青根ヶ峰(あおねがみね、858m)が見えます。
 万葉集で《神さぶる 岩根こごしき み吉野の 水分山(みくまりやま)を 見れば悲しも》(巻七・1130)と詠まれた水分山です。


 さらに北に登れば、平らに削られた土地が点在する「広野千軒跡」です。この辺りに、吉野水分神社旧社地があったと伝えられています。


 この地は、南に神奈備山「青根ヶ峰」が聳え、手前を喜佐谷川の支流が流れています。
 吉野水分神社の主祭神は、水を分かち与える天水分大神(あめのみくまりのおおかみ)ですが、現在の鎮座地から水分山(青根ヶ峰)は見えず、近くに川も流れていません。不思議に思っていたのですが、かつてはこの地に鎮座していたとすれば納得できます。


 林道を西に登れば舗装された道に出て、この道を進めば高城山です。


 ここから舗装道路を北西に進み、吉野水分神社お礼の参拝をしました。

 

2023年01月05日建造物:神社歴史:古代奈良県:吉野郡

三木城(兵庫県三木市)

 令和4年12月24日(土)、三木城(兵庫県三木市)を探訪しました。


 三木城は、別所氏が15世紀後半、三木台地北端に築いた丘城です。16世紀後半、羽柴秀吉を主将とする織田信長軍による兵糧攻め「三木の干し殺し」で落城しました。
 その後、改修されて存続しましたが、17世紀前半の一国一城令により廃城となりました。


 今回の探訪のメインは、「二の丸跡発掘調査現地説明会」です。説明されるのは、昨年、『秀吉の播磨攻めと城郭』(戎光祥出版)を出された金松誠さんです。

 


 今回の調査は三木市役所上の丸庁舎の基礎部分を撤去することに伴うもので、『播州三木古城図』(江戸時代初期)に描かれているL字状の堀跡の存在を確認するのが目的です。


 T2地点からは堀の端の痕跡を、T3地点からは深さ2m・長さ10m以上の空堀跡が発見されました。T4地点から遺構は見つかりませんでしたが、これは堀がなかったことを確認するためのもので予想どおりの結果だそうです。

 

 

 これらの調査の結果、二の丸に入るには2回曲がる必要がある桝形虎口が形成されていることが判明しました。
 桝形虎口は戦国期にはなく、織豊系城郭の特徴の一つであることから、落城後に形成されたことがわかります。


 また、T2地点からは16世紀後半の軒丸瓦が出土したことから、この時期に空堀が埋められたと考えられます。


 このように、石垣でなく堀によって桝形虎口が形成されていることから、三木城は近世城郭への過渡期の状況を示していることが明らかになりました。

 三木城の南東には、城主の弟の居城「鷹尾山城」がありましたが、三木市の施設建設に伴って東部分が消滅しました。今は、西部分に堀切や主郭が残っています。

 


 さらに南には「宮ノ上要害」がありましたが、浄水場などの建設に伴って遺構は消滅しました。

 


 久しぶりに訪れた三木城ですが、じっくり探訪すると意外に奥深いことがわかりました。

2022年12月24日城郭:その他歴史:中世兵庫県:播磨

近畿文化会「鴨東の古代寺院と鳥辺野」(京都市)

 令和4年12月17日(土)、近畿文化会「鴨東の古代寺院と鳥辺野(京都市)」に参加しました。講師は、近畿大学教授の網伸也先生です。
 平城京周辺には陵墓を除いて大規模な葬送地は形成されませんでしたが、平安京周辺では化野(あだしの)・鳥辺野(とりべの)・蓮台野(れんだいの)を始めさまざまな葬送地が形成されました。今回は、平安京の南東に近接する鳥辺野を訪れます。


 鳥辺野が平安京の都市的空間に変貌した理由について、網先生は、鳥辺野には多くの寺院が存在しており、都市である平安京と外部の空間とを結界する役割を果たしていたことにあるとされます。そして、その背景には、平安京に遷都した桓武天皇が井上(いのえ)内親王(父・光仁天皇の皇后)や早良(さわら)親王(同母弟)の「怨霊」に悩まされ、鎮魂するために寺院を創建したことがあると考えられます。
 六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は、平安遷都以前から存在していた古代寺院で、寺伝によると開基は大安寺(奈良市)の慶俊(けいしゅん)です。平安時代以降は、あの世とこの世の分岐点「六道の辻」に佇む寺として知られるようになりました。


 歌人として有名な小野篁(たかむら)が堂塔伽藍を整備したと伝えられ、小野篁作と伝えられる閻魔大王像などが安置されています。
 なお、写真撮影禁止の貼紙があるのですが、ご住職から許可をいただいて撮影できました。


 閻魔大王像があるのは、小野篁が閻魔庁の第二冥官(次長)だったとの伝説があるからです。


 こうしたことから、境内には、篁が冥界へ行く時に使った井戸、帰る時に使った「黄泉(よみ)がえりの井戸」があります。


 嵯峨野にある愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)は、この鳥辺野で創建されました。


 近くにある法観寺の重文・五重塔「八坂の塔」の内部を拝見します。鎌倉時代の再建で、飛鳥時代の礎石に乗っている心柱は一回り小さいことがわかり、舎利孔の石蓋も見えます。

 


 午後は、子嶋寺(奈良県高取町)の僧・延鎮(えんちん)が創建した清水寺を拝観した後、鳥辺野の南端にあった藤原氏葬送の地に移動します。


 一条天皇皇后定子鳥戸野陵に参拝します。藤原定子(ていし)は藤原道長の姪で、清少納言が仕えていたことで有名です。

 
 その後、伝藤原長家・忠通・慈円宝塔に参拝します。この地に藤原氏の火葬場があり、その供養塔です。


 最後は、皇室の菩提寺・香華院の泉涌寺(せんにゅうじ)に参拝します。重文「大門」から見下ろした位置に重文「仏殿」など中心伽藍があります。


 聖明殿は、明治初期に宮内省が再建したもので、御所のような造りです。


 本坊には、一般の門とは別に勅使門があります。


 名前だけ知っていた鳥辺野の地を実際に歩いてみて広大な葬送地だと体感しました。

2022年12月17日建造物:寺院歴史:中世, 古代

安土城跡(滋賀県近江八幡市)

 令和4年12月14日(水)、国特別史跡「安土城」(滋賀県近江八幡市)に行きました。


 織田信長が天正7(1579)年に安土山(99.7m)に築いた平山城ですが、「天主」を始め建物は残っていません。

 

 安土城には、①城域全てが石垣、②本丸の中心に高層建築の天主、③全ての建物が瓦葺、と三つの特徴があり、日本城郭の革命とも言われています。


 発掘調査結果に基づき復元整備された石段道「大手道」を北に進みます。この道に関して、滋賀県立大学名誉教授の中井均先生は、通常の登城道でなく、信長や賓客の登城時のみに使われる特別な通路だったとされます。


 山麓に二段に構えられた壮大な屋敷地があり、「伝羽柴秀吉邸」と呼ばれていますが、中井先生は、信長の居館だったとされます。


 二の丸には10mの高石垣があり、隅部は石材の長辺と短辺を交互に積む算木積となっています。


 本丸には御殿の礎石が残ることから巨大な本丸御殿が建っていたことがわかり、天皇の行幸などに備えた特別な空間だったと考えられています。


 本丸の北隅には、不等辺多角形形の天主台があります。


 天守台には穴蔵と呼ばれる地下室があり、外観五重・内部七階と巨大な高層建築の天主が建っていました。


 天主の外観を伝える絵図や絵画は全く残されておらず、「信長の館」に復原されている上層部分は推測によるものです。


 天主台から北と西に琵琶湖が望め、陸路だけでなく湖上交通の要衝の地を選んだことがわかります。


 本丸の南西にはかつて摠見寺があり、本堂跡から西には琵琶湖が見えます。


 登城道には、重文「二王門」「三重塔」が残っています。

 


 この登城道は西南の百々橋から始まっており、中井先生は、これが通常の登城道だったとされます。


 百々橋がある城下町は、新宮神社活津彦(いくつひこ)神社のそれぞれに向かう参道を基準として町割が行われています。二つの神社は築城以前から存在しており、信長は旧集落を活かしつつ城下町を築いたと考えられています。
 二つの神社に初めて参拝しましたが、いずれも立派な社殿で驚きました。

 

 

2022年12月14日建造物:寺院城郭:平山城歴史:中世

近畿文化会「湖東三山の建築」(滋賀県甲良町→愛荘町→東近江市)

 令和4年12月4日(日)、近畿文化会「湖東三山の建築」(滋賀県)に参加しました。講師は、京都大学教授(建築史)の富島義幸先生です。

 

 最初に、西明寺(さいみょうじ、甲良町)を訪ねます。

 

 国宝「本堂」は、鎌倉時代前期の創建時は正面五間・奥行五間でしたが、南北朝時代に正面七間・奥行七間に大改造されました。 建て替える方が簡単なのですが、柱や組物などを一間分ずつ外側に動かすことにより、部材を再利用しているのです。そのため、五間の時に外部を向いていた柱の内で元の位置を動いていないものからは風蝕(風雨に曝された跡)が確認できます。

 

 さらに、特別に国宝「三重塔」の内部に入れていただきます。


 本尊の大日如来坐像を囲む四天柱には金剛界の菩薩像が描かれています。

 

 壁面には法華経の絵解きが描かれており、初層の「連子窓(れんじまど)」は見せかけの窓です。

 

 昼食後、金剛輪寺(愛荘町)に向かいます。国宝「本堂」は、正面七間・奥面七間と西明寺と同規模です。
 外観は端正ですが、内部に入ると直径68cmの太く高い柱が立ち並んでいます。柱には手斧(ちょうな)の跡が残るなど荒々しい印象で、金峯山寺「蔵王堂」(奈良県吉野町)を連想します。

 

 重文「三重塔」は、初層の肘木が全て通肘木(とおしひじき、桁を支える組物)なのが特徴です。


 八足門の重文「二天門」は組物に腰組の形式が残ることから、室町時代の創建時は二階を備えた楼門だったことがわかります。


 最後は、百濟寺(ひゃくさいじ、東近江市)です。
 重文「本堂」は、正面五面・奥面五面と先の二寺に比べて小ぶりです。
 外陣には化粧垂木(たるき、屋根を支える部材)がないため内部には柱がなく、さらに天井が貼られていないので、すっきりした印象を受けます。


 参道からは、イエズス会宣教師のルイス・フロイスが「地上の天国」と褒めた庭園の築山が見えます。


 冨島先生が“滋賀県は中世寺社建築の宝庫”と言われていたことが、湖東三山、特に西明寺で実感できました。

2022年12月04日建造物:寺院歴史:中世

桜井市観光協会「わくわくドキドキ 大和桜井の古墳探訪!」(奈良県桜井市)

 令和4年11月27日(日)、桜井市観光協会「わくわくドキドキ 大和桜井の古墳探訪!」に参加しました。今回の「浅古(あさご)周辺の古墳探訪編」で7回目となり、回を追うごとにマニアック度を増しています。案内は桜井市文化財課長の橋本輝彦さんです。


 最初に訪ねるのは、5世紀末~6世紀初頭に築造された全長50mの前方後円墳「兜塚古墳」です。


 西の後円部には本来の埋葬施設があったはずですが、発見されていません。
 一方、前方部には阿蘇馬門石の刳貫式家形石棺が露出しており、盗掘口から蓋石の内側を見るとピンク色が確認できます。

 


 次に訪れるのは、7世紀前半に築造された一辺26mの方墳「秋殿南古墳」です。


 裏側の草が刈られているので大きな掘割が確認でき、鳥見山南麓の尾根を造成した大工事だったことが分かります。
 橋本さんからは、“横穴式石室に入って喜ぶだけでなく、墳丘がどのように造成されたかを理解することが重要”と説明があります。


 玄室は大型石材の2段積み・羨道は1段積みで、終末期古墳であることが分かります。


 「こうぜ1号墳」は、6世紀後半に築造された全長50mの前方後円墳で、前方部と後円部に石室があります。
 後円部にある西石室は全長10.9mで、長さ5.4mの玄室に入るには土砂が流入して低くなった長さ5.5mの羨道を這って進む必要があります。


 前方部にある東石室は全長9.9m(玄室4.7m・羨道5.2m)と少し小さく、西石室と同じ石工集団によるものです。


 なお、この古墳は橋本課長が必死で事業者を説得して破壊を免れたもので、墳丘から北を見ると危機的な状況にあったことが理解できます。


 「伊丹宮古墳」は、橋本課長も今回の古墳探訪で初めて入る古墳だそうです。


 直径15mの小さな円墳ですが、背面の尾根を大幅に削平していることから、下から見ると50m程度の大きな古墳として認識されるそうです。墳丘の大きさだけでなく周辺の造成状況を見ることが重要だと体感できます。


 石室の羨道は半壊しており、玄室の長さ3.75m・幅2.33m・現在の高さ2.53mです。


 「舞谷2号墳」は、榛原石をレンガ状に加工して漆喰で固めながら積み上げた磚積式石室です。当時の漆喰の塊も残っています。


 舞谷古墳群は鳥見山山麓の小さな尾根ごとに1基ずつ築かれており、裏に回ってみると尾根を切って造成したことが理解できます。


 昼食後は、桜井市が誇る赤坂天王山古墳を素通りして、直径13~18mの円墳「カタハラ1号墳」に向かいます。今回の隠し玉で、特別に石室を見学できましたが、今は崩壊を防ぐために内部に土嚢を積んで閉鎖されています。


 全長6.4mの石室の特徴は石積みにあり、奥壁と側壁の取り付き部分は①下半分は直角に接続、②上半分は隅角を消すように積む隅三角持ち送りとなっています。前壁と右側壁の取り付きも同様で、天井の面積が非常に小さくなり長楕円形に見えます。窮窿(きゅうりゅう)状横穴式石室と言うそうです。
 二度と入れない石室の中で、平成11年に発掘調査された橋本課長から直々に説明を受けると言う贅沢な時間が過ごせました。

 


 今回の隠し玉・超目玉はカタハラ1号墳でしたが、伊丹宮古墳で周辺の造成状況の重要性を再認識するなど、古墳の奥深さを体感した一日でした。

2022年11月27日古墳:円墳, 前方後円墳, 方墳歴史:古墳時代奈良県:その他

近畿文化会「聖武天皇の生涯・治世」(奈良市)

 令和4年11月26日(土)、近畿文化会「聖武天皇の生涯・治世」(奈良市)に参加しました。講師は帝塚山大学教授の鷺森浩幸先生です。


 午前中は奈良市北部の陵を見学します。


 最初に、聖武天皇の祖母・元明天皇の陵とされる「奈保山東陵」と、伯母・元正天皇陵とされる「奈保山西陵」に行きます。
 江戸時代中期までは西の佐紀盾列古墳にあるウワナべ古墳・コナベ古墳とされていましたが、元明天皇陵碑が発見されたことから江戸時代末期の「文久の修復」で天皇陵と治定されました。

 


 「皇太子那富山(なほやま)墓」は、聖武天皇と光明皇后との間に生まれた皇子で早世した某王(ぼうおう)の墓だと考えられています。
 なお、「基王(もといおう)」とする説もありますが、鷺森先生は“皇太子なら王でなく親王と呼ぶはずだ”と否定されます。


 午前中の最後は「聖武天皇佐保山南陵」と隣接する「皇后光明子安宿媛佐保山東陵」です。
 一つの丘陵を切断して二つに分けられており、裏山にはかつて眉間寺や多聞山城がありました。


 

 午後は奈良市の中心部を歩きます。


 興福寺は藤原不比等が創建しましたが、国宝「北円堂」不比等の一周忌に元明・天正天皇の命により長屋王が建てました。
 長屋王は天武天皇の皇子・高市皇子の子で左大臣を務めましたが、「長屋王の変」で自殺に追い込まれました。①某王の立太子に反対し、②光明子の立后に反対したために仕組まれたと考えられています。


 「頭塔(ずとう)」は東大寺の僧・実忠が造立した土塔ですが、藤原広嗣の怨霊により飛び散った玄昉の頭を治めた頭塔だと言い伝えられて来ました。
 藤原広嗣は、不比等の三男・宇合の長子ですが、聖武天皇の信任が厚い玄昉などと対立して左遷されたので乱を起こし佐賀県で斬殺されました。


 その広嗣を祀るのが鏡神社で、佐賀県唐津市の鏡神社から勧請されました。


 最後は、聖武天皇の病気平癒を祈って光明皇后が創建した新薬師寺です。
 金堂「七仏薬師堂」は南の奈良教育大学構内にあり、江戸時代再建の東大寺大仏殿と同規模でした。


 現在の国宝「本堂」は、物品の管理なども行う食堂の役割を担っていたと考えられます。

 

 何度も訪れたことのある場所ですが、聖武天皇と言う視点から見学するのは新鮮でした。

2022年11月26日古墳:その他歴史:古代奈良県:奈良市

奈良ファン倶楽部「三輪山麓の神宮寺をめぐる」(奈良県桜井市)

 令和4年11月13日(日)午後、奈良ファン倶楽部「三輪山麓の神宮寺をめぐる」(桜井市)に参加しました。講師は、桜井市文化財課長の橋本輝彦先生です。
 神宮寺とは神社の境内に建てられた寺院のことで、大神神社には平等寺・大御輪寺・浄願寺と三つの神宮寺がありました。いずれも明治時代初期の神仏分離政策で廃寺となり、その跡をめぐります。


 大神神社の祭神「大物主神」と神宮寺の本尊「大日如来」を同一視するのが三輪神道です。
 建立の経緯から、神宮寺は神社の下に位置すると思い込んでいたのですが、橋本先生から“神宮寺には別当が置かれ、神社を支配下に置いていた”と説明がありました。
 
◎平等寺跡
 三つの神宮寺のうちで別当寺の役割を担っていたのは、鎌倉時代に創建された「平等寺」です。東西490m・南北330mと広大な敷地には本堂・楼門・鐘楼堂・護摩堂などが建ち、その下には12の塔頭がありました。
 本堂などが建っていた場所は空き地となり、本堂跡と思しき場所の前には小さな祠「春日社」が建っているだけです。

 


 塔頭跡にも、石垣が残るだけです。

 

 なお、山の辺の道沿いにある三輪山平等寺は明治時代に創建された曹洞宗の寺院で、平等寺との関係はありません。

◎大御輪寺跡
 聖林寺の国宝「十一面観音立像」がおられたことで有名な「大御輪寺(だいごりんじ、おおみわでら)」ですが、この名称になったのは鎌倉時代のことで、奈良時代に創建された時は「大神寺(おおみわでら)」と呼ばれていました。
 今は、若宮社(大直禰子(おおたたねこ)神社)となっています。


 創建時期が最も古いにも関わらず別当寺とならなかった理由について、橋本先生は“寺院より神社としての性格が強くなったから”だと説明されます。
 確かに、江戸時代の『大和名所図会』を見ても、「大三輪寺 若宮」と並列で書かれています。


 なお、境内を発掘調査した結果、7世紀に三輪氏が築いたと思われる居館跡が発見されました。 

◎浄願寺跡
 鎌倉時代に創建された尼寺で、今は山門に向かう石段や土塀が残るだけです。
 なお、土塀の一部は「ネコカベ」と言う珍しいものだそうです。


 

 雨の中の廃寺跡めぐりでしたが、①平等寺跡と浄願寺跡に初めて行ったこと、②神宮寺の平等寺は別当寺として大神神社を支配していたと知ったことが大きな成果でした。

2022年11月13日建造物:寺院, 神社歴史:中世, 古代, 近世・近代奈良県:その他

置塩城跡(姫路市)

 令和4年11月11日(金)、自宅から北に10km程のところにある国指定史跡「置塩(おきしお)城跡」(姫路市夢前町)に行きました。城山(371m)の山上に位置する山城で、東西600m・南北400mと播磨最大級の規模です。1469(文明元)年に赤松政則が築城してから五代にわたって赤松氏の居城となりました。

 

 

 当初は山麓の居館などに拠点機能がありましたが、戦国時代に大規模な改修が行われて拠点機能が山城に移行したと考えられています。

 

 縄張りは東西に大きく分かれており、東側が本丸などの主郭曲輪群です。


 本丸の北・東・南は断崖絶壁で天然の要塞となっており、本丸から南には瀬戸内海も見えます

 


 西側の二の丸・三の丸では庭園や礎石建物があったことが確認されました。このことから、二の丸には城主の居館が、三の丸には迎賓館があったと推定されています。

 

 

 二の丸と三の丸の間には太い道があり、二の丸へはここから坂道を登る構造だったと考えられています。


 三の丸の北には扇形の北曲輪群があります。


 三の丸の西にある西曲輪群に沿って大手道があったと推定されているので進んでみましたが、大手門跡で通行止めとなっていました。

 

 

 なお、姫路城「との一門」(通常は非公開)には、置塩城の大手門だったとの伝承があります。


 三の丸の南にある曲輪には、大石垣が残ります。


 南北に延びる尾根には防塁となる南曲輪群が広がり、高い切岸が確認できます。


 じっくりと歩いてみて、地元にある置塩城の立派さを再確認しました。

2022年11月11日城郭:山城歴史:中世兵庫県:姫路市トレッキング:トレッキング

近畿文化会「牽牛子塚古墳と飛鳥の陵墓をめぐる」(奈良県明日香村)

 令和4年11月6日(日)、近畿文化会の臨地講座「牽牛子塚古墳と飛鳥の陵墓をめぐる」(明日香村)に参加しました。講師は阪南大学教授の来村多加史先生です。


 今回は、特に地形の面から陵墓を考えます
 来村先生は、7世紀に築かれた終末期古墳の立地場所に関して、次の四類型に分類されます。

(1)E字型:両側にやや長い尾根が突き出し、Eに似た地形の中央に立地。
(2)谷側部密着型:谷の側部にあって斜面にもたれるように立地。
(3)谷奥部密着型:谷の奥にあって斜面にもたれるように立地。
(4)谷奥部突出型:谷奥の尾根上を選ぶ立地。

 


 最初に訪れる真弓地区にある岩屋山古墳は、「(1)E字型」です。切石積の横穴式石室にばかり気を取られていましたが、墳丘に登ってみると確かに南北に西から延びる尾根が見えます。

 



 次に向かう牽牛子塚古墳は、八角墳であることに加えて、最高級の「(4)谷奥部突出型」の選地をしていることから、斉明天皇陵であることが確実視されます。
 谷の最奥部でなく北へ偏った場所にあるのは、屈折地点で初めて目の前に見えることを計算してのことです。

 


 午後に訪れる天武・持統陵も「(4)谷奥部突出型」の選地をしており、西に向かって開けた底が浅く懐が深い谷全体を支配しています。

 

 

 

 天武・持統天皇の孫の文武天皇墓である可能性が高い中尾山古墳も「(4)谷奥部突出型」の選地をしており、北西に開けた谷を支配しています。



 最後に訪れる高松塚古墳は「(3)谷奥部密着型」の選地をしており、支配する谷が狭いことからも、天武・持統陵や中尾山古墳よりは格下であることがわかります。

 

 

 実際に現地を歩くことにより、終末期古墳の立地場所が持つ意味が重要であることが体感できました。

2022年11月06日古墳:その他, 円墳歴史:古代奈良県:その他

毎日新聞旅行「大杉谷から大台ヶ原へ」(三重県大台町→奈良県上北山村)

 令和4年10月22日(土)~23日(日)、毎日新聞旅行の登山ツアー「大杉谷から大台ヶ原へ」に参加しました。
 大台ヶ原は奈良県と三重県の境にある標高1,500m程度の台地で、吉野熊野国立公園に属しています。大台ヶ原ドライブウェイを利用して数回訪れているのですが、北東の三重県大台町から歩くのは初めてです。
 全長14.1km・高低差1,415mの行程なので、途中の山小屋で一泊します。


◎10月22日(土)
 午前7時、JR大阪駅前をマイクロバスで出発して、昼前に林道終点の登山口に到着します。
 これから歩く大杉渓谷は深い谷で、富山の黒部渓谷・新潟の清津渓谷とともに日本三大渓谷に数えられています。


 岩を削った岩壁道を歩きますが、特に危険な場所には鎖が設置されています。河原に出て振り返ると、大日嵓(だいにちぐら)が見えます。


 山道を進めば、対岸に千尋滝(せんじんだき)が見えてきます。落差が135mと大杉渓谷で最大の滝だそうですが、木が生い茂っていて全体は見えません。


 さらに進んで谷に下りれば、両岸が切り立ったシシ淵で、奥には滝が見えます。

 

 平等嵓吊橋は全長82mと大杉渓谷で最も長く、平成24年に架け替えられました。


 さらに進み、午後5時前に「桃の木山の家」に到着します。
 たくさんに人が泊っており、夕食は午後6時20分、消灯は午後8時です。

 


◎10月23日(日)
 午前5時30分から朝食・午前6時30分に出発します。歩行距離は9.3kmですが、厳しい登りがあります。


 岩壁道を進むと、日本百名滝・七ツ釜滝です。落差80mで、数段に分かれたそれぞれに釜を持つそうですが、全体は見えません。

 

 

 鎖を持ち足元に注意しながら岩壁道を歩みます。


 平成16年の台風21号により岩壁道が崩壊して通行できませんでしたが、復旧工事により平成26年から歩けるようになりました。

 

 崩落地を過ぎれば、落差40mの光滝が姿を現します。


 さらに過ぎれば、堂倉滝です。落差は20mですが、大きな釜には水が満々と湛えられています。


 ここから、1時間ほど急な尾根を登れば林道で、その先で昼食です。
 昼食後、シャクナゲ坂・シャクナゲ平と標高差600mを登ります。
 ブナ林を登り切れば山頂です。

 

 

 晴れており、日出ヶ岳(1,695m)の展望櫓からは、大峰山脈や台高山脈だけでなく、尾鷲の海岸線も見ることができました。

 

 さすがに疲れましたが、天候にも恵まれ充実した登山を楽しむことができました。 

2022年10月22日奈良県:吉野郡トレッキング:トレッキング

飯盛城跡(大阪府四条畷市→大東市)

 令和4年10月12日(水)、飯盛城跡(大阪府四条畷市・大東市)を探訪しました。


 飯盛城は、戦国時代末期、芥川山城(高槻市)から移った三好長慶が現在の形に大改修しました。
 4月に芥川山城(大阪府高槻市)に登ったので、飯盛城にも登りたいと思っていました。

 


 飯盛城は、金剛生駒国定公園の北に位置する飯盛山(標高314m)に築かれた山城で、東西400m・南北700mと日本有数の規模を誇り、令和3年10月には国史跡に指定されました。
 城跡は、防御空間の北エリア(四条畷市)生活空間の南エリア(大東市)に分かれており、北側の四条畷神社(祭神は楠木正成の子・正行(まさつら))の横から登ります。

 

 急峻な坂を登り切れば、眺望270°スポットで、西南には「あべのハルカス」が見えます。


 

 大きな堀切(尾根を切断した空堀)を過ぎれば、長慶が埋葬されたと伝えられる御体塚郭です。

 


 御体塚郭の東には大きな石垣が残ります。本来の登城口だった東側には多くの石垣が残り、威容を見せつけるためのものだったと考えられています。


 さらに進めば高櫓郭です。ここからの眺望は特に素晴らしく、西には明石海峡大橋、北西には万博記念公園「太陽の塔」が見えます。


 

 高櫓郭の周囲は石垣で築かれており、東側には立派な石垣群が残ります。


 高櫓郭を南に下れば、土橋が架けられた堀切があります。

 

 さらに南に進めば、居住空間「千畳敷」で、土師皿などが出土したそうです。


 その先は南丸で、石垣で構えられた虎口(こぐち、出入口)があります。
 草が生い茂っており、畝状竪堀は確認できませんでした。

 


 城跡を出てからは、七曲りコースを歩き、慈眼寺(野崎観音)を経てJR野崎駅に向かいます。


 飯盛城の大きさに驚いた一日でした。

2022年10月12日城郭:山城歴史:中世トレッキング:トレッキング

吉野ビジターズビューロー「吉野杉を五感で感じる旅」(奈良県川上村→吉野町)

 令和4年10月1日(土)、吉野ビジターズビューロー「吉野杉を五感で感じる旅」に参加しました。案内は、吉野中央森林組合代表理事の坂本良平さんです。


 最初に、川上村下多古に行き、樹齢400年の大径木を見ます。


 一帯にはたくさんの大径木が生えており、木漏れ日が神々しい雰囲気を醸しだしています。

 

 車中では、坂本さんから、(1)吉野林業と呼ばれるのは川上村・黒滝村・東吉野村、(2)この地域の材木が初めて外に出たのは豊臣秀吉の伏見桃山城築造時、(3)かつて伐採された材木は筏で吉野川・紀ノ川を下って和歌山で取引、(4)昭和初期に吉野町に取引・加工を行う吉野貯木が開設等の説明があります。
 吉野町に戻り、コミュニティハウス「吉野杉の家」を見学します。
 2016年に建設されましたが、今ではすっかり光景に馴染んでいます。


 1階の内装は吉野杉2階の内装は吉野檜と凝った造りです。

 


 吉野中央木材では、専務の石橋さんに案内いただき、製材作業の実演を見ます。

 

 大切に育てられた吉野杉は丁寧に加工されますが、驚くほどの安さです。
 日本の林業を守るためには、適正な価格設定が必要だと感じました。


 最後は、美吉野醸造です。
 2011年、60年ぶりに杉桶を使って醸造する「木桶復活プロジェクト」が始まり、「百年杉」として販売されています。

 

 杉桶を使った酒造りは難しいそうですが、今では杉桶の数も増えています。


 (1)生えている大径木、(2)吉野杉・檜を使った建物、(3)製材作業、(4)杉桶を使った日本酒造りと多彩な視点から見学することにより、吉野杉の魅力を再認識しました。 

2022年10月01日歴史:近世・近代奈良県:吉野郡

近畿文化会「幻の宮斎宮をめぐる」(三重県明和町)

 令和4年9月17日(土)、近畿文化会「幻の宮斎宮をめぐる(三重県明和町)」に参加しました。講師は、県立斎宮歴史博物館の榎村寛之先生です。


 古代から中世、未婚の皇女が斎王となり、天皇に代わって伊勢神宮に奉仕する「斎王」(さいおう)の制度がありました。


 「斎宮」(さいくう)とは、斎王が暮らした宮殿や官衙(役所)があった宮のことです。


 昭和54年に国史跡に指定されており、その広さは東西2㎞・南北700m・面積137haに及びます。


 発掘調査の結果、西側に飛鳥~奈良時代の斎宮、東側に平安時代の斎宮があったことが判明しました。


 東側は「さいくう平安の杜」として整備され、平安時代の建物が復元されています。

 


 平安の杜の南側で竹神社を囲む大型の柵列が発見されたことから、ここに斎王が住む内院があったと推定されています。


 境内には水が湧く池があり、御殿の池泉だった可能性があります。


 午後は、伝承地二箇所を訪れます。
 最初は、「業平松」です。
 在原業平を主人公とした『伊勢物語』の第69段「狩の使」は、業平と斎王・恬子(やすこ)内親王の秘密の恋を述べています。そして、別れの場面の第71段では、斎王が隣国へ行く業平を恨んで「大淀の松・・・」と詠みます
 その場所がここだとの伝承があり、三代目の業平松が植えられています。


 大淀には砂浜が広がり、斎王は9月の神嘗祭の禊をこの地で行いました。


 最後は平安時代の「隆子王女の墓」です。斎宮で逝去した斎王は二人だけで、その一人です。墓に治定されたのは明治に入ってからで、本当の墓かどうかは定かではありません。


 斎宮を訪問したのは4回目ですが、もっと斎王伝承地を訪ねたいと思いました。

2022年09月17日歴史:古代

一乗谷城・一乗谷朝倉氏遺跡(福井県福井市)

 令和4年9月13日(火)、国の特別史跡「一乗谷城」「一乗谷朝倉氏遺跡」を訪れました。
 JR西日本「サイコロきっぷ」を買ったところ行先が福井になったからです。


 JR「一乗谷駅」から南に30分程度歩くと、東・南・西が山に囲まれた一乗谷です。
 ここに残るのが、五代100年にわたって越前一国を治めた戦国大名・朝倉氏の城下町です。
 谷が最も狭い地点には長さ38m・高さ4mの城門「下城戸(しもきど)」が築かれました。


 さらに南に進むと、紺屋・数珠屋・医師などの町屋が並んでいた「平面復原地区」です。


 一乗谷で最大の支谷「八地谷(やちだに)」は「八地千軒」と言われ、谷の奥まで屋敷が立て込んでいました。


 さらに南に進めば「復原町並」で、武家屋敷や町屋が並んでいた様子が再現されています。


 南北に走る道路に面して武家屋敷群が並びますが、西の上級武家屋敷群は4本柱の薬王門で井戸が4つ、東の中級武家屋敷群は2本柱の棟門で井戸は二つと格式が違います。



 東に移動して、朝倉義景の妻「小少将」の館だった「諏訪館跡庭園」に行きます。


 一乗谷城へは、朝倉家初代・孝景の墓「英林塚」を通る「英林塚ルート」で登ります。


 大きな岩が転がっていて、歩きにくい部分もあります。


 一乗谷城は、朝倉氏が戦国大名へと成長を遂げるに従って順次整備・格調されたと考えられており、一乗城山(475m)を中心に東西440m・南北620mの範囲に展開しています。


 最初に到達する曲輪群は谷部の削平地を主体としていて、恒常的に利用される建物があったと考えられています。ここには、城内最大の「千畳敷」や「観音屋敷」があります。

 


 宿直(とのい)からは、三国湊や福井平野まで見渡せます


 千畳敷から南に進めば、一の丸・二の丸・三の丸です。それぞれの曲輪は独立性が高く堀切(尾根を切断した横堀)で分断されています。

 

 一乗谷城最大の特徴は、畝状空堀(うねじょうからぼり、竪堀を連続して並べたもの)群の多さにあります。3月に来た時は雪が積もっていて確認できたのですが、今の時期は草が生い茂っていてよく分かりません。


 一の丸は、楕円形で広さ1,100㎡で、周囲には空堀がめぐっています。


 二の丸は、楕円形で広さ570㎡で、幅16.5mの大きな堀切があります。


 三の丸は、南北110mと細長くのびる曲輪で、北曲輪と堀切によって区画された広さ430㎡の中央曲輪は一乗城山の山頂に築かれています。


 千畳敷まで戻り、「馬出(うまだし)ルート」で下山します。
 このルートは、大手道だった可能性も指摘されており、そう思ってみれば痕跡らしきものもあります。


 途中には、馬出地区を北西に望む「小見放城(こみはなちじょう)」がありました。

 

 暑いなか、一乗谷朝倉氏遺跡を見学した後、一乗谷城に登るというハードな行程でしたが、麓の居館と山城との関係を体感できたような気がしました。

2022年09月13日城郭:山城歴史:中世トレッキング:トレッキング

吉野ビジターズビューロー「能楽師と行く吉野の謡蹟巡り」(奈良県吉野町)

 令和4年9月11日(日)、吉野ビジターズビューロー「能楽師と行く吉野の謡蹟巡り」に参加しました。講師は京都観世流シテ方の松井美樹さんです。
 浄見原神社や勝手神社は、5年前の9月に吉野ビジターズビューローが行ったツアーでも訪れて、能楽研究者の池田淳先生から説明を受けました。

 今回は能楽師の方から一味違った説明が聴けるものと期待して参加したところ、期待以上の成果がありました。資料として、謡本(うたいぼん)の該当箇所だけでなく五線譜に書き直したものまで用意されており、現地で謡う真似事までできました。


 最初の訪問地は、国栖奏で有名な浄見原(きよみはら)神社です。この地を舞台とした『国栖』は、大友皇子から追われた大海人皇子(天武天皇)を国栖の翁が守る場面から始まり、金峯山寺の本尊である蔵王権現と天女が大海人皇子の王威を称える場面で終わります。社殿の前で、「子守の御前蔵王とは」の一節を謡いました。

 

 次は、西の菜摘(なつみ)に移動して、花籠神社に参拝します。

 この神社は、谷﨑潤一郎『吉野葛』にも登場する大谷家(かつては村国姓)が護っておられ、その名称は、吉野山におられた天武天皇に花籠を供えたことに由来すると言われています。ご当主の大谷さんから直々に説明いただきました。

 


 ここでは、義経に仕えた静と静の霊が憑依した菜摘の女が二人で舞う『二人静』の一節「花の松風静が跡を弔ひ給へ」を謡います。


 吉野山に移動して、如意輪寺に行きます。
 境内に隣接して後醍醐天皇陵があり、陵前で楠木正成の遺子・正行(まさつら)が四条畷の決戦に向けて誓い合ったと伝えられています。
 正行が辞世の歌を書き連ねたと言う如意輪堂(現本堂)の前で、明治時代に作られた『樟露』の一節「主従の別れも今更に」を謡います。


 昼食後は、勝手神社です。平成13年の不審火で社殿が焼失しており、痛ましい状態です。
 背後の袖振山を含めて『吉野天人』『吉野琴』『吉野静』の舞台となっており、天女が花を愛で御代を称えて舞う『吉野天人』の一節「言ひもあへねば雲の上」を謡います。


 最後は、金峯山寺「蔵王堂」です。


 五條永教執行長から法話を聴いた後、『嵐山』の一節「子持勝手蔵王権現同體異名の姿を見せて」を謡います。舞台となる京都・嵐山の桜は吉野・嵐山の桜を移したものであり、吉野の子守明神(吉野水分神社)や勝手明神(勝手神社)、さらに蔵王権現が登場します。
 なお、蔵王権現様は右足を上げておられますが、松井さんから、能の演目によっては左足を上げる場合もあると興味深い話がありました。

 

 能楽の視点から吉野の魅力を再発見した一日でした。

2022年09月11日建造物:寺院, 神社歴史:中世奈良県:吉野郡

徳島城跡(徳島市)

 令和4年9月3日(土)と4日(日)の早朝、史跡「徳島城跡」を探訪しました。
 文化財保存全国協議会(文全協)主催の見学会「淡路・徳島の文化遺産を巡る」で徳島城跡近くのホテルに泊まったので、出発までの時間を活用したのです。
 徳島城は、豊臣秀吉の指示により蜂須賀家政が築いた城で、天正14(1586)年に主要部分が完成しました。
 人工の水堀や自然河川により囲まれた内廓には、城山に築かれた「山城部分」と御殿が置かれた「平城部分」があります。


◎9月3日(金)
 初日は、内堀や川に沿って外周を回ります。


 人工の東内堀の南東には、月見櫓跡があります。


 数寄屋橋を通って城内に入ります。

 

 旗櫓の下には数寄屋門がありましたが、平城の鬼門(北東)に位置するので、凶事の時以外は開かれなかったそうです。


 山城があった城山(61m)の東南麓には縄文~弥生時代の遺跡が残っています。

 

 北に進めば助任川に出ます。川に沿って西に進みます。


 城主の隠居所だった「西の丸御殿」跡には内町小学校が建っています。


 さらに東の御花畠跡には市立体育館が建っています。

 

 ここからは、旧寺島川(JR牟岐線)に沿って南東に戻ります。
 城山南西麓の石垣は、天正14(1843)に隠居屋敷を造営した時に築かれたもので、打込接・布積で奇麗に積まれています。


 さらに進めば「舌石(したいし)」があります。堀の上に突き出した屏風折塀の支柱を支えるためのもので、全国にも類例が少なく貴重なものです。

 

◎9月4日(日)
 二日目は、表門の薬医門「鷲の門」を通って山城部分をめざします。


 現在の門は、平成元(1989)年に復原されたものです。


 大手門「黒門」の桝形を通って城内に入ります。


 山城部分は、城山の尾根上に東西に郭を並べた連郭式です。
 本丸の東端には、天正期と最も古い野面・乱積の石垣があります。


 三層三階の天守が置かれていた「東二の丸」には、文禄~慶長期の石垣が残ります。

 


 城山の最も高い場所(標高61m)に位置する本丸は、御座敷・武具櫓・馬具櫓などが置かれており広大です。


 北側には、文禄~慶長期の石垣が残ります。

 

 その東には、埋門「搦手門(裏門)」があり、御座敷から助任川に通じていました。

 

 本丸の西には弓櫓があります。西の大手筋の最奥に位置しており、初期の天守が置かれていた可能性もあります。


 さらに進めば「西二の丸」です。


 「西三の丸」は上中下の三段に分かれており、中段には材木櫓がありました。


 「西三の丸門」は、黒門を入って大手筋を進むと最初にある桝形で、文禄~慶長期の古い石垣が残ります。

 

 二日間に分けて歩くことにより、徳島城跡の概要が理解できました。

2022年09月03日城郭:平山城歴史:中世

文全協見学会「淡路・徳島の文化遺産を巡る」(兵庫県、徳島県)

 令和4年9月2日(金)~4日(日)、文化財保存全国協議会(文全協)主催の見学会「淡路・徳島の文化遺産を巡る」に参加しました。
 文全協とは、高度経済成長のなかで破壊されつつある遺跡などの文化財を守るため、昭和45年に結成された団体です。


 参加者はスタッフを含めて13人と少なかったのですが、代表委員の小笠原好彦先生(滋賀大学名誉教授)の英断で実施に至ったそうです。
 貸切バスで神戸市三宮を出発し、明石海峡大橋・大鳴門橋と二つの橋を渡って徳島県に入ります。


◎ 9月2日(金) 


 最初の見学地は、県立埋蔵文化財総合センター(板野町)です。


 展示の目玉の一つは重要文化財「突線袈裟襷紋銅鐸」で、徳島市・矢野遺跡の発掘現場が復原されています。ここで、実際に発掘を担当された方から説明を聞きました。

 この銅鐸は高さ97.8cm・重さ17.5kgと大きなもので、鳴らす機能が喪失して見る銅鐸へと変化しています。


 次の見学地は、鳴門市ドイツ館です。


 大正6~9年、中国で捕虜となったドイツ兵のうち1,000人が板東俘虜収容所で過ごしました。
 アジアで最初にベートーヴェン「第九交響曲」が演奏された地としても有名です。

 

 収容所跡にも行き、建物跡や慰霊碑などを見学します。

 


◎9月3日(土)
 この日は、鳴門市内の史跡を見学します。

 

 徳島城跡の城山(61m)の東南麓には縄文~弥生時代の遺跡があり、そのなかで城山貝塚を見学します。


 城跡には登らず、名勝「旧徳島城表御殿庭園」を見学します。
 桃山様式を顕著に示しているそうです。


 次は、史跡「渋野丸山古墳」です。5世紀前半築造の前方後円墳で、全長105mと徳島県内では最大の大きさです。
 外から見ると草が生い茂っていて全容が分かりにくいのですが、墳丘に登ると墳丘の形がよく分かります。
 道路沿いに立地してるので、小笠原先生は“ナガレ山古墳(奈良県河合町)のような整備をすれば良い”と言っておられました。

 


 県立博物館と県立鳥居龍蔵記念博物館は同じ建物の中にあります。


 県立博物館は、考古博物館・歴史博物館・自然博物館の三つの性格を持ったユニークな展示方式です。
 考古分野では辰砂から水銀朱を取り出す石杵・石臼、歴史分野では南北朝時代の大きな板碑、自然分野では恐竜模型が印象に残りました。

 



 鳥居龍蔵は、明治~昭和にかけて活躍した人類学・考古学・民族学の先駆者だそうですが、初めて名前を知りました。


 昼食後、阿波国分寺に行きます。境内には、環溝型と珍しい形式の塔心礎があり、近くの田圃から見つかったと伝えられています。
 ただし、他の伽藍は見つかっていないそうです。


 名勝「阿波国分寺庭園」は荒々しい構成です。

 

 阿波国分尼寺跡では、講堂跡と金堂跡が見つかっています。
 小笠原先生は、“国分尼寺にしては大きすぎるので、ここが真の国分寺跡ではないか。国分寺にある塔心礎はここから運ばれた可能性がある”と大胆な仮説を述べられます。

 

 次に、気延山から東に延びる尾根の先端部(標高50m)に築かれた宮谷古墳に行きます。3世紀末~4世紀初頭築造で、全長45mの前方後円墳です。
 後円部の直径:前方部の長さの比率が2:1で、纒向型前方後円墳(奈良県桜井市の纒向石塚古墳など)と似ています。
 この古墳からは、3点の三角縁神獣鏡が発見されました。


 近くにある徳島市立考古資料館には、市内の古墳から出土した埴輪などが展示されています。

 


 6世紀後半築造の矢野古墳は直径17.5mの円墳で、横穴式石室は緑色片岩で造られています。


◎9月4日(日)
 大鳴門橋を渡って、兵庫県の淡路島に移動します。

 

 南あわじ市滝川記念美術館「玉青館」で、松帆銅鐸を見学します。

 

 平成27年に7個がまとまって発見されたもので、舌(ぜつ、鳴らすための棒)や紐もあったこと入れ子状態だったことなどが特徴です。
 こちらは「音を聞く銅鐸」で、徳島市で見た「見る銅鐸」(突線袈裟襷紋銅鐸)より古い段階のものです。
 小笠原先生は、音を鳴らしながら田圃の中を移動することにより、田の神を呼び出して豊作を祈る行事に使われたものだと説明されます。



 北に移動して、史跡「五斗垣内(ごっさかいと)遺跡」(淡路市)を見学します。
 弥生時代後期(1~2世紀)のムラで、鉄器づくりを行った鍛冶工房建物や竪穴住居が復原されています。

 


 北淡震災記念公園を経て、史跡「徳島藩松帆台場跡」に向かいます。

 


 上に登れば、明石海峡が一望できます。


 最後に、淡路ハイウェイオアシスに寄り、全長194mと兵庫県内で最大の前方後円墳「五色塚古墳」(神戸市)を遠望します。
 百舌鳥古墳群の前方後円墳が海に対して平行なのに対し、前方部を海に向けています


 参加者が少なかったので小笠原先生から親しく話を聞くなど、濃密な3日間を過ごすことができました。

2022年09月02日古墳:円墳, 前方後円墳建造物:寺院歴史:中世, 古代, 古墳時代, 縄文・弥生時代, 近世・近代

海軍ゆかりの港町めぐり(京都府舞鶴市)

 令和4年8月28日(土)、京都府舞鶴市へ行きました。JR西日本「サイコロきっぷ」(5,000円)を買ってみたところ、行き先が舞鶴になったのです。

 

 かつて舞鶴市の中心は細川幽斎が築いた田辺城の城下町・西舞鶴でしたが、明治34年、舞鶴港に海軍の舞鶴鎮守府が置かれてからは中心が東舞鶴に移りました。


 海軍は海辺にたくさんの赤煉瓦倉庫を建てました。倉庫跡のいくつかは国重要文化財「舞鶴鎮守府倉庫施設」に指定され、舞鶴市は「舞鶴赤れんがパーク」として整備しています。

 

 午前中は、非公開の場所も見学できる「舞鶴赤れんがガイドツアー」(2,000円)に参加します。
 最初は、三つの建物が見える撮影スポットで、概括的な説明を受けます。
 舞鶴の地が選ばれたのは、波が安定していて水深が深いからで、喫緊の課題であるロシア対策を念頭に置いたものでした。


 最初に見学する5号棟には、水雷を運び入れたクレーンやレールが保存されています。最大規模の建物で、「赤れんがイベントホール」として活用されています。

 

 赤れんがロードに沿って3棟の建物が並んでいます。


 通常は非公開の1棟に入ります。

 

 トロッコは映画撮影のために作成されたものですが、海軍の消火栓は当時のものです。


 少し歩いて、北吸浄水場配水池跡に行きます。
 施設の性格から小高い丘の上にあり、眼下にたくさんの艦艇が見えます。


 通常は非公開の建物内に入ります。


 水が滞留しないよう、何枚もの大きな壁で仕切られています。
 実際に下まで降りて歩いてみると、その大きさが体感できます。

 

 午後は、「海軍ゆかりの港めぐり遊覧船」(1,300円)に参加します。
 船長さんやガイドさんは海上自衛隊舞鶴地方隊を定年退職された方なので、港や船の説明が具体的でよく理解できます。

 

 


 かつての軍港都市・舞鶴を訪問して、戦争遺跡の重要さを認識することができました。  

2022年08月28日歴史:近世・近代

和歌山県立紀伊風土記の丘「天王塚古墳『石室特別公開』」(和歌山市)

 令和4年8月27日(土)、和歌山県立紀伊風土記の丘「天王塚古墳『石室特別公開』」(和歌山市)に参加しました。

 

 天王塚古墳墳は、岩橋千塚(いわせせんづか)古墳群の首長墓の一つで、岩橋山塊の最高峰「天王山」(155m)の山頂に築かれています。


 天王塚古墳は西向きの前方後円墳で、墳長188mと和歌山県で最大の大きさです。

 

 この古墳の最大の魅力は南に開口した岩橋形石室で、(1)2枚の石棚、(2)8本の石梁、(3)1.03mと長い玄室前道などの特徴を備えています。

 


 玄室の長さは5.9m・幅は2.7mで、羨道や玄室前道も含んだ石室全体の長さは11.3mです。

 

 8本の石梁で支えられた玄室高さは5.9mと国内第2位です。


 石室本体は結晶片岩の割石で構築されていますが、屍床仕切り石・玄門化粧石・閉塞石には板石が使われています。

 

 

 天王塚古墳は、平成29(2017)年3月に54年振りに公開されましたが、その時は連絡道路がなかったために山道を歩きました。

 

 また、当時は墳丘の開口部も露出していました。


 これから本格的な復元整備工事が始まるとのことで、今後、どのように整備されるかの楽しみです。

2022年08月27日古墳:前方後円墳歴史:古墳時代

琵琶湖汽船「『伊崎の棹飛び』湖上観覧とビワマス料理」(滋賀県近江八幡市)

 令和4年8月1日(月)、琵琶湖汽船「『伊崎の棹飛び』湖上観覧とビワマス料理」に参加しました。講師は、大沼芳幸先生です。


 「伊崎の棹飛び」は、毎年8月1日の千日会の日に、伊崎寺(いさきじ、滋賀県近江八幡市)の棹飛堂(正式には護摩堂)で行われる宗教行事です。
 飛鳥時代、役行者が巨岩を不動明王だと感得して棹飛堂を建立したと伝えられており、岩に張り付くように建っています。


 我々は「いんたーらーけん」(56㌧)と少し大きい船なので、離れた場所から拝見します。


 姨倚耶山(いきやさん)伊崎寺は天台宗では格式の高い寺で、千日回峰行を満行した大阿闍梨が住職を務めています。
 棹飛びは、百日回峰行を満行した行者の「行」として行われるもので、棹の長さは13m、棹の先端から湖面までは7mあります。
 最初に大阿闍梨が棹を清められます。


 棹の先まで歩いて湖に飛び込む行為は、自らを犠牲にして仏道を求める修行の姿を現しており、法隆寺「玉虫厨子」に描かれた「捨身飼虎図」に共通するものがあります。
 今回は三年ぶりで、28~49歳の10人の僧侶が飛び込まれました。


 

 

 

 飛び込んだ後は、岩に垂らされた綱を伝って棹飛堂に戻ります。


 その後、湖に浮かぶ日本で唯一の沖島に移動します。


 昼食は、ビワマス料理です。
 ビワマスは鮭の仲間ですが、琵琶湖の固有種です。水温20℃の水域に生息するので、水温が高い夏に琵琶湖の北の深い場所で捕獲されます。
 特に、造りは脂が乗っていて旨かったです。


 昼食後の自由時間には、酷暑のなかですが、散歩しました。
 移転前の沖島小学校跡地は「おきしま展望台」となっており、手前には伊崎半島、遠くには鈴鹿山脈など眺望が楽しめました。

2022年08月01日建造物:寺院歴史:古代, 近世・近代

鶉野飛行場防空壕跡・一乗寺(兵庫県加西市)

 令和4年7月31日(日)、姫路市に隣接する加西市の近代史跡と古代史跡を見学しました。 
 最初は、鶉野(うずらの)飛行場防空壕跡の見学会です。鶉野飛行場は昭和18年に完成した姫路海軍航空隊の軍事施設で、滑走路のほか数多くの防空壕や対空機銃座などの戦争遺跡が残されています。


 しかし、市道鶉野飛行場線建設に伴い「北田池L字形防空壕」が取り壊されることとなり、見学会が開催されました。


 この防空壕は南東に開口しており、全長3.3mの前室と、8,5m+19,0mの本室があります。


 

 


 側壁コンクリートの外側は土を掘った壁面に打設されているので、鋤やスコップで掘削した跡がコンクリートに転写されて残っています。

 


 基地の西端・送信所の近くにありますが、用途は不明です。

 

 その後、「法華山一乗寺」に参拝します。
 飛鳥時代に孝徳天皇の勅願により法道上人が開山したと伝えられ、鎌倉時代には西大寺の叡尊上人が来られたとの記録が残ります。



 平安時代の国宝「三重塔」が有名で、本尊は五智如来です。


 心柱が初層の天井から立ち上がっていること、三重の屋根に「むくり」(↔反り)を作っていること、各層の屋根に稚児棟がないことが特徴です。


 重文の本堂「大悲閣」は懸造の八間堂で、江戸時代の再建です。眼下に三重塔が望めます。

 

 西国二十六番札所なので巡礼のバスが来れば賑やかになるのでしょうが、静かな雰囲気の中で参拝できました。

2022年07月31日建造物:寺院歴史:中世, 古代, 近世・近代兵庫県:播磨

大国見山(奈良県天理市)

 令和4年7月28日(木)、涼しさを求めて大国見山(おおくにみやま、天理市、498m)に登りました。


 本来ならJR天理駅から歩くべきなのですが、暑さ対策で天理大学まで路線バスを利用しました。
 石上神宮に参拝した後、布留川の本流と支流が合流する「布留の高橋」を渡りますが、下には小さな「ハタの滝」が見えます。

 


 舗装した道路を進み続けると石碑「桃尾の滝」があり、そこを左に曲がります。

 

 坂の途中には、石上神宮の元宮との説もある石上神社があります。


 「桃尾の滝」は「布留の滝」とも言われ、落差は23mと奈良盆地東縁にある滝の中では最大です。

 

 天理大学から走ってきた陸上部の学生が、涼を楽しんでいました。
【07桃尾滝】

 

 北に登れば、義淵が創建した三龍寺の一つの龍福寺跡です。吉野町の龍門寺跡にも滝がありますから、山岳寺院と行場としての滝はセットだったのでしょうか。松尾芭蕉は、両方の滝を見ています。

 

 急な山道を登ると、岩屋町への分岐点となる鞍部です。

 

 ここから、木の根道を登り、巨岩の間を進めば山頂です。

 

 山頂には、穴が開いた狼煙岩や小さな祠があります。


 木の間から西には、生駒・金剛山系の山々が望めます。


 岩屋町の下山口には、天理砂岩と思しき石が積み重ねられています。


 後は、名阪国道沿いの舗装道路を西に向かって歩きます。
 途中、「岩屋の磨崖仏」がありました。不動明王が彫られているそうです。


 大将軍鏡池から東には、大国見山などが見えます。


 滝や山の中は気持ちが良かったのですが、往復の舗装道路を歩く際の暑さには往生しました。 

2022年07月28日建造物:寺院歴史:古代奈良県:その他トレッキング:トレッキング

やまとびとツアーズ「高畑町在住ガイドと巡る、春日大社の社家町“高畑町”特別公開ツアー」(奈良市)

 令和4年7月16日(土)、やまとびとツアーズ「高畑町在住ガイドと巡る、春日大社の社家町“高畑町”特別公開ツアー」に参加しました。
 ガイドの大槻旭彦氏は、老舗喫茶店「アカダマ」を閉めた後は地域の歴史を研究し、昨年、『奈良 高畑町界隈』を出版されました。


 現在の高畑(たかばたけ)は広域にわたりますが、大槻さんが高畑とされるのは新薬師寺跡地と春日大社の間に展開する地域に限定されます。
 今回のツアーが、大槻さんにとっては初めてのガイド経験だそうです。


 最初に、奈良教育大学構内にある6世紀初頭・直径20mの円墳「吉備塚古墳」を訪ねます。2002年の発掘調査で、割竹形木棺・箱形木棺と二基の埋葬施設が確認されました。


 8世紀の政治家・吉備真備の墓と伝えられ、登ると祟りがあるとの伝承がありました。こうした伝承があるため、周囲の古墳が破壊されるなか、この古墳はだけは残りました。


 かつては、北にある閼伽井庵から吉備塚に参拝したと伝えられています。その名称は、光明皇后が患った目を洗った閼伽井(井戸)があったことに由来するとの伝承もあります。


 今は小さい赤穂(あかほ)神社は、かつては式内社でした。境内には比賣(ひめ)塚があり、藤原鎌足の娘で天武天皇の妃だった氷上夫人の墓だとの伝承があります。


 柳堂地蔵は普段は厨子の扉が閉まっていますが、特別に拝観できました。左足の上に右足を乗せた半跏踏下像です。


 次に、民家の庭先にある「破石(わりいし)」を特別に拝見します。『続日本紀』に“西大寺東塔の心礎に酒を注いで割った”と書かれている石で、触ると祟りがあると言われています。
 大槻さんは、新薬師寺の西端を示す結界石だと推定されます。


 フェンス越しに奈良教育大学構内にある新薬師寺金堂跡を見た後、鏡神社に向かいます。


 鏡神社の手前には、吉備真備とともに入唐した僧・玄坊の胴を埋めたとされる胴塚が残っています。


 鏡神社の祭神・藤原広嗣は不比等の孫で、吉備真備と玄坊の排斥を求めて乱を起こしましたが、斬殺されました。その怨霊を鎮めるために鏡神社が創建されたと伝えられています。

 

 特別に、本殿の近くまで入れていただきます。春日大社の第三殿を延享3(1746)年に移したもので、30年振りの修復が終わったばかりです。


 新薬師寺に隣接していますが、鎮守社ではありません。大槻さんは、この地の南に吉備真備が創建した清水寺(せいすいじ)があり、その鎮守社だったが廃絶に伴って移転したと推定されます。

 

 国登録有形文化財「藤間(とうま)家住宅」は、7月3日(日)に続いて特別に拝見します。
 社家住宅は北郷と南郷に分かれており、高畑は南郷なので藤間家もそうだと思い込んでいたのですが、北郷禰宜家惣代を務めた禰宜家ですが、南郷に移ってこられたそうです。


 表座敷の床の間は、落掛けを用いず長押を回していることから、かつては祭壇(神棚)だったと可能性があります。

 

 最後は、頭塔(ずとう)です。
 玄坊の首塚との伝説がありましたが、神護慶雲元(767)年、東大寺の良弁の命により実忠が建てた五層・瓦葺の土塔だと判明しました。基壇裾の下から横穴式石室を持つ6世紀の頭塔下古墳が見つかりました。
 現在、北東にあったウェルネス飛鳥路の建物が撤去されているので、塔頂の五輪塔も見ることができます。

 

 行ったことのある場所ばかりでしたが、地域の歴史を深く研究されている大槻さんの案内で、高畑町の奥深い魅力を知ることができました。

2022年07月16日古墳:円墳建造物:神社歴史:古代, 古墳時代, 近世・近代奈良県:奈良市仏像:木彫像

吉野ビジターズビューロー「西行歌碑巡り~西行が愛した吉野山へ~」(奈良県吉野町)

 令和4年7月10日(日)、吉野ビジターズビューロー「西行歌碑巡り~西行が愛した吉野山へ~」に参加しました。
 吉野山は「歌枕」(歌に詠まれた名所)として有名です。

(1)『万葉集』に詠まれた吉野山
 『万葉集』に詠まれた吉野は「川の吉野」が中心で、「吉野山」特有の詩的イメージは形成されておらず、《み吉野の 象山(きさやま)のまの》(巻6・924)など具体的な名称が使われています。

 

(2) 平安時代に詠まれた吉野山
 平安時代の『古今和歌集』などでは、雪の名所として詠まれています。
《春霞 たてるやいずこ み吉野の 吉野の山に 雪はふりつつ》

 

(3) 西行が詠んだ吉野山
 西行は平安時代後期~鎌倉時代前期の歌人で、『山家集』などに収められた2,200首のうち花の吉野山を詠んだ歌は50首以上もあります。
 歌枕「桜の吉野山」のイメージは、西行によって決定的なものとなりました


 かつて吉野山にあった西行の木柱歌碑は、全て朽ち果てていました。
 そこで、野町観光ボランティアガイドの会が、西行生誕九百年記念として、平成30(2018)年度、11基の木柱歌碑を再建しました。
 木柱は高さ2,250cm・幅15cm・奥行き10cmで、中央配置された高さ100cm・幅13cmのステンレス板に歌が彫り込まれています。


 このツアーでは、マイクロバスを利用して、全11基のうち6基の歌碑を巡りました。


①近鉄吉野駅前
吉野山 去年(こぞ)の枝折(しほり)の 道かへて まだ見ぬかたの 花を訪ねん(『聞書集』)
 「去年の枝折」とは、昨年枝を折ってつけた目印のことです。近鉄吉野駅前の広場にあります。

 

②幣掛神社周辺
花を見し 昔の心 あらためて 吉野の里に 住まんとぞ思ふ(『西行法師家集』)
 上句は“花を見た昔の心を新たにして”と言う意味です。幣掛(しでかけ)神社の近くにあります。

 

③吉野山観光駐車場
春暮れて 人散りぬめり 吉野山 花の別れを 思ふのみかは(『西行法師歌集』)
 暮春に花との別れを惜しんでいます。駐車場の出入口に近い場所にあるので、普段は前に自動車が停まっていて見ることができないそうです。

 

⑨金峯神社周辺
吉野山 奥をもわれぞ 知りぬべき 花ゆゑ深く 入りならひつつ(『聞集書』)
 吉野山に深く馴染んだ自負が表現されています。この吉野山は、広く大峰山系を意味していると思われます。歌にふさわしく、大峯奥駆道沿いに設置されています。


⑩西行庵前
春は猶(なほ) 吉野の奥へ入りにけり 散るめる花ぞ 根にぞ帰れる(『松屋本』)
 この場所に西行庵があったかどうかは別として、西行が京の都を離れて吉野山の奥に籠もったのは事実だと考えられています。 


⑪西行庵前
花の色の 雪の深山(みやま)に 通へばや 深き吉野の 奥へ入らるる(『聞書集』)
 花を求めて吉野の山の奥に入る数奇心を、悟りを求める心と重ねています。現在、奥千本の再生をめざして「22世紀 吉野桜を愛でる会」が活動を続けており、西行が見た光景が復活することでしょう。


 7月10日(日)に見たのは以上の6基ですが、7月7日(木)に金峯山寺「蓮華会」を拝見した際に、足を延ばして1基を見ました。


⑧上千本展望所
吉野山 梢の花を 見し日より 心は身にも 添はず成(なり)にき(『山家集』)
 少し奥の花矢倉からは中・上千本の桜が一望に望めます。

 


 未見の4基についても、ぜひ探訪したいと思っています。


④宮坂駐車場
まがふ色に 花咲きぬれば 吉野山 春は晴れせぬ 峰の白雲(『山家集』)

⑤五郎兵衛茶屋跡
木(こ)の本(もと)に 旅寝をすれば 吉野山 花のふすまを 着する春風 (『山家集』)
 落花を衾(夜具)に見立ています。五郎兵衛茶屋跡は、中千本から東の如意輪寺に向かう途中にあります。

⑥如意輪寺陽明門前
吉野山 ほきぢ(崖道)伝ひに 尋ね入て 花見し春は ひと昔かも (『山家集』)

⑦桜展示園 仰徳碑
吉野山 うれしかりける 導(しる)べかな さらでは奥の 花を見ましや(『聞書集』)

2022年07月10日歴史:中世奈良県:吉野郡

近畿文化会「高野山奥之院を歩く」(和歌山県高野町)

 令和4年7月9日(土)、近畿文化会「高野山奥之院を歩く(和歌山県高野町)」に参加しました。講師は、石造物研究の第一人者である大阪大谷大学教授の狭川真一先生です。
 奥之院の奥には弘法大師御廟があり、一の橋から2kmの参道には戦国武将の五輪塔などが並んでいます。


(1)一石五輪塔から大型五輪塔へ
 今並んでいる大型五輪塔は近世に入ってから造営されたものです。なかには、織田信長供養塔のように、火輪の軒が反っており江戸時代に造られたことが明らかなものもあります。

 

 中世末期は小さな一石五輪塔で埋め尽くされていましたが、これらは、大型五輪塔の造営に伴って木の根元などに集積されました。


(2)木造・石造霊屋(たまや)
 重文「佐竹義重霊屋」は、木造切妻造の檜皮葺で、壁は長足五輪塔で構成されています。


 一方、重文「松平秀康及び秀康母霊屋」は石造で、正面には鳥居が建っています。


(3)近世大名墓
 ①釘貫(瑞垣)、②正面に鳥居、③墓石は高野山の石工が造作が共通する特徴です。
 崇源院(江姫)供養塔は高さ6.6mと巨大で、一番石と言われています。


 一方、薩摩藩島津家の墓所は、鹿児島県指宿市産の山川石(凝灰岩)を使った三重石塔が中心と特徴的です。


(4) 戦国武将の墓
 筒井順慶供養塔は、大和の花崗岩を使っており、台座の反花座(かえりはなざ)も大和独特のものです。

 

 筒井順慶の墓所は地元の大和郡山市にもあり、本貫地(地元)と高野山の両方に建てる先駆的な事例です。


(5)町石(ちょういし)
 高野山の参道には、1町(109m)ごとの道しるべとして、長足五輪塔と呼ばれる高さ2.5mの町石が並んでいます。
 なかには、空輪・風輪と火輪が一つの花崗岩で造られたものもあります。】


 頌徳殿の前にある五輪塔「仏果円満塔」も同じ構造で、火輪の先端を風輪下部に押し込んだように見えることから噛合式と呼ばれています。高野山に集中的に見られる彫成技法です。


(6)その他
 親鸞聖人供養塔は、通常は四角錐の火輪が三角錐の形をしており、三角五輪塔と呼ばれています。


 奈良市にある 東大寺の重源上人の伴墓三角五輪塔が同じ形をしています。

 

 ①奥之院が現在の姿になったのは近世以降、②時代により形が変化していることなど、五輪塔の奥深さを認識した一日でした。

2022年07月09日建造物:寺院歴史:中世, 近世・近代

大和高田市「蓮のみちバスツアー」(奈良県大和高田市→吉野町)

 令和4年7月7日(木)、大和高田市「蓮のみちバスツアー」に参加しました。


 金峯山寺(吉野町)の三大行事の一つである蓮華会は、清浄な蓮の花を蔵王権現に供える法会と、蛙飛び行事に分かれます。
 この法会で供えられる蓮は、大和高田市奥田の篠捨池(弁天池)で採取されます。この池には、役行者に関して、(1)産湯を使った池と言う伝承と、(2)母・刀良売(とらめ)による一つ目蛙伝承の二つが残っています


 今年は蓮が不作で少ししか咲いていません。

 

 早朝に採取された蓮は、修験者一行により、福田寺・行者堂から刀良売墓に運ばれて法要が行われます。


 墓は近年に整備された五輪塔ですが、背後には、役行者が修行した葛城山が聳えています。


 その後、弁天社で採灯護摩供が行われるのですが、時間の関係で拝見せずに、25km南にある吉野町の金峯山寺に向かいます。

 

 

 吉野山では、着ぐるみの大青蛙を載せた太鼓台が練り歩いています。


 蔵王堂に着いた太鼓台から下りたは、二人に担がれて蔵王堂のなかに向かいます。


 篠捨池で採られた蓮が金峯山寺・蔵王堂のなかに運び込まれると、非公開で蓮華会の法要が行われます。

 

 法要が終われば、蛙飛び行事です。
 蛙跳び行事は、崖から落とされた不信心な男が、蛙の姿にしてもらって崖の上に登った後、蔵王堂で人間の姿に戻ると言う伝説に基づくものです。
 蛙は飛び跳ねて左右の導師の下へ行って、人間に戻してもらうよう懇願します。

 

 最後に、正面の大導師の下へ行って懇願した結果、やっと人間の姿に戻してもらいます。


 蔵王権現様に供えられた蓮は、蓮華奉献入峯により大峯山寺(山上ヶ岳)に供えられます。 
 なお、蔵王堂前でも採灯大護摩供が行われるのですが、時間の関係で、こちらも拝見できませんでした。


 (1)なぜ蓮華会と蛙跳び行事が結びついたのか、(2)なぜ大和高田市の一つ目蛙伝説と吉野町・金峯山寺の蛙飛び行事が結びついたのか、謎は残りますが、蓮取り行事と蛙飛び行事を楽しむことができました。

2022年07月07日建造物:寺院歴史:古代奈良県:吉野郡

近畿文化会「春日大社と社家住宅『藤間家』」(奈良市)

 令和4年7月3日(日)、近畿文化会「春日大社と社家住宅『藤間家』」に参加しました。講師は、春日大社権禰宜の中野和正氏です。

(1)講演
 最初に、感謝・共生の館で講演を聴きます。


◎春日大社
春日大社は平城京の東に位置し都城を守護。
本殿と若宮を結ぶ御間(おあい)道には、御蓋山を源とする率(いさ)川の水を貯める木製「水船」があった。


率川神社は、飛鳥時代に推古天皇が創建した奈良市内最古の神社。
 かつては春日大社の摂社だったが、明治20~30年代に大神神社が摂社にした。← 本殿が春日造なので不審に思っていたのですが、本来は春日大社の摂社だったと知り納得しました。


◎ 社家住宅
神職を務める社家は北郷(野田村)と南郷(高畑村)の二箇所に分かれていたが、今に残るのは南郷のみ。


○ 藤間(とうま)家住宅には、①薬医門と築地塀・②式台玄関を持つ主屋・③小祠と高野槙の神木を備えた前庭などが残る。

 

 


◎ 春日大社と長谷寺
 春日大社と長谷寺は縁が深い。
奈良市の神仏と長谷寺(桜井市)を結ぶ隔夜修行が行われており、春日大社南門近くには「奉再興 隔夜修行」と書かれた燈籠が残る。「再興」とは、油代を払えなくなった人に代わって奉納する意味。


長谷寺「紀貫之『故里の梅』」は、かつて長谷寺から春日大社に送られた梅の子孫。

(2) 参拝「御本殿・若宮」
 昼食後、国宝館「いきもののデザイン」を見た後、御本殿と若宮に参拝します。
 御本殿の回廊は、中門の前から見える部分は茅葺きですが、見えない外側は瓦葺きだそうです。

 

 若宮では、現在、御造替が行われており、本遷宮は10月28日の予定です。


(3) 隔夜寺
 上の禰宜道を通って隔夜寺に向かいます。


 かつて、春日大社境内にはたくさんの寺がありましたが、今に残るのは隔夜寺だけです。
【12隔夜寺】

 

 ご本尊は長谷寺の1/10の大きさの十一面観音菩薩立像で、口から6体の阿弥陀像を発する空也上人像も祀られています。 
 普段は非公開ですが、中田住職(近くの華厳宗・新薬師寺の副住職が兼務)に来ていただき、特別に拝見できました。

(4) 藤間家住宅
 隔夜寺から旧柳生街道を西に下れば、藤岡家住宅です。道沿いに残る土塀からは、かつて社家町であったことが偲ばれます。


 藤間家住宅は、18世紀の古式を留めた歴史的建造物で、今、復元に向けた工事が進められています。

 

 春日大社と言えば、どうしても御本殿や若宮に目が行きがちですが、それだけでなく幅広い魅力があることを知りました。

2022年07月03日建造物:寺院, 神社歴史:中世, 古代, 近世・近代奈良県:奈良市仏像:木彫像

観音峰(奈良県天川村)

 令和4年6月30日(木)、一人で奈良県天川村の観音峰(かんのんみね、1,348m)に登りました。登山口が高い場所にあるので標高差は600m程度です。


 近鉄大阪阿部野橋駅から近鉄下市口駅まで特急で1時間、そこから奈良交通の路線バスで1時間10分で登山口に到着です。
 ここから、みたらい渓谷に架かる吊り橋を渡り、杉植林帯のなかを進みます。

 

 

 「観音の水」は唯一の水場だそうですが、少ない水量です。


 吉野山での戦いに敗れた護良親王(後醍醐天皇の皇子)は観音峰に逃れました。こうしたことから、かつて、観音平には南朝ゆかりの神社がありました。


 観音平の先には、護良親王が詠まれた歌を彫った岩があります。 
《よしの山 花ぞちるらん 天の川 くものつつみを くず(→づ)すしらなみ》


 尾根に出て、ススキの茂る斜面を登り切ると観音峰展望台です。
 展望が広がり、南には八経ヶ岳や弥山も見えます。

 

 

 

 草原にはジギタリスが群生しています。毒性のある外来種なので天川村では駆除を試みましたが、うまく行かなかったようです。


 ブナ林を過ぎ、雑木林の急坂を登ると観音峰山頂です。

 


 山頂には三等三角点がありますが、周囲は樹木で覆われており眺望はありません。

 


 梅雨が明けたばかりで体が高温に慣れていないなか、久しぶりのトレッキングは疲れましたが、大峯山脈北側の山並みを楽しむことができました。 

2022年06月30日奈良県:吉野郡トレッキング:トレッキング

吉野ビジターズビューロー「決戦の地と大海人皇子の吉野入りルートを辿る」(奈良県→三重県→滋賀県→京都府)

 令和4年6月26日(日)~27日(月)、吉野ビジターズビューロー「決戦の地と大海人皇子の吉野入りルートを辿る」に参加しました。案内役は、前吉野歴史資料館長の池田淳先生です。
 今から1,350年前の672年6月24日、大海人皇子が吉野宮を脱出したことで壬申の乱が始ったので、それを記念してのツアーです。


 近鉄名張駅前を貸切バスで出発し、「伊賀の中山」(三重県伊賀市)に向かいます。
 大海人皇子の一行は、吉野宮を脱出した時には少人数でしたが、「伊賀の中山」で伊賀の豪族の兵と合流します。池田先生は、合流するまでの行動を「計画された逃避行」と表現されます。


 「伊賀の中山」の所在地については、依那具(いなぐ)から下友生(しもともの)にかけての山間部とする説が有力です。


 これに対して、池田先生は、目立つ道なので逃避行にふさわしくないとして、東の比自岐(ひじき)から喰代(ほうじろ)・平田にかけてとする説を支持されます。
 実際に道の一部を歩きましたが、確かに、目立たなく逃避行にふさわしい道です。


 比自岐神社(祭神は比自岐神)に参拝した後、バスに乗ります。


 昼食は「田楽座わかや」(三重県伊賀市)で味噌田楽を頂きます。民俗学者の池田先生から、“名前の由来は田楽法師が高足(こうそく)に乗る様に似ていることから”と説明があります。


 大海人皇子は、和蹔(わざみ)で検軍しました。
 近くには、大海人皇子の「兜掛石」「沓脱石」(岐阜県関ヶ原町)がありますが、池田先生は、後世に「大海人皇子」と修飾語が付けられたとされます。


 近江路決戦が始まったのが「息長横河(おきながのよこかわ)」で、梓河内(あんさかわち、滋賀県米原市)に比定する見解が有力です。
 この地では、天野川に注ぐ梓川が流れる谷が東西方向に形成されて横河となっています。この小さな川を挟んで、大海人皇子軍と大友皇子軍が対峙しましたが、息長氏を味方につけた大海人皇子軍が大勝しました。


 大海人皇子軍は、安河(やすかわ)浜(野洲川、野洲市)の戦いでも大勝して、瀬田橋(大津市)に進みました。軍隊が大きくなっているので、進む速度は遅くなります。


 最終決戦が行われた瀬田橋は、今の瀬田の唐橋から80m下流の場所にありました。


 池田先生は、丸木舟を並べた橋(空荷橋(からにばし)→からはし)だった可能性も示されます。さらに、橋=端で、現世と他界との接点だとも説明されます。


 一日目の行程は、これで終わりです。
 大海人皇子は随分と遠回りして大津に向かいましたが、道中で地方豪族が集結して兵力を増強することが目的でした。

 二日目の6月27(月)は、最初に近江大津宮錦織遺跡に向かいます。
 白村江(はくすきのえ)の戦いに敗れた天智天皇は、防衛上の理由から都を畿外の大津に移しましたが、ここは近江大津宮内裏正殿跡です。


 天智天皇を祭神とする近江神宮に参拝した後、宇治橋(京都府宇治市)に向かいます。


 天智天皇の大王位継承要請を固辞した大海人皇子は、出家して吉野に向かいますが、蘇我赤兄などは宇治橋まで送りました。
 池田先生によると、山城の「宇治」・大和の「宇智」・伊勢の「宇治」山田の範囲内が初期大和王権の権力基盤です。その地域に大海人皇子が入ったことから、『日本書紀』は《虎に翼を着けて放てり。》と記しています。

 


 昼食後、嶋宮(奈良県明日香村)に向かいます。嶋宮は、蘇我馬子の邸宅跡だったと考えられており、その墓・石舞台古墳に隣接しています。蘇我本宗家滅亡後は、舒明・皇極天皇系の嶋皇祖母命(しめのすめみおやのみこと)の居宅となっていました。
 大海人皇子は、吉野宮に入る前夜、嶋宮に泊まりました。その理由について、池田先生は、舒明・斉明天皇の直系であることをアピールすること(大友皇子は天智天皇・采女の子で傍系)にあったとされます。

 

 

 最後に、吉野宮(吉野町)に向かいます。
 東西に流れる吉野川の南岸から吉野宮方向を見て、川に近接する場所であることを確認します。

 

 吉野宮からは、飛鳥時代と奈良時代の遺構が発見されています。

 奈良時代の大型掘立柱建物は、吉野川に近い場所で吉野川に向かって建てられていたことが判明しました。行幸した天皇がどのようなルート・方法で宮に入ったのか興味があるところです。

 


 飛鳥時代の建物は北東に位置し、池状遺構がありました。

 

 天武天皇が「吉野の盟約」を結んだ建物があったと思しき場所には梅谷醤油の建物があるため、発掘調査は行われていません。


 一日目は壬申の乱の決戦のルート、二日目は壬申の乱の前に吉野入りしたルートを見学すると言う盛りだくさんの内容でした。
 現地で、池田先生から独自の視点による説明を聞くことにより、理解を深めることができました。 

2022年06月26日歴史:古代奈良県:その他, 吉野郡

毎日新聞旅行「明神岳・檜塚(奈良県東吉野村)、学能堂山(奈良県御杖村)」

 令和4年5月31日(火)と6月1日(水)、二日連続で毎日新聞旅行の登山ツアーに参加しました。
 私が申し込むマニアックなツアーは催行率が70%程度なのでどちらかは中止になるだろうと思っていたのですが、両方とも実施されたのです。しかも、二日との奈良県東部の山で、奈良県側から登山して三重県側に下山します。


 5月31日(水)は「明神岳・檜塚(奈良県東吉野村)」です。雨のため、ほとんど眺望を楽しむことはできませんでした。


 最初は林道を歩きますが、途中で急坂になります。


 ロープ伝いに川を横切ります。


 かつてスキー場だった明神平には平原が広がります。


 大阪府立北野高等学校の山小屋で風を避けて昼食です。


 ブナ林を進めば、明神岳山頂(1,432m)です。晴れていても眺望は期待できないそうです。


 檜塚奥峰(1,420m)では、少し霧が晴れて眺望が開けました。

 


 檜塚(1,402m)から下山する時には雨が上がり、檜塚奥峰を見ることができました。

 

 

 千秋林道を下ればバスが待っています。雨の中を歩くためのトレーニングとも言うべきトレッキングでした。

 6月1日(木)は、「学能堂山(がくのどうやま、奈良県御杖村)」です。前日と違い好天で、眺望を楽しむことができました。

 

 林道から山道を登るとコスマ峠です。

 

 

 白土山(982m)はブナ林の中にあり、どこが山頂なのか分かりにくいです。

 

 少し進んで北を見れば、学能堂山(1,021.4m)が聳えています。

 

 いったん下り、急坂を登ります。急坂】


 山頂付近では、シャクナゲを見ることができました。

 


 昼食後は、北に向かって急坂を下って林道に出ます。
 林道を出れば伊勢本街道の杉平で、「太一」と彫られた常夜燈が建っています。奈良県内では「太神宮」なので、三重県にいることを実感します。

 


 さすがに二日続けて同方面のトレッキングツアーに参加すると、疲れました。

2022年06月01日奈良県:その他, 吉野郡トレッキング:トレッキング

ミニシンポジウム「聖徳太子の伝説と真実 王寺編」(奈良県王寺町)

 令和4年5月22日(日)午前、ミニシンポジウム「聖徳太子の伝説と真実 王寺編」を聴講しました。
 大阪府柏原市立歴史資料館が、奈良県王寺町・三郷町(さんごうちょう)と共同して企画展「聖徳太子の伝説と真実」を開催しており、その関連イベントとして実施されるものです。

 

 この三市町は、龍田道や大和川を通じて深い関係にあります。

 

 最初に王寺町学芸員の岡島永昌さんが、分かりやすく具体的に「見どころ解説」をされます。
 その後、安村俊史橿原市立歴史資料館長・三郷町の大塚慎也さんを加えた三人で座談会が行われ、安村館長から岡島さんに鋭い突っ込みがありました。

 充実した内容のミニシンポジウムを楽しむことができました。

1 聖徳太子の伝説
(1) 芦田池
 池を掘る相談をしていた翌朝(=「あした」(前夜に何か事のあった翌日の朝))に池ができていたので、聖徳太子の霊瑞として「あしたの池→芦田池」。
(2) 送迎(ひるめ)
 聖徳太子を送迎した道の途中にあり、昼食を食べられたので「ひるめし(昼飯)→ひるめ」と呼ぶようになった。
(3) 達磨寺(だるまじ)


 本尊は、聖徳太子坐像(1277(建治3)年)


 達磨会式が行われるのは聖徳太子の命日「4月11日」に因む。
 達磨寺の修理は法隆寺とセット(17世紀)。
 片岡飢人伝説(『聖徳太子伝略』(10世紀))。


2 西安寺跡(舟戸神社)


(1) 太子葬送の道
 東西に走る龍田道沿いに法隆寺(斑鳩町)や平隆寺(三郷町)などが位置するのに対して、王寺町では南北に走る道沿いに西安寺や片岡王寺などが位置する。
(2) 塔跡
  建立年代が近い(7世紀末~8世紀初)法隆寺「五重塔」と遜色のない規模
(3) 金堂跡
 規模は法隆寺「金堂」に劣る。 
 塔跡の北に金堂跡があり、東回廊跡も確認できたことから、南向きの「四天王寺式伽藍配置」か? 
 金堂の北は版築で丁寧に整地されているが、講堂基壇は未発見

 

 金堂北の中心部で、直径33cmの柱根と直径15cmの沿柱4本を発見。北を眺める大和川から金堂の仏像を拝むための木製灯籠か?
 金堂基壇北の発掘調査で階段跡は発見できず。

 

 法隆寺若草伽藍(7世紀初頭)と同笵(同じ型を使用)の軒丸瓦が出土。金堂も7世紀初頭の建立か?

 

←【安村館長】聖徳太子と関連付けるため、後世に古い瓦を載せることがある。軒丸瓦が少ないとなると、平瓦で比較できないか。

3 片岡王寺跡(旧王寺小学校)
 僧寺
← 【安村館長】古代の寺院は僧寺と尼寺がセット。片岡尼寺に関しては尼寺廃寺説と西安寺説があるが、尼寺廃寺の地は片岡と言えないので西安寺が尼寺か
 中世以降は「放光寺」。
 塔・金堂・講堂が南北方向に並ぶ四天王寺式伽藍配置
 エ 東側を南北に走る国道168号線拡幅工事で、石積溝と瓦葺掘立柱塀跡を確認。 → 東向きだった可能性?
 平城宮第一次大極殿と同笵の鬼瓦が出土。→ 皇族に近い寺なので「おうじ(皇寺→大寺)」か?


4 達磨寺
 達磨大師墓と伝えられる3号墳の上に本堂。 
 ①片岡王寺の創建者を敏達天皇の皇女「片岡姫」か聖徳太子の娘「片岡女王」とし、②『片岡山御廟記』(12世紀)に達磨大師墓の夢の話が出てくるのは、聖徳太子との関係性を強めるために作られた説話。
 片岡王寺は、鬼門(北東)に位置する古墳を取り込みながら拡大することを意図
 3号墳(6世紀)の調査で、①周溝が古墳の中心と合わないこと、②7~8世紀の土器や瓦が出土したことから、飢人伝説に基づく神聖な古墳として整備していた?
← 【安村館長】6世紀の古墳を7~8世紀に神聖化するのは時期が近すぎる。古墳を築山に見立て、庭園として整備したのではないか。

5 まとめ
 聖徳太子の時代(7世紀前半)、寺院は東西に走る竜田道に沿って整備。
 山背皇子の時代(7世紀中頃)、寺院は南北に走る道に沿って整備
 飛鳥時代の寺院を考察するうえで、創建が聖徳太子生前か没後かを考慮することが重要

2022年05月22日古墳:円墳建造物:寺院歴史:古代奈良県:その他

近鉄文化サロン「笠置寺弥勒立像磨崖仏の復元」

 令和4年5月21日(土)午後、近鉄文化サロン「笠置寺弥勒立像磨崖仏の復元」を聴講しました。講師は大阪大谷大学教授の狭川真一先生で、石造物研究の第一人者です。


 鹿鷺山笠置寺は京都府笠置町に位置しますが、奈良市柳生から東海自然歩道を歩いて1時間程度の近さで、文化圏としては奈良に属しています。


 寺伝では飛鳥時代創建となっていますが、実際の創建は奈良時代と考えられます。

 

 境内には巨石がゴロゴロしており、修行場を持つ山岳寺院でした。


 ご本尊は高さ15mの巨石に彫られた弥勒立像磨崖仏ですが、鎌倉時代の「元弘の変」(1331年)で焼失してしまい、今は光背の輪郭が残るだけです。


 この磨崖仏については、次の理由により、線刻だと考えられてきました
(1) この磨崖仏をモデルにしたとされる鎌倉時代の「大野寺弥勒磨崖仏」(宇陀市)や「みろく辻弥勒摩崖仏」(京都府木津川市)が線刻。

 

 

 

(2) 笠置寺に残る「伝虚空蔵菩薩立像磨崖仏」が線刻。

 

 これに対して、狭川先生は、次の仮説を立てられます。
(1) 焼失部分を観察すると、全体的に膨れた感じがする。線刻だと凹むはずなので、浮彫だったのではないか
(2) 焼失部分の表面に削(はつ)った痕跡がある。線刻あるいは絵画で復元を試みたのではないか

 これを検証するための方策を検討されますが、①20度程度前傾しており拓本の採取は困難、②大規模な足場を組む必要があるのでステレオ写真による写真測量は困難です。
 そこで、知り合いの測量会社の方に相談して、①3Dレーザー・スキャン、②ドローン撮影したデータを補足、③20度の前傾を正面に補正して等高線図を作成されました。その結果、浮彫だったことが判明しました。
 さらに、この磨崖仏を描いた鎌倉時代の重文「絹本著色笠置曼荼羅図」(大和文華館)では左右に僧形像が描かれているが、石仏にはそのスペースがないとことも確認できました。

 

 最後に、堅い花崗岩の加工技術は日本独自のものでないこと、頭部が大きいことから、制作したのは渡来系の石工集団ではないかと結論づけられます。
 新しい科学技術を活用することを楽しんで研究されていることが感じられる講演でした。

2022年05月21日歴史:古代奈良県:その他仏像:石像

大阪城(大阪市)

 令和4年5月21日(土)、大阪城を探訪しました。

 

 大阪城と言えば今年90年を迎える復元大天守のイメージが強くて敬遠していました。しかし、『大阪城』(創元社、2022年)を読んで認識を改め、この本に掲載されているモデルコースを歩くことにしたのです。

 

 最初は、豊臣秀頼が再建した玉造稲荷神社です。


 大阪城の構造について、かつては本丸・二ノ丸・三ノ丸が同心円状に広がっていたとする三重構造説が定説でしたが、近年ではさらに外側に惣構があったとする四重構造説が有力になっています。
 惣構には、玉造稲荷神社や細川忠興屋敷などの武家屋敷がありました。

 

 南外堀に面した石垣は総延長2km・堀の最大幅75mと壮大なスケールです。

 かつては七つの二階二層櫓が並んでいましたが、今は一番櫓と六番櫓が残るだけです。

 

 一番櫓には、16の窓のほか狭間(さま)も設けられています。

 

 玉造口から二ノ丸に入り、豊国(ほうこく)神社に参拝します。

 

 一角には高名な作庭家・重森三玲による秀吉庭(しゅうせきてい)」があります。

 

 次に南西に位置する正門「大手口」を見学します。

 

 大手門を入れば、大手口枡形(出入口に設けられた四角形の防御施設)です。

 正面には108㌧「大手見附石」を始め三つの巨石が置かれ、鏡石として城主の権威を誇示していました。

 


 鉄板張りの多聞櫓を潜り、「西の丸庭園」に向かいます。

 
 西の丸庭園には芝生が広がりますが、かつては城代上屋敷があり井戸跡が残っています。

 

 北には、黒色火薬を保管していた石造「焔硝蔵」があります。


 石垣と西外堀の規模を体感できる「坤櫓(ひつじさるやぐら)跡」と、内堀越しに大天守を望む庭園東側は、撮影スポットです。

 


 ここで午前中の探訪を終え、午後は南の「桜門」(1887(明治20)年再建)から再開します。
 門の東側の石が竜石(たついし)・西側の石が虎石(とらいし)と呼ばれています。


 左右の堀には水がありません。上町台地の中で一番高い場所だからとも推定されています。

 

 桜門を入ると正面に城内最大の巨石「蛸石」があります。向かって左端に蛸の頭のような模様があることに由来します。
 縦5.5m・横11.7mですが、高度な加工技術で厚さ0.75mにまで削られています。


 大天守の手前奥には、平屋の金蔵があります。

 

 「大阪城天守閣」には入らずに、北に進みます。

 

 山里口出桝形の西には、敵兵を横から襲うために兵が隠れていた南北に細長い「隠し曲輪」があります。

 


 山里丸には秀吉が茶室を作っていましたが、今は石碑「豊臣秀頼・淀君ら自刃の地」が建っています。

 

 極楽橋を渡って二ノ丸に出ます。
 竹生島宝厳寺(滋賀県長浜市)の国宝「唐門」は、かつて極楽橋にかかっていました。

 


 二ノ丸最北端の「伏見櫓跡」に行きます。唯一の三重櫓が建っていた場所で、北外堀の景観が楽しめます。

 

 


 北西の京橋口から二ノ丸を出ます。京橋口桝形には大きな肥後石が残ります。

 


 時間の関係で大阪城天守閣や搦手口(裏口)の「青屋門」には寄れませんでしたが、大阪城の壮大さを体感しました。

2022年05月21日城郭:平山城歴史:近世・近代

吉野ビジターズビューロー「吉野ゆかりの天皇陵を巡る」(奈良市→奈良県明日香村→吉野町)

 令和4年5月15日(日)、吉野ビジターズビューロー「吉野ゆかりの天皇陵を巡る」に参加しました。講師は、大淀町学芸員の松田度さんで、ライフワークが天皇陵古墳の研究です。
 北の奈良市を出発して明日香村を経て吉野町に向かいますが、巡るのが全て吉野宮に行幸した天皇陵と言うこだわりようです。


 最初に訪れるのは、元正天皇「奈保山西陵」です。元正天皇は平城遷都した元明天皇の娘で、夭折した文武天皇の姉に当たります。

 

 平城京では、京域内に葬地を設けることが認められませんでした。そこで、京域の北端に隣接する佐保山丘陵に天皇陵を設けました。
 したがって、当初の元正天皇陵は供養塔のようなものであり、墳丘ではなかったと考えられます。ちなみに、宮内庁のウエブサイトでは「山形」となっています。
 近くには、元明天皇「奈保山東陵」がありますが、吉野宮に行幸していないので寄りません。

 


 南に移動して、同じ佐保山丘陵に位置する聖武天皇「佐保山南陵」に行きます。
 ①この地が選ばれた理由、②墳丘でないことは、元正天皇陵と同じです。


 ここから、昼食会場の道の駅「レスティ唐古・鍵」(田原本町)に向かう車中で、松田さんが興味深い話をされました。
(1) 吉野宮造営に際して三輪山から勧請されたオオアナムチは「南山の九頭龍」とも呼ばれ、聖武天皇は疫病退散を願って宮滝で祭祀を行った。
(2) 日が昇る三輪山が龍の頭、日が沈む二上山が尾とされ、両者の中間に位置する田原本町には「蛇巻きの行事」が残っている。


 昼食後、明日香村に向かう車中でも、「飛鳥と吉野はコインの裏表」として興味深い話がありました。
(1) 飛鳥は大和川水系、吉野は吉野川水系に属する。
(2)飛鳥では両槻宮(ふたつきのみや、酒船石・亀形石造物)や飛鳥京苑池で水の祭祀が行われ、吉野では宮滝で水の祭祀が行われた(宮滝醤油の駐車場は苑池跡)。
(3)両槻宮と吉野離宮の両方を造ったのが斉明天皇

 飛鳥では最初に、斉明天皇陵であることがほぼ確実である八角墳「牽牛子塚古墳」に行きます。
 前面に凝灰岩切石を貼った復元方法に関して賛否両論ありますが、松田さんは「古墳を守るためのヘルメットだと思えば良い」と言われます。確かに、明日香村作成のリーフレットにも《復元した外観は墳丘を保護するためのシェルターの役割を果たしています。》と書かれています。
 墳頂が平らなことに関しては、ストゥーパ(塔)が建っていたからではないかと説明されます。

 

 次に、天武天皇の孫の文武天皇陵であることがほぼ確実である「中尾山古墳」に行きます。
 場所としては、壁画で有名な高松塚古墳より中心に近い位置にあります。

  今は荒れた状態ですが、発掘調査で八角墳であることが確実になり、今後、整備が進むそうです。

 

 

 飛鳥の最後は、天武・持統天皇陵です。周囲を回って八角形であることを確認します。

 

 ここで、松田さんは大胆な推論を示されます。
(1) 持統天皇は自らが完成させた藤原宮の高御座から八角墳を考えた。
(2) したがって最初の八角墳は天武・持統陵で、それ以前の舒明天皇陵や牽牛子塚古墳は遡って八角墳に改変された。

 最後は、吉野町の後醍醐天皇陵古墳です。
 後醍醐天皇が吉野に来られた理由について、吉野の持つ底力に魅かれたのではないかと説明されます。
 後醍醐天皇陵については、『太平記』に《魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ》とあることから、京都のある北を向いていると言われています。これに対して、私は、他にも敏達天皇陵のように北面している(遥拝所が南向き)天皇陵があることから疑問に思っていました。
 この疑問に関して、松田さんから明確な説明がありました。
(1) 後醍醐天皇は火葬されたので、骨壺を収める塔が如意輪寺の前身寺院にあった。
(2) 17世紀半ばの後醍醐天皇ブームの中で、新たに墳丘が築造された。
(3) その際に『太平記』に記述を受けて南向きの遥拝所を設けた


 松田さんの深い学識に基づく分かりやすい説明を聞きながら、吉野ゆかりの天皇陵を巡ることができました。
 松田さんは、吉野山に関して幾つもの引き出しを持っておられるようなので、次回は、如意輪寺・吉野水分神社などディープな吉野山を探訪するツアーを期待します。

2022年05月15日古墳:その他歴史:中世, 古代, 古墳時代奈良県:その他, 吉野郡, 奈良市

やまとびとツアーズ「名物ガイドと橿原・飛鳥の古墳に入ろう!」(奈良県橿原市、明日香村)

 令和4年5月14日(土)午後、やまとびとツアーズ「名物ガイドと橿原・飛鳥の古墳に入ろう!」に参加しました。名物ガイドとは、雑賀耕三郎さんのことです。
 今回のツアーの目玉は、最初に訪れる橿原市の二つの古墳です。普段は石室の入口に鍵が掛かっているのですが、市職員の方に特別に鍵を開けてもらえるのです。


 最初に訪れる県史跡「小谷古墳」は、橿原市の最高峰「貝吹山」(210.3m)から北東に延びる越智丘陵の先端にあります。
 墳丘の半分は壊れていますが一辺35mの方墳だと考えられており、全長11.6mの両袖式横穴式石室は南に開口しています。

 


 石室は巨石で構成されており、羨道には3つの石が並んでいます。

 

 玄室の奥壁は上下に2つの石が積まれています。

 

  玄門上部などに残る漆喰は、7世紀中頃の築造当初のものです。


 玄室には、堆積岩「ハイアロクラスタイト」の竜山石で造られた刳抜式石棺が残されています。蓋は縄掛け突起がない新しいタイプのものです。


 羨道の長さは半分程度ですが岩屋山古墳(明日香村)と良く似た構造で、斉明天皇陵との説があったことも納得できる立派さです。

 ここから越智丘陵を南東に移動して、沼山古墳に向かいます。
 直径18mの円墳で、全長9.5mの右片袖式横穴式石室は南に開口しています。

 


 築造時期は小谷古墳より古い6世紀後半、石室は石材を7~8段積み上げています。5段目以上は持ち送りで、天井は4.25mと高くなっています。

 


 副葬品としてミニチュア炊飯具が出土したことから、渡来系の人々の墳墓だと考えられています。

 ここから南に急坂を登れば、県史跡「益田岩船」です。東西11m・南北8m・高さ5mの花崗岩の巨石で、上部には、一辺1.6m・深さ1.3mの正方形の穴が二つ東西に並んで彫り込まれています。
 何のためのものなのか古くから議論がありました。現在では、二つの墓室を持つ刳抜式横口式石槨(せっかく、小型化した切石式石室)を造ろうとしたが何らかの理由で途中で放棄したものとする説が有力です。

 

 山道を少し歩けば、斉明天皇陵の可能性が高い八角墳「牽牛子塚古墳」で、復元整備に際して表面に凝灰岩の切石が貼られました。
 埋葬施設は2つの墓室を持つ刳抜式横口式石槨で柔らかい堆積岩「凝灰岩」で造られていますが、前に残る外部閉塞石は堅い火成岩「安山岩」です。

 


 牽牛子塚古墳の前には、一辺10mの方墳「越塚御門古墳」があります。

 

 埋葬施設として刳抜式横口式石槨が見つかり、発掘当初の状態で展示されています。ただし、こちらは堅い火成岩「石英閃緑岩(飛鳥石)」で造られており、天井部と床石に分かれています(鬼の雪隠・俎と同じ構造)。

 

 最後は、岩屋山古墳です。7世紀中頃に築造された一辺40m・二段築成の方墳ですが、上段を八角形として斉明天皇陵だとする見解もありました。

 

 全長17.78mの切石二段積み横穴式石室は極めて精緻な構造で「岩屋山式石室」として標準になっています。


 さまざまなタイプの石室や石槨を楽しんだ半日でした。 
 

2022年05月14日古墳:その他, 円墳歴史:古墳時代奈良県:その他

毎日新聞旅行「二上山・大和葛城山・金剛山・紀見峠へ」(奈良県葛城市→和歌山県橋本市)

 令和4年5月12日(木)~13日(金)、毎日新聞旅行「二上山・大和葛城山・金剛山・紀見峠へ」に参加しました。
 金剛葛城山系の稜線を南北に縦走するダイヤモンドトレールコースがあり、全45kmのうち33kmを歩きます。

 

 一日目は、雨の中、近鉄南大阪線二上山駅から大和葛城山をめざします。


 二上山(にじょうざん、ふたかみやま)の雄岳(おだけ、517m)山頂には、宮内庁が治定する大津皇子墓がありますが、東麓の鳥谷口古墳(葛城市)が本当の墓だとされています。


 馬ノ瀬を経て南に進むと雌岳(めだけ、474m)で、大きな日時計がありますが、雨の中ではむなしいだけです。


 岩屋峠で少し寄り道して鹿谷寺(ろくたんじ)跡に寄り、凝灰岩の岩盤を彫り込んで造られた石塔などを見学します。

 

 

 二上山を下り切れば竹内峠です。東西に日本最古と言われる国道「竹内街道」(現在は国道166号線)が走っており、峠の東が大和国・西が河内国でした。

 

 竹内峠から南に登れば岩橋山(いわはしやま、658.8m)で、ここから南に向けて厳しい木段を下ります。

 


 岩橋峠を過ぎると快適な山道となりますが、霧のために眺望は楽しめません。

 

 東に向かっては、近鉄新庄駅や忍海(おしみ)駅など各方面に下る道があります。晴天のなかを歩いてみたいものです。

 

 いくつもの厳しい木段を越えれば、大和葛城山(やまとかつらぎさん、958.6m)の山頂ですが、眺望は全くききません。

 

 

 夜は、葛城高原ロッジに泊まります。


 5月13日(金)は朝の5時頃に目覚めて外を見たところ、雨が止んでいたので散策します。
 ツツジは少し盛りを過ぎていましたが、雨に濡れてしっとりとしています。


 南には、これから向かう金剛山が姿を見せています。

 

 念のために山頂に行ったところ、西に淡路島が見えました。


 葛城山ロープウエイ山頂駅の展望台から東を見れば、雲海の向こうに奈良盆地東部の山々が見えます。

 

 朝食後、降り出した雨の中、水越峠に向かって厳しい山道を下ります。

 


 水越峠から南に、単調なガンドガコバ林道を進みます。

 


 林道が終われば、厳しい登りが始まります。

 

 金剛山(こんごうさん、正しくは葛木岳、1,125m)の山頂は葛木神社の神域にあり立ち入ることができないので、神社に参拝します。

 

 ここから南東の紀見峠に向かってひたすら歩きます。 


 千早峠から南東に向かって下る道には「天誅組行軍の道」と書いた標識がありました。
 明治維新の魁とされる「天誅組の乱」は、この道を進んだ志士たちが五條代官所を襲撃したことから始まったと思うと感慨深いです。 

 

 行者杉には二本の大きな巨木が生えています。ここは、奈良県(五條市)・大阪府(河内長野市)・和歌山県(橋本市)の府県境です。

 

 今回のトレッキングは紀見峠で終わりです。

 

 雨の中を何とか歩き切ることができてホッとしました。

2022年05月12日奈良県:その他トレッキング:トレッキング

長谷寺(桜井市)・室生寺(宇陀市)

 令和5年5月5日(木、祝)午後、長谷寺(桜井市)に行き、やまとびとツアーズ「長谷寺尼僧が優しく教える、お寺のひみつ」に参加しました。


 案内は、修行中の尼僧の後(うしろ)さんです。
 本尊の重文「十一面観音菩薩立像」は、右手に錫杖を持っておられるのが特徴的で、長谷寺式観音と呼ばれています。
 10m余りの高さですが、間近で特別拝観できたので、頭部の菩薩面の表情がはっきりと確認できました


 国宝「本堂」におられる賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)や、本堂から五重塔の撮影スポットを教えてもらいました。

 


 その後、昭和寮に移動して講演「英岳僧正と将軍綱吉~狩野派をとおしてみるその関係~」を聴講します。講師は京都国立博物館名誉館員の狩野(かの)博幸先生ですが、狩野派とは関係ありません。
 英岳僧正の名前は初めて知ったのですが、長谷寺の第14世能化(のうけ)で、江戸に長くいたことから綱吉や母の桂昌院と交流があり、御用絵師である狩野派とも関係がありました。

 

 以下、講演で興味深かった内容です。
 なお、講演は狩野派の説明で時間切れとなり、演題にまでは話が及びませんでした
(1)専門は近世絵画で奈良県の大学に勤めたが、奈良県では安土・桃山時代以降は軽視されるので京博に転職。
(2)狩野派では二代目の元信が分業化・組織化を推進
(3)元信は孫の永徳の画力・統率力を認めて帝王教育
(4)宮内庁「唐獅子図屏風」は元来は大阪城の壁貼り付け紙で、秀吉が陣中屏風に仕立て直し、本能寺の変に際して講和の際に毛利家に贈呈したと推測。作者は永徳と孫の探幽。

 

(5)カリスマ的存在だった永徳が1590年に急死したことにより狩野派は大混乱。その間隙を縫って長谷川等伯が智積院の壁画作成を獲得。
(6)混乱を体験した永徳の末弟・長信は、木挽町狩野・鍛冶橋狩野(探幽)・中橋狩野の三奥家(将軍と対面できる旗本)を創設
(7)三面作戦として、それぞれ、豊臣家・徳川家・朝廷と密接な関係
(8)大名に仕える絵師の95%は狩野三奥家で修行。→画塾を通じて狩野派が浸透。
(9)江戸時代の始まりについて、東博は家康が征夷大将軍に就任した1608年・京博は大坂夏の陣で豊臣家が滅んだ1615年。

 その後、宗宝蔵に行き、学芸員(狩野先生の教え子)の案内で綱吉や英岳僧正の肖像画を拝見します。狩野先生がおられたので、いろいろと質問できました。 

 

 午前中は室生寺(宇陀市)に行きました。この時期は、室生寺と長谷寺を結ぶ奈良交通の臨時バスが出ているので便利です。

 


 目的は、国宝「金堂」の仏像を拝観することと、金堂から移された仏像を寶物殿(2020年9月オープン)で拝観することです。
 かつて金堂にはたくさんの仏像が所狭しと安置されており、それを廊下から拝見していました。

 

 

 今、金堂におられるのは国宝「釈迦如来立像」、重文「薬師如来立像」「文殊菩薩立像」「十二神将」の一部などで、外陣からゆっくりと拝見できます。
 金堂の本尊である釈迦如来は、本来は薬師如来であり蟇股には薬壺の絵が彫られています。

 

 かつて金堂におられた国宝「十一面観音立像」などは寶物殿に移されています。収蔵庫を兼ねておりガラス越しに拝見するので、少しありがたみに欠けます。


 一年ぶりに長谷寺・室生寺に行きましたが、牡丹や石楠花に気を取られることなく、じっくりと仏像を拝見できました。

2022年05月05日建造物:寺院歴史:中世, 古代, 近世・近代奈良県:その他仏像:木彫像

書寫山圓教寺「新緑まつり」(姫路市)

 令和4年5月3日(火、祝)、人混みを避けて、自宅近く書寫山圓教寺(しょしゃざんえんぎょうじ)に行きました。

 

 996年に性空(しょうくう)上人が創建した天台宗の寺で、懸造の摩尼殿は昭和8年に再建されたものです。


 西国巡礼札所に選ばれていることから多くの巡礼者が来られますが、大半の人はロープウェイを利用して山上に登り、摩尼殿まで往復するだけなのでもったいないことです。


 ロープウェイ山上駅近くにオープンした展望デッキ「ミオロッソ書写」からは南東に展望が広がります。

 

 摩尼殿に向かう参道から東には、遠く明石海峡大橋が見えます。


 5月3~5日は「新緑まつり」で、摩尼殿の西奥にある「大講堂」「常行堂」「開山堂」の内部が公開されており、写真撮影も可能です。

 


 重文「大講堂」(室町時代)の本尊は平安時代の重文「釈迦三尊像」です。


 重文「常行堂」(室町時代)は常行三昧を行うための道場で、中央に重文「阿弥陀如来坐像」がおられます。


 常行堂の北部分には、大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するための舞台が設けられています。

 


 開山堂(江戸時代)に秘仏として安置されている性空上人坐像は、1288年に慶快が造りました。


 開山堂の隅木を支える組物には力士像が彫られていますが、北西にだけはなく、重みに耐えかねて逃げ出したとの伝承があります。


 今回、私は東の置塩(おきしお)坂から登りましたが、山岳仏教であることが体感できる厳しい坂です。

 

 途中には、半肉彫りの石仏があり、チベットの国旗が掛かっています。

 

 北東には、赤松政則が築城した中世の山城「置塩城跡」が見えます。


 帰りは、北西に向かって鯰尾(ねんぴ)坂を下り、森林浴を楽しみます。


 坂の名前は、赤松政則の命により麓に鯰尾知方が住まいを設けたことに由来します。

 

 近場で快適なトレッキングを楽しんだ半日でした。

2022年05月03日建造物:寺院歴史:中世, 古代, 近世・近代兵庫県:姫路市仏像:木彫像トレッキング:トレッキング

奈良博「大安寺のすべて」・大安寺・羅城門跡(奈良市)

 令和4年4月30日(土)、奈良博「大安寺のすべて」を観覧しました。


 大安寺の沿革は、舒明天皇(天智・天武天皇の父)が建立した日本最初の官寺「百済大寺(吉備池廃寺跡)」→高市大寺(ギオ山西遺跡(雷丘の北西))→大官大寺(藤原京)まで遡ります。

 


 平城京に移転した際は、26万㎡の寺域に90余の堂塔が並ぶ大寺院でした。


 今回の展覧会には、今も大安寺に伝わる9体の仏像(重要文化財)が出陳されています。
 特に、本尊「十一面観音立像」は100年ぶりの寺外公開ですが、展示期間は前期のみで、後期は馬頭観音立像と入れ替わります。

 

 楊柳観音立像は、観音であるにも関わらず少し怒った表情です。

 

 普段は、なら仏像館で展示されている重文「虚空蔵菩薩坐像」(額安寺(大和郡山市)が文化庁に売却)も、こちらで展示されています。
 ただ、音声ガイドによると、左足を踏み下げているなど虚空蔵菩薩の儀軌に従っておらず別の仏の脇侍だった可能性が高いそうです。

 

 観覧後、大安寺に移動します。
 かつての南門は高さが20mもあり、平城宮跡「朱雀門」と同じ大きさでした。

 

 

 寺域は最盛期の4%に減少していますが、東西に残る七重塔の基壇が往時を偲ばせます。


 馬頭観音立像は嘶堂(いななきどう)におられます。眉をひそめた憤怒の表情が印象的です。


 このお堂で、天平伽藍復元CGも体験できます。
 他に誰もいなかったので、徒歩と空中、両方を存分に体感することができました。


 北の旧境内には、全長154mの前方後円墳「杉山古墳」があります。5世紀後半の築造で盾形周濠がありましたが、奈良時代に埋め立てられました。
 また、前方部南西は大きく削られ、大安寺の瓦窯跡6基が築かれました。

 

 

 杉山古墳から出土した大型の家形埴輪は、奈良博「大安寺のすべて」に出展されていました。

 

 大安寺の拝観後、天気が良いこともあり、南西にある羅城門跡(平城京の入口)まで歩きました。

 

 羅城門跡から北を見れば、遠くに平城宮「大極殿院『正殿』」が見えます。

 

 

 足を延ばし過ぎたので、本来の目的である啓林堂書店奈良店「倉橋みどりさんのミニトーク&サイン会」の開始に少し遅れてしまいました。

2022年04月30日古墳:前方後円墳建造物:寺院歴史:古代, 古墳時代奈良県:奈良市仏像:木彫像

利神城ガイドツアー(兵庫県佐用町)

 令和4年4月26日(火)、国指定史跡「利神城跡(りかんじょうあと、373m、兵庫県佐用町)」に登りました。整備中のために、地元ガイドさんの案内でしか登城できません。

 

 戦国時代に別所氏によって築かれた中世山城ですが、江戸時代初期に池田由之(姫路城を大改修した池田輝政の甥)により、山頂周辺を総石垣構造にするなど大改修が行われました。


 利神城は、(1)山頂付近の山城地区(2)西山麓の御殿屋敷地区から構成されており、本来の登城口は西側なのですが道が荒れているので、南西から登ります
 なお、御殿屋敷地区の南石塁は智頭急行鉄道で分断されてしまっています。

 


 高木が生えた急な坂道を進むと、三の丸に出ます。

 北には本丸が聳え、東には馬場や大堀切が見えます。

 

 
 昨年7月に登城した際は三の丸まででしたが、今日は二の丸や本丸にも行けます。


 二の丸から見下ろすと、三の丸の両側に厳しい切岸(人工的な急斜面)が造られていることが分かります。


 本丸東の虎口(こぐち、出入口)には立派な石垣が築かれています。

 

 本丸から西を見下ろすと、佐用川に沿って走る因幡街道が目に入ります。


 その北には、大坂丸が見えます。その南西には、横移動を防ぐために麓から延びる大竪堀があるのですが、木が生い茂っていて確認できません。


 本丸北東の尾根筋には土造りの鴉丸(からすまる)があり、傾斜が厳しい北側からの攻撃が困難だったことが分かります。


 本丸に登ることにより、利神城の全体像に関する理解を深めることができました。

2022年04月26日城郭:山城歴史:中世, 近世・近代兵庫県:播磨

金峯山寺二王門「保存修理工事現場見学会」(奈良県吉野町)


 令和4年4月24日(日)、金峯山寺二王門「保存修理工事現場見学会」(吉野町)に参加しました。


 国宝「二王門」は北に向いている三間一戸二重門で、棟高20.23mです。
 建立年は風鐸銘の年号により康正2(1456)年)とされていますが、安置されている重文「金剛力士像」の胎内に延元3・4(1338・1339)年と墨書されていることから、この時期まで遡る可能性があります。

 


 昭和25(1950)年に解体修理されましたが、基礎の不同沈下・柱の虫害など破損が認められることから、令和2~10(2020~2028)年に解体修理が行われることとなりました。
 現在、建物を全体を覆う素屋根が完成しています。


 最初に、素屋根の3階部分に上がります。
 見上げれば、入母屋造の大棟が見えます。

 

また、北には参道が見下ろせます。

 

 「金峯山寺」と書いた扁額が見えることから、初重と二重の間にいることが分かります。


 二重に敷かれた瓦は随分と痛んでいます。


 さらに、葺土が耐用年数を過ぎて、屋根全体で瓦が弛緩しています。


 二階に下りて初重を見学します。

 

 垂木(たるき)や、それを支える巻斗(まきと)など組物が痛んでいることが確認できます。


 一階に下りて、北東の柱の礎石を見ます。壊れた礎石を補強するために東西方向に礎石が追加されていますが、それでも東に沈下しています。解体後の状況によっては、礎石全体を交換することも想定されるそうです。

 

 寄木造りの重文「金剛力士像」は、二王門から運び出されて解体修理後、奈良博「なら仏像館」に安置されています。
 お寺の方によると、運び出すに際しては、“重文の仏像を運び出すために、国宝の二王門を壊すことは認められない”とのことで、柵を構成する縦の木は外せたのですが横木を外すことができず、苦労されたとのことです。

 


 解体修理工事が完了する令和10(2028)年に開催されるであろう修理工事完成見学会が今から楽しみです。

2022年04月24日建造物:寺院歴史:中世奈良県:吉野郡仏像:木彫像

やまとびとツアーズ「棚田の里にまだ見ぬ古墳を訪ねて」(奈良県宇陀市、桜井市)

 令和4年4月23日(土)、やまとびとツアーズ「棚田の里にまだ見ぬ古墳を訪ねて(宇陀市、桜井市)」に参加しました。


 最初に、今回のメインである嶽山(だけやま)古墳(宇陀市)に向かいます。普段は林道に鉄柵があって入れないのですが、特別に開けていただきました。

 

 墳丘は直径10.7m・高さ2.5mの円墳です。


 羨道から奥を覗くと土で埋もれています。


 しかし、天井石の一部が欠けているので、その隙間から入ります。
 ガイドの雜賀耕三郎さんが、出入りするコツを実演されます。


 玄室は長さ2.2m・幅1.6m・高さ1.8mで、さらに長さ2.0m・幅1.2m・高さ0.96mの奥室があります。奥室にも入ってみました。

 

 

 奥室で連想するのは花山西塚古墳(桜井市)の磚槨式石室で、2km程度しか離れていない両者はどんな関係にあるのか気になります。


 ここから西に向かい、粟原と岩坂の境となる尾根上にある粟原森貝(おうばらもりがい)古墳群(桜井市)をめざします。
 昨年11月27日(土)に桜井市観光協会「わくわくドキドキ大和桜井の古墳探訪!狛・岩坂編」で歩いたのとほぼ同じコースです。


 最初は2号墳です。斜面を削って造営されており、北側には厳しい堀割が残り、方墳だと推定されています。

 

 全長4.25m・幅1.05mの横穴式石室に関して、『桜井市の横穴石室を訪ねて』には《石室内部は土砂が溜まっており入ることはできない》と書かれていますが、大部分の人が腹ばいで入りました

 


 すぐ東には1号墳がありますが、こちらは全体が土砂に埋まっていて内部を覗くことができません。


 少し離れた3号墳に移動します。
 最初から2つの石室を構築することを想定した双室墳です。


 西側の石室は全長4m・幅1mで、先の本には《辛うじて中が覗ける程度》と書かれていますが、やはり大部分の人が腹ばいで入りました


 東側の石室は全長3.6m・幅1mと西側と似た規模ですが、こちらは辛うじて中が覗ける程度です。

 

 墳形は不明ですが、北側を中心に葺石の痕跡が残ります。


 最後は、直径10m・高さ2mの円墳「岩坂式シ山古墳」です。
 北に向かう尾根上に築かれていることから、被葬者は初瀬谷の有力者だと推定されています。

 

 玄室は長さ4.1m・幅1.7mで、羨道がそんなに土砂で埋まっていないので、簡単に入ることができます。

 


 人数が少なかったこともあり、古墳造営技術を素晴らしさを、より深く体感することができました。

2022年04月23日古墳:その他, 円墳歴史:古墳時代奈良県:その他

毎日新聞旅行「大普賢岳」(奈良県上北山村)

 令和4年4月17日(日)、毎日新聞旅行のツアーで大普賢岳(だいふげんだけ、1,780.1m、奈良県上北山村)に登りました。


 和佐又ヒュッテ跡までバスで行き、そこから少し登れば和佐又山(わさまたやま、1,344.0m)です。


 山頂からは、同じ大峰山系の弥山(みせん)やハ経ヶ岳(1,951.1m、奈良県最高峰)が見えます。 


 ブナやヒメシャラが生えた気持ちの良い山道を進みます。


 厳しい山腹道を進めば修験場「笙ノ窟」です。

 


 ここから少し登れば、大峯奥駆道です。至る所に鉄の階段や鎖が設置されていて這うようにして登ります。
 これらがなかった時代の修験は、想像を絶します。


 大普賢岳山頂では南から西にかけて展望が開け、北側の大峯奥駆道が一望できます。

 


 全身を使った心地よい登山でした。 

 ただ、一泊して国見岳・七曜岳なども含めて周回コースを楽しみたかったのですが、和佐又ヒュッテが廃止・撤去されてしまったのが残念です。

2022年04月17日奈良県:吉野郡トレッキング:トレッキング

京都定期観光バス「京都朝の早まわり」(京都市)

 令和4年4月13日(水)午前、京都定期観光バス「京都朝の早まわり」(3,000円相当)に参加しました。


 京都国立博物館に行くためにJR西日本「春の関西1デイパス」(3,600円)を購入したところ、特典としてこのバスツアーが選べたのです。


 メインは、天台宗三門跡の一つ「青蓮院(しょうれんいん)」の飛地境内「将軍塚青龍殿」です。
 大舞台は清水寺の舞台の4.6倍の広さで、東北には比叡山・南西には長岡京など展望が広がります。

 


 青龍殿が完成したのは2014(平成26)年と最近なのですが、20m四方の将軍塚には歴史があります。桓武天皇が長岡京からの遷都先に平安京を選んだのはここからを眺めたからだと伝わります。


 将軍塚横の展望台からは南に展望が広がります。


 その後、バスで知恩院に移動します。ここでツアーを離脱して、サスペンスドラマでお馴染みの三門から入山します。

 

 御影堂勢至堂などに参拝します。御影堂では法要が行われているらしく、お経が聞こえてきます。

 


 その後、青蓮院や円山公園を経由して、八坂神社に参拝します。

 


 二年坂は歩けたのですが、なぜか産寧坂(三年坂)へ行けずに東大路通へ下りてしまいました。

 

 結局、清水寺を迂回して京都国立博物館に到達しました。


 京博「最澄と天台宗のすべて」では、60年に一度だけ公開される菩薩遊戯坐像(愛媛・等妙院)が印象に残りました。

 


 再現された延暦寺根本中堂内陣は写真撮影が可能で、「不滅の法灯」の釣灯籠は実際に使われていたものです。


 久しぶりに京都の町中を歩きましたが、やはり私は奈良の方が好きだと再認識しました。

2022年04月13日建造物:寺院歴史:中世, 古代仏像:木彫像

近畿文化会「旧大和川を歩く(5)」(大阪府大東市、東大阪市)

 令和4年4月10日(日)、近畿文化会「旧大和川を歩く(5)」に参加しました。講師は、大和川研究の第一人者で柏原市立歴史資料館長の安村俊史氏です。


 現在の大和川は大阪市と堺市の間で大阪湾に注いでいますが、古代は難波津・柏原・飛鳥を結んでいました。
 しかし、洪水を繰り返すことから江戸時代、柏原市より下流が付け替えられました。

 

 今回は、旧大和川の痕跡を訪ねて、深野池(ふこのいけ、大阪府大東市)・新開池(しんかいいけ、東大阪市)周辺を歩きます。


 河内平野は、かつては河内湖(←河内潟←河内湾)でした。河内平野の北に位置する深野池・新開池は、河内湖の名残の池です。
 大和川が付け替えられた後、川跡だと幅の狭い新田しか確保できませんが、池跡だとまとまった面積が確保できるので新田が拓かれました。
 ただし、低地なので排水が大変で、悪水井路(あくすいいじ)が重要な役割を果たします。

 大東市立歴史民俗資料館に展示されている踏車(ふみぐるま)は、泥水の排水にも対応できるよう頑丈に作られており、全国的にもシェアを広げていたそうです。

 

 深野池跡の深野南新田と河内屋南新田を管理・運営するために平野屋新田会所が作られてましたが、宅地開発に伴い、2008(平成20)年、取り壊されてしまいました。


 午後は東大阪市立市民会館で安村館長の講演を聞きます。次の二点が印象に残りました。
(1)大和川付け替えの功労者として中甚兵衛の名が上がるが、彼の付け替え運動は衰退。その後、大坂の堤奉行に就任した万年長十郎の働きで幕府は付け替えを決定。
(2)鴻池新田開発を落札したのは土木請負人・大和屋六兵衛と庄屋・長兵衛だが、鴻池善右衞門・善治郎に転売。資料の裏付けがないので文章には書けないが、落札者二人は鴻池のダミーと推定。

 講演後、鴻池新田を歩きます。悪水井路「六郷井路」は鴻池新田開発の前からあったのですが、鴻池新田の悪水井路としては使わせてもらえないので、すぐ北に「五箇井路」が作られました。奈良の水争いは取水ですが、この地域では排水であることが新たな発見でした。


 最後に、鴻池新田会所を見学します。こちらは東大阪市が管理しており、立派な建物が残っています。


 残念ながら北を流れていた水路は埋め立てられていますが、船着場跡は残っています。

 

 また、井路川舟(いじかわぶね)も展示されており、大和川を運行していた剣先船と同形でサイズを小さくしたものです。


 (1)大和川付け替えに伴い川の水が流れ込んでいた池に新田が開かれたこと(2)この新田では取水でなく排水が課題であったことを知ったのが新鮮でした。

2022年04月10日歴史:近世・近代

安満宮山古墳・芥川山城跡(大阪府高槻市)

 令和4年4月7日(木)、高槻市の安満(あま)宮山古墳と芥川山上跡(あくたがわさんじょうあと)を訪ねました。

 

 3月19日(土)に弥生時代の環濠集落「安満遺跡」を訪問したのですが、背後の安満山中腹に見える安満宮山古墳が気になったのです。

 


 標高125mの狭い尾根上に3世紀中頃に造られた東西16m・南北23mの長方形墳で、その姿が復元されています。


 ここからは、邪馬台国の重要な外交ルートだった淀川も一望できます。
 その奥には、生駒山(642m、奈良県)も見えました。


 この古墳からは、235(青龍3)年の銘を持つ方格規矩四神鏡が日本最古の年号鏡や古いタイプの三角縁神獣鏡などが見つかりました。
 これらのことから、被葬者は邪馬台国の使節団の有力な一員として活躍した豪族だと推測されています。


 同じ道を戻るのも嫌なので、西へ下りましたが、随分と大回りになってしまいました。
 岩神神社は大きな岩をご神体としていますが、前に「春日大明神御鎮座舊蹟」と彫られた石柱が建っていました。


 さらに下れば、春日神社(成合北の町)があり、12世紀頃に春日大社領荘園「安満庄」になった時に勧請されたと考えられています。


 せっかく高槻市まで来たので、西にある中世の「芥川山城」にも行きます。
 標高183mの三好山を中心とする城跡は東西500m・南北400mと摂津最大規模です。


 主郭には礎石建物跡が見つかり、三好長慶の居城となった時代には、高槻出身の松永久秀も住んでいたと考えられます。

 


 主郭から南には、展望が広がります。


 大手の谷筋には高さ2m以上の石垣が残ります。中央部が崩れていますが、本来は幅12mの谷筋を塞いでいました。


 至る所に堀切が設けられ、中には片側に土塁を設けて高くした竪堀もあります。


 高槻市の史跡と言えば、真の継体天皇陵と言われる今城塚古墳や藤原鎌足を葬ったとされる阿武山古墳ぐらいしか思い浮かびませんでしたが、他にも貴重な史跡があることを体感しました。

2022年04月07日古墳:その他城郭:山城歴史:中世, 古墳時代

有間皇子関連史跡(和歌山県白浜町ほか)

 令和4年4月5日(火)、和歌山県にある有間皇子(ありまのみこ)の史跡を訪ねました。


 有間皇子は孝徳天皇の皇子で有力な皇位継承候補でしたが、伯母の斉明天皇に対して謀反「有間皇子の乱」を企てたとして殺害されました。この乱に関しては、我が子・中大兄皇子(天智天皇)に皇位を継がせたい斉明天皇の策略だとする説が有力です。
 最初に、白浜温泉(牟婁の湯、白浜町)を訪ねます。


 温泉の素晴らしさを有間皇子から伝えられた斉明天皇は、中大兄皇子とともに湯治に訪れました。その時、飛鳥に残っていた有間皇子が蘇我赤兄に唆されて謀反を企てたとされます。
 有間皇子は白浜温泉の名を広めた恩人だとして、白砂青松の光景が広がる地に石碑「有間皇子之碑」が建てられています。

 


 近くの熊野三所神社の本殿右手前には、斉明天皇が座ったとされるた玉座石が祀られています。

 


 次は、「岩代の結松(いわしろのむすびまつ)」(みなべ町)です。


 飛鳥で捕らえられた有間皇子は、白浜温泉まで護送されました。その途中、この地で詠んだ万葉歌が有名です。
 岩代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば またかへり見む(巻2・141)
 国道42線沿いに、徳富蘇峰揮毫の「有間皇子結松記念碑」が建てられています。


 少し北には澤瀉久孝揮毫の万葉歌碑が建てられています。元々は国道24号線沿いにあったのですが、2005(平成17)年、この場所に移されました。


 隣には、犬養孝先生揮毫の万葉歌碑もあります。澤瀉歌碑の移設に合わせて、新たに建立されたそうです。
 君が代も わが代も知るや 岩代の 岡の草根を いざ結びてな(巻1・10)


 落ち着いた雰囲気の場所に万葉の大家お二人の歌碑が並んでいるのは嬉しいことです。

 

 岩代で枝結びの呪術を行なった有間皇子ですが、白浜温泉からの帰途、藤白坂(海南市)で絞殺されました。


 藤白坂の上り口の「有間皇子史跡」には、佐佐木信綱揮毫の万葉歌碑が建てられており、横には「有間皇子墓」と彫られた石柱も建っています。
 家にあれば 笥(け、器)に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る(巻2・142)


 近くにある藤白神社は、垂仁天皇が創建し、斉明天皇が社殿を建てたと伝わっています。

 

 一方、境内には「有間皇子神社」があります。先の墓碑と同様、この地の人々は非業の死を遂げた有間皇子に深く同情しているのでしょう。

 

 御坊市にある一辺13mの方墳・岩内古墳群1号墳は夾紵棺(きょうちょかん、漆を接着剤にして布を何枚も重ねて張り固めた棺)などが発見されたことから、有間皇子の墓の可能性が高いとされています。


 周囲は宅地開発が進んでいますが、かつては悲劇の皇子にふさわしい静かな地だっだのでしょう。


 同じような境遇の大津皇子に関連する史跡は奈良県内にあるのですが、有間皇子に関する史跡はなぜか奈良県にはありません。
 そのため、史跡を訪ねて和歌山県に遠征しましたが、現地を訪ねることにより新たな発見がありました。

 

【参考(公共交通機関等を利用した私の行程)】
◎往路01
 新大阪7:35(くろしお1号)→10:10白浜
 ☆有間皇子之碑(白浜駅から西へ4.6km)

 ☆熊野三所神社
 〇駅レンタカー白浜営業所「レンタサイクル」(1日500円)
 ※坂を登るのでパワーアシスト自転車かタクシー利用が適当。
 〇昼食
◎往路02
 白浜12:00→12:13紀伊田辺12:19→12:32岩代
 ☆有間皇子結松記念碑(岩代駅から西へ1.0km)
 ☆万葉歌碑(巻2・141、沢潟久孝)(巻1・10、犬養孝)
◎往路03
 岩代13:51→14:21御坊
 ☆岩内古墳群1号墳(御坊駅から南東へ3.7km)
 〇有間皇子の墓か?
 〇丸仁商店「レンタサイクル」(半日400円)
 ※基本的には目的地周辺まで平地。タクシー利用も検討。
◎往路04
 御坊15:33→16:21海南
 ☆藤白神社「有間皇子神社」

 ☆藤代坂「有間皇子史跡」(万葉歌碑(巻2・142、佐佐木信綱)、墓碑)(海南駅から南へ1.5km)
◎復路
 海南17:39(くろしお28号)→18:50新大阪

2022年04月05日古墳:その他建造物:神社歴史:古代

近鉄文化サロン阿倍野「金峯山寺連携講座『先端科学が蘇らせた華麗な江戸時代の風俗』」

 令和4年4月1日(土)午後、近鉄文化サロン阿倍野で「金峯山寺連携講座『先端科学が蘇らせた華麗な江戸時代の風俗』」を聴講しました。
 講師は龍谷大学文学部歴史学科(文化遺産学)教授の北野信彦先生で、金峯山寺からは開会挨拶の五條順教管領を始め、閉会挨拶の五條永教執行長・司会の池田淳寺史研究室長・場内整理の田中岳良師と錚々たるメンバーが来ておられて驚きました。


 扱われるのは、1661(万治4)年、金峯山寺に奉納された重要文化財「板絵着色廻船入港図額」で、横4.5m・縦2.8mと国内最大級の大絵馬です。
 華麗な江戸時代の風俗が描かれていたのですが、今は蔵王堂の回廊に置かれており、歳月を経て劣化が進んでいました。
 北野先生は、最先端の光学機器を駆使することにより当初の華麗さを蘇らせようと取り組んでおられます。

 

 

 

 講演を聴いて絵馬が次世代に引き継ぐべき貴重なものであることが理解できましたが、次に、①なぜ山の中の金峯山寺に大船絵馬が奉納されたのか②どこに架けられていたのかと言う疑問が出てきます。
 池田先生には、ぜひ、この謎を解き明かしていただきたいと思います。

 

【講義の概要】
(1)はじめに
文化遺産学調査の一環として着手して一年で、今回は中間報告。
70人が描かれており、服装・楽器・食器など当時のことを知る貴重な資料
物画像の彩色復元が大船絵馬の活用と保存につながる

(2)歴史資料
 歴史学は先人達の歩みを知る学問分野だが、文字資料は勝者が作ったものなので都合の悪いことは書かれない
 金峯山寺は、源義経や後醍醐天皇など敗者の側なので、そこに残っている資料は貴重

(3)文化遺産学
 文化財・文化遺産は歴史の証言者。
 機械を使うことにより見えてくるものがある。
 文化財は以前は古くさいイメージだったが、今は文化遺産として活用する新しいイメージ。ただし、観光面が表に出すぎると単なる「利用」になる恐れ。
 文化財は先人の努力があったので今に残っており、リレー方式で次世代に伝えることが必要
 保存修復科学は、①文化財科学(検査)②保存科学(内科)③修復技術(外科)④応急措置(救急)に分類。
 文化財・文化遺産の調査研究は、①価値を知る(歴史的・文化的評価)②守り伝える(延命)③活用する(大切さを知る)に分けられ、②をするために①がある。

(4)板絵着色廻船入港図額「総論」
 使われている金箔は純金製で、後世の銀を混ぜたものとは別格。
 描かれているのは、吉野川ではなく海
 描かれている70人には奉納者が含まれている可能性も?

(5)板絵着色廻船入港図額「各論」
 赤外線写真で、黒ずんでいた部分の詳細や下絵が見える。
 顔料分析で、着物の色や柄がわかる。
 遊宴の楽器として、一節切(ひとよぎり、縦笛)、胡弓・三味線・小鼓などが描かれている。
 可搬型蛍光エックス線分析調査で盆に盛られた果物に葉っぱが付いていることが判明。蜜柑か柿か。
 黒っぽい波から銅の成分が見つかり、岩群青を使った鮮やかな青だったことが判明。

(6)終わりに
 光学検査を基にして、色彩の復原・見取図を作成
 キッチリと平成~令和の仕事をして、次世代につなげたい。 

2022年04月02日建造物:寺院歴史:近世・近代奈良県:吉野郡

斉明天皇関連の史跡(奈良県明日香村)

 令和4年4月1日(金)午後、明日香村に行き、斉明天皇(重祚前は皇極天皇)に関係する史跡を回りました。
 斉明天皇は飛鳥時代の女帝で、天智天皇・天武天皇の母です。
 土木事業を好み、石上山(いそのかみやま、豊田山(天理市、180m))の天理砂岩を飛鳥に運ぶために作った人工運河は「狂心の渠(たわぶれごころのみぞ)」と呼ばれたと日本書紀は伝えています。 


 近鉄飛鳥駅から歩いて西に進み、牽牛子塚(けんごしづか)古墳に行きます。対辺長22m・高さ4.5mの八角形墳で、斉明天皇陵であることが確実視されており、3月上旬に復元整備が完成したばかりです。
 全面を石張りにした復元方法については、賛否両論がありますが、実際に見ると意外に地味だなと感じました。


 飛鳥駅に戻り、レンタサイクルを借りて東の中心部を回ります。
 「飛鳥宮跡」は、かつては「伝飛鳥板蓋宮跡」と呼ばれていましたが、舒明天皇「飛鳥岡本宮」・皇極天皇「飛鳥板蓋宮」・斉明天皇「後飛鳥岡本宮」・天武持統天皇「飛鳥浄御原宮」など複数の宮が継続的に置かれていたことが判明したので、名称が変更されました。


 次は、メインの酒船石(さかふねいし)遺跡で、酒船石・亀形石造物・石垣状遺構から構成されます。
 酒船石と亀形石造物は天皇祭祀に関連する導水施設だと考えられています。

 


 最も重要なのは石垣状遺構で、石英閃緑岩(花崗岩)を直方体に加工した切石を基礎石とし、その上に凝灰岩質細粒砂岩の切石を積み上げられていることから、日本書紀の「石の山丘」の重要な構成要素だと考えられています。

 

 少し北に移動すれば、飛鳥坐神社参道の南に「飛鳥東垣内(ひがしがいと)遺跡」があります。
 幅10m・深さ1.3mの南北に延びる溝で、酒船石遺跡の東裾に向かっています。西岸は花崗岩川原石を積んで護岸されており、一部には石上山産の切石が使われていることから、日本書紀の「狂心の渠」だと考えられます。もっと注目されても良い遺跡だと思います。


 史跡探訪の途中、精緻な石室で有名な岩屋山古墳石舞台古墳、甘樫丘で桜を楽しみました。

 

 



 明日香村の狭い地域ですが、やはり半日で回るのは無理がありました。

2022年04月01日古墳:その他歴史:古代奈良県:その他

神姫観光「本陣山(太閤ケ平)と久松山(鳥取城跡)」(鳥取市)

 令和4年3月30日(水)、神姫観光「本陣山(太閤ケ平)と久松山(鳥取城跡)」に参加しました。


 久松山(きゅうしょうざん、263m)は花崗岩でできた急勾配の岩山で、中世に山名氏が山頂に山城の鳥取場城を築きました。


 山城の鳥取城は、吉川経家(きっかわつねいえ)が城主の時、羽柴秀吉による兵糧攻めで落城しました。
 その際に、本陣が築かれたのが本陣山(251m)で「太閤ヶ平(たいこうがなる)」とも呼ばれています。


 最初に訪れた太閤ヶ平砦は、空掘や土塁だけでなく、窪地状突出部や大手虎口まで備えた本格的な本陣です。


 

 外神砦を入れば山上です。
 江戸時代に山麓を含めて総石垣造りの近世城郭に改修されました。山頂付近は「山上ノ丸」と呼ばれ、三ノ丸・二ノ丸・本丸の曲輪が残っています。

 


 本丸の北西には天守台があり、北には鳥取砂丘も見えます。天守は、残念ながら江戸時代の落雷で消失しました。

 


 本丸から南には、「山下ノ丸」の三ノ丸が見えます。

 

 本来の登城路である中坂コースは勾配が急なので、なだらかな東坂コースを通って下山します。


 山下ノ丸は自由見学ですが、時間が20分しかないので大急ぎで回ります。
 まず、二ノ丸の三階櫓です。天守が落雷で消失した後は、ここにあった三階櫓がシンボル的な存在となりました。

 
 ここから東の天球丸に向かいますが、真っすぐに進めないよう折れ曲がった石垣群が築かれています。

 

 天球丸には甲羅状の「巻石垣(復元)」があります。これは、当初の石垣が崩れ始めたので、崩落を防ぐために築かれたものです。


 鳥取城攻撃のためにだけ築かれた太閤ヶ平砦の立派さに驚いた一日でした。

2022年03月30日城郭:山城, 平山城歴史:中世, 近世・近代トレッキング:トレッキング

阪本仙次レガシーを辿る旅(奈良県吉野町、大淀町)

 令和4年3月27日(日)、阪本仙次顕彰会(チーム・サカセン)主催「阪本仙次レガシーを辿る旅(吉野町・大淀町)」に参加しました。
 阪本仙次(さかもとせんじ)は吉野町に生まれた大実業家で、近鉄吉野線の前身「吉野鉄道」の社長や、後に合併して南都銀行になった「吉野銀行」頭取などを務めました。


 最初に訪問するのは、近鉄吉野線の高架橋「薬水門(くすりみずもん)」です。吉野からの帰り、福神駅を過ぎて右手に見えるので以前から気になっていました。

 

 煉瓦造りのアーチ橋で、道路と川と二つに分かれています。

 

 壁面は煉瓦の長手の段と小口の段が交互のイギリス積み・天井は長手積みです。


 門の少し先には、地名「薬水」の由来となった「薬水の井戸」があります。


 吉野方向に戻り、六田(むだ)駅で下車します。
 1912(大正元)年に開通した吉野軽便鉄道の終着駅「吉野駅」跡で、1928(昭和3)年、吉野鉄道が現在の吉野駅まで延伸された際に「六田駅」と改称されました。


 次は、六田駅から二駅先の吉野神宮駅です。
 岩崎平太郎の設計で、急な勾配と穏かな勾配が組み合わされた大和棟風の建物です。ハート形の猪目(いのめ、魔除けのイノシシの目)の剥抜・桜花の釘隠しなど凝った意匠です。

 


 ここからマイクロバスで吉野山・上千本に移動します。 
 昼食後の見学場所は、本日の目玉とも言うべき白雲荘(はくうんそう)です。1927(昭和2)年に完成した阪本仙次の別邸で、岩崎平太郎の設計です。


 意匠を凝らした数寄屋建築ですが、金峯山寺「蔵王堂」が見える北西面には障子がなく、特製のカーテンレールが付けられています。


 地階は奈良県で初めてのコンクリート造りと対照的です。


 見学後、最後の見学場所の吉野駅まで歩きます。
 吉野神宮駅・白雲荘と同様に岩崎平太郎の設計で、改札口上にあるアラビック模様の意匠が特徴的です。

 


 奈良県を代表する大実業家・阪本仙次の偉大さを再認識した一日でした。

2022年03月27日歴史:近世・近代奈良県:吉野郡

近畿文化会「ゴーランドが歩いた箕面街道の古墳時代」(大阪府豊中市)

 令和4年3月26日(土)、近畿文化会「ゴーランドが歩いた箕面街道の古墳時代(豊中市)」に参加しました。講師は、京都橘大学教授の一瀬和夫先生です。


 ゴーランドは明治初期に大阪造幣局に勤務した冶金技師ですが、大阪近郊の古墳や遺跡を精力的に訪問して多くの記録を残しました。


 この講座では、ゴーランドが歩いた箕面(みのお)街道(箕面寺・大阪の最短距離)の足跡を訪ねます。
 最初は、古墳時代中期の北摂地域を代表する桜塚古墳群です。40基程度の古墳がありましたが、今は5基が残るだけです。


 大石塚古墳は南を向いた前方後円墳で、全長80m以上だったと推定されます。特別に敷地内に入れていただき、後円部の高さを体感できました。

 

 墳丘の平坦面には円筒埴輪・朝顔形埴輪が並べられており、一部は市立伝統芸能館に展示されています。


 東に移動して、南天平塚(みなみてんびんづか)古墳を見学します。ゴーランドの記録では全長27.2mのダブル・マウンド(前方後円墳)となっていますが、一部が破壊されています。


 御獅子塚(おししづか)古墳は、全長49mの前方後円墳で、西半分には葺石が復元されています。


 北には、大塚古墳があります。直径46.9mの大きな円墳です。この大きさから被葬者は首長クラスと考えられますが、前方後円墳の造営が規制されていたため、円墳になったようです。


 午後は、北に移動して桜井谷窯跡群を見学します。
 この地域の窯は千里川の河岸段丘の斜面を活用したものです。


 団地内の第24号・第19号窯跡は見学した後、整備された第23号窯跡に向かいます。半地下構造で、失敗作として廃棄された土器から須恵器が焼かれていたことが判明しました。
 特別に敷地内に入れていただき、急斜面に造られたことを体感できました。


 この地域では、たくさんの陶棺が出土しました。
 ゴーランドは欠損のない陶棺を入手してイギリスに持ち帰り、今は大英博物館に展示されています。

 

 この陶棺は、ゴーランドが入手する前は報恩寺の本堂脇に置かれており、桜井住職(ゴーランドと親しかった住職の曾孫)から話を聞いた後、その場所を確認しました。


 最後に、市立桜井谷小学校敷地内に移設された中井山3号墳の石室を見学します。陶棺が縦に3基ずつ2列に並べられていたそうです。
 一瀬先生は、渡来系陶工の墓だったと推定されます。


 激しい雨の中の史跡探訪でしたが、ゴーランドが精力的に活動したことを感じることができました。

2022年03月26日古墳:円墳, 前方後円墳歴史:古墳時代

神姫観光「鶉野飛行場を歩いて巡る」(兵庫県加西市)

 令和4年3月25日(金)、神姫観光「鶉野飛行場を歩いて巡る(加西市)」に参加しました。加西市からの補助があるので、昼食が付いて3,000円と格安です。

 

 鶉野(うずらの)飛行場とは、1943(昭和18)年に完成した姫路海軍航空隊の飛行場です。ここでは多くの若者が飛行機の操縦訓練を行い、最後は特攻隊の出撃拠点となりました。
 防空壕や対空機銃座の跡など多くの戦争遺跡が残っており、これらを訪問することにより平和の大切さを感じるのがツアーの趣旨です。


 姫路海軍航空隊の最寄り駅として栄えた北条鉄道「法華口駅」から出発します。


 砲弾などを貯蔵した爆弾庫はコンクリート造り、壁は70cm・天井は1mの厚みがあり、1t爆弾にも耐える構造だそうです。

 住民が逃げ込むための大きな防空壕もあります。


 復元された門柱・衛兵詰所を入れば、飛行場の敷地内です。

 

 対空機銃座では、一分間に230発の弾を5,000m先まで発射できたそうです。


 自力発電所は長さ14.5m・幅5m・高さ5mの空間を持つ最大の防空壕です。


 鶉野飛行場滑走路はコンクリートで作られており、畑にならずに残っています。往時は長さ1,200m・幅60mの大きさだったそうです。


 鶉野平和祈念の碑苑では、元隊員の冥福を祈るとともに平和を祈念して黙祷します。

 

 紫電改の原寸大模型もあります。


 時節柄、特に平和のありがたさと大切さを再認識した一日でした。

2022年03月25日歴史:近世・近代兵庫県:播磨

毎日新聞旅行「一乗谷城」(福井県福井市)

 令和4年3月23日(水)、毎日新聞旅行「一乗谷城(福井市)」に参加しました。 日本百名城に選ばれているのは「一乗谷朝倉氏居館と山城」ですが、今回は居館跡には寄らずに山城跡だけ見学すると言うマニアックな内容です。


 当初はマイクロバスで登山口まで林道を進む予定でしたが、30cm程度の雪が積もっているうえに倒木がありマイクロバスは進めないため、歩きました。

 

 登山口の展望台から東には、日本三霊山の一つ「白山(2,702m)」などが望めました。


 山道を30分程度登れば尾根筋に出ます。戦国時代の山城なので、南の山頂部に向かって腰曲輪が続きます。
 一番北にあるのが中心となる一の丸ですが、通常の山城と異なり、二の丸や三の丸より低い位置にあります。

 

 一の丸には、尾根筋を遮断した横堀が築かれています。

 

 南に進めば、「二の丸」です。南東の角には月見櫓があり、東への展望が広がります。


 二の丸の西には、城内最大の横堀があります。


 二の丸の南にある横堀を過ぎれば、南北に細長い三の丸で、ここが一乗城山頂(473m)です。


 三の丸の西には、敵の斜面移動を防ぐ広大な畝状竪堀群」が築かれています。通常は浅くて分かりにくいのですが、幸い雪が残っているので、白い部分が竪堀だとわかります。


 また、南には深い横堀があり、ここが城内の最南端です。

 

 雪のために長い距離を歩きましたが、最大の見所である畝状竪堀群を十分に観察することができました。

2022年03月23日城郭:山城歴史:中世

長浜市観光協会「貴重な資料館を訪ねる」(滋賀県長浜市)

 令和4年3月20日(日)、滋賀県長浜市観光協会「貴重な資料館を訪ねる」に参加しました。訪問先は全て地域住民か個人の方が運営されています。


(1)「冷水寺胎内仏博物館(高月(たかつき)町)」
 冷水寺は、戦国時代の戦乱で焼き払われ、本尊の十一面観音像は黒こげになりました。江戸時代、その姿を痛んだ地元民が鞘仏を作って胎内に納めました。


 この事実は忘れ去られていたのですが、1996(平成8)年、観音堂修理に際して調査した結果、胎内から仏像が発見されました。
 仏像は高月観音の里歴史民俗資料館に寄託されており、観音堂には鞘仏が祀られています。



 関係する資料は、「世界一小さい資料館」がキャッチフレーズの胎内仏博物館に展示されています。


(2)「雨森芳洲庵(高月町)」
 雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)は江戸時代の儒学者で、朝鮮通信使の接遇に関わり日韓友好に尽くしました。その活動を顕彰するため、1984(昭和59)年、生家跡に建てられた記念館です。


 顕彰活動を精力的に展開しておられる前館長の平井茂彦さんから説明を聞きます。


 通信使の行列などは、平井さんが紙粘土で作られたものです。


 昼食は、地元の主婦の方々が古民家で運営されている「Bookcafeすくらむ(木之本町)」でいただきます。


(3)「本陣薬局ギャラリー(木之本町)」
 北国街道に面しており、かつては大名の宿泊所である本陣でした。


 明治時代に薬局となり、貴重な看板調剤用具などが展示されています。

 


(4)「余呉茶わん祭の館(余呉(よご)町)」
 丹生(にう)神社の大祭「茶碗祭」の曳山(ひきやま、飾り物を据えた山車)などが展示されています。
 神社近くで採れる土から陶器を焼いて奉納したのが祭りの始まりだと伝えられています。


 曳山の中心は、人形や陶器による高さ5~6mの飾り付けです。その工法は口伝による秘法で、限られた作り手しか知らされていないそうです。


(5)「葛籠尾崎湖底遺跡資料館(湖北町)」
 葛籠尾崎(つづらおざき)は、奥琵琶湖上に大きく突き出た半島で、その東の沖合で発見された縄文時代~平安時代の土器類が展示されています。



 この湖底遺跡には人が居住した痕跡が全く認められないことから祭祀場説などがありますが、結論は出ていません。
 また、奈良時代の土器類が発見されていないのも謎です。

 マニアックな資料館ばかりを訪問して、地域の歴史遺産の後生に伝えようとする方々の姿に感銘を受けた一日でした。

2022年03月20日歴史:中世, 古代, 古墳時代, 縄文・弥生時代, 近世・近代仏像:木彫像

近畿文化会「高槻市の史跡をめぐる」(大阪府高槻市)

 令和4年3月19日(土)、近畿文化会「高槻市の史跡をめぐる」に参加しました。講師は、今城塚歴史資料館長の内田真雄氏です。
 訪問する遺跡は、(1)弥生時代の安満(あま)遺跡、(2)古墳時代の今城塚(いましろづか)古墳、(3)戦国時代~江戸時代の高槻城跡です。


(1)安満遺跡
 JR新快速で京都に向かう際、高槻駅を過ぎると右手に大きな公園が見えます。何だろうかと気になっていたのですが、国史跡に指定された弥生時代の集落遺跡跡「安満(あま)遺跡公園」だと初めて知りました。

 

 都会の真ん中にあるのですが、京大農場があったので奇跡的に残りました


 居住域・水田域・墓域の三つが揃っているのが大きな特徴です。 
 中枢部の居住域楕円形の環濠で守られており、発掘調査により、時期を追って拡大したことが判明しました。


 生産域では、穏やかに傾斜する扇端部から淀川低地にかけて水田が広がっていました。


 墓域では、100以上の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が発見されています。


 また、北東に聳える安満山の中腹には三世紀中頃の安満宮山古墳があり、三角縁神獣鏡などが発見されました。


(2)今城塚古墳
 宮内庁は西にある太田茶臼山古墳(茨木市、5世紀)を継体天皇(6世紀)の陵墓に治定していますが、今城塚古墳(6世紀)が真の継体天皇陵であることは定説となっています。


 この古墳の最大の特徴は、北側の内堤張出(長さ65m・幅10m)に置かれた内容豊かな埴輪群です。
 現在、塀形や門形で四つに区画して230以上の形象埴輪が整然と配列されていた様子が復元されています。



 これらの埴輪が作られたのは、北西にある「新池(しんいけ)遺跡」(新池埴輪工房)ですが、この工房は太田茶臼山古墳に埴輪を供給するために造営されたものです。

 
 古墳築造の技術で注目すべき点は二つあります。
 一つ目は、大部分が盛土によって造成されており、最初の盛土は周濠を掘削した際の表土層が利用されていることです。今城塚古代歴史館に展示されている剥ぎ取り標本で確認できます。
 二つ目は、①盛土内に墳丘内石積みと排水溝②横穴式石室を支える石室基盤工が設けられていることです。


(3)高槻城跡
 高槻城の存在が確認できるのは14世紀後半以降で、戦国時代に城主となった高山右近畿内のキリスト教布教の拠点としました。

 

 江戸時代には三層の天守・高石垣・土居を備えた近世城郭となりましたが、明治時代に破却・工兵隊移駐があり、往時の面影は残っていません


 高槻市の遺跡と言えば今城塚古墳や藤原鎌足が葬られているとされる阿武山(あぶやま)古墳ぐらいしか知りませんでしたが、今回、弥生時代の安満遺跡があったことを知ったのが最大の収穫でした。

2022年03月19日古墳:その他, 前方後円墳城郭:平城歴史:中世, 古代, 古墳時代, 縄文・弥生時代, 近世・近代

王寺町観光協会「東大寺の原像ー山寺と大仏の統合ー」(奈良市)

 令和4年3月8日(火)、王寺町観光協会「東大寺の原像ー山寺と大仏の統合ー」に参加しました。3回シリーズ「山の考古学」の最終回です。


 講師は森下惠介先生で、午前中に春日大社境内などの見学・雪丸弁当の昼食後に講義、その後に東大寺境内の見学と言う構成でした。


(1)春日大社
 飛火野(とぶひの)には数基の円墳があり(春日野古墳群)、遣唐使派遣に際しての祭祀はその上で実施。


 春日大社が鎮座する前、飛火野は氷室神社の旧社地で氷室もあった。
 春日大社の摂社「水谷(みずや)神社」の社殿下には磐座が残存


(2)聖武天皇の理想と挫折
 天平パンデミック(737(天平9)年)で藤原四兄弟が死亡して藤原政権が崩壊。
 聖武天皇が東国(京都・滋賀)へ行幸したのは天武天皇にならったもの。


 740(天平12)年の恭仁宮(くにのみや、京都府木津川市)造営は、①山中の清浄な場所に加えて、②木津川→淀川の水運利用を想定。


 聖俗の合一された山中の聖地「紫香楽宮」(しがらきのみや、宮町遺跡)で仏教による統治と中央集権化をめざすが挫折して745(天平17)年に平城還都。

(3)大仏以前 東山山中の寺
 「上院地区」に「山寺」が存在。


 金鍾(こんしゅ)山房+福壽寺 → 金鍾寺 → 金光明寺 → 東大寺
 上院地区「丸山西遺跡」からは平城宮Ⅱ期(721~745年)の軒丸瓦が出土。


(3)東大寺
 法華堂「正堂」には恭仁宮式文字瓦(740~743年)を使用しており、創建は747~749年。


 八角二重基壇の材木の伐採年は年輪年代法で729年と判明。→ 当初の本尊は、不空絹索観音ではなく、梵天・帝釈天(伝日光・月光菩薩)と四天王(戒壇院)か。


 二月堂で行われる修二会は、火と水の行法


 修二会で読まれる神名帳の冒頭は「金峯大菩薩」(役行者が感得した金剛蔵王大権現)で、役行者に付き従う前鬼の斧は火を・後鬼の水瓶は水を活かせる力を表現。


(4)東大寺・興福寺と修験
 春日山で行うのが「当行」・大峯に入峯して行うのが「大行」
 16世紀以降、南都大寺の堂衆は入峯せず。
 春日山の岩に彫られているのは地蔵菩薩でなく、蔵王権現の本地仏である弥勒菩薩
 都の寺は王権擁護の役割で、山の寺は修行の場
 聖武天皇は、山中浄処である紫香楽に聖俗両界合一の都を作ろうとしたが断念。
 現実と妥協して、山中浄域を包括統合した東大寺を建立
 御蓋山は神祇的部門で、春日山(御蓋山+花山+芳山)は山岳仏教の場。 

2022年03月08日古墳:円墳建造物:寺院, 神社歴史:古代, 古墳時代奈良県:奈良市

西播磨ツーリズム振興協議会「城山城ツアー」(兵庫県たつの市)

 令和4年3月5日(土)、西播磨ツーリズム振興協議会「城山城ツアー」(兵庫県たつの市)に参加しました。案内は、城山城(きのやまじょう)を知り尽くした前たつの市歴史文化財課長の義則敏彦さんです。
 城山連山の尾根筋は南北5kmに延びており、その中央部に位置する亀山(きのやま、340m)の南麓に赤松氏が築いたのが中世の城山城ですが、古代山城があったことも確認されています。


 32基を数える馬立(うまたて)古墳群を抜けて大手道コースを進みます。


 大手道を進むと、「南無阿弥陀仏」と彫られた供養碑があることから、古代山岳寺院があったことが推定できます。


 さらに西に進めば、近世に灌漑のために掘られた「亀の池(きのいけ)」があり、ここで昼食です。


 土塁の上を歩き、古代山上の門の礎石だった「築石(つきいし)」を見学します。

 


 山頂を経て、全長40m・高さ3mの大石塁に行きます。

 


 大石塁の南西には、中世に掘られた城内最大の堀切があります。


 山頂の南の削平された場所が中世山城の主郭部で、井戸跡もあります。

 


 さらに南に進むと礎石建物跡で、古代山岳寺院の本堂跡だと考えられています。


 東に進むと展望が開けた見張所に出ます。

 


 東に向かって下ると、はっちょう塚古墳群です。中央に位置する7号墳は上円下方墳の可能性もある三段築成の方墳で、この地域では最上位クラスの古墳です。

 

 兵庫県西播磨地域には、利神城(りかんじょう、佐用町)・白旗城(しらはたじょう、上郡町)・感状山城(かんじょうさんじょう、相生市)の他にも立派な山城がたくさんあることを体感できた一日でした。

2022年03月05日古墳:その他, 円墳城郭:山城歴史:中世, 古代, 古墳時代兵庫県:播磨

吉野山(奈良県吉野町)

 令和4年3月3日(木)、奈良県吉野町の史跡巡りをしました。


 近鉄大和上市駅からスマイル・バスに乗り宮滝に向かいます。
 吉野歴史資料館の庭から南に、万葉集で水分山(みくまりやま)と詠まれた青根ヶ峰(858m)の秀麗な姿を眺めます。


 南西に下れば、宮滝遺跡で、近年の発掘調査で建物跡が認められたことから、吉野宮跡であることがほぼ確定しています。


 すぐ南は吉野川で岩場となっており、水量が豊富だった万葉人は舟で対岸に渡って喜佐谷の風景を愛でていたのでしょう。

 

 川上は水の流れが急だった宮滝で、命を落とした筏師を悼む「南無阿弥陀仏」の文字が彫られた岩があります。

 

 柴橋を渡り、象の小川に沿って南に進むと櫻木神社です。大海人皇子が吉野に入ることを天智天皇が許したことに関して、『日本書紀』に「虎に翼を着けて放てり」との記載があることから、上野誠先生揮毫の石碑が建っています。


 さらに象の小川を遡れば、本居宣長が『菅笠日記(すががさのにき)』で褒めた階段状の高滝があります。

 

 元の道に戻り、喜佐谷川を遡って、吉野水分神社の旧社地だったヒロノ千軒をめざしますが、辿り着けませんでした。分岐で迷った末にまっすぐに進みましたが、右に進む道が正解だったようです。

 

【追記】令和5年1月5日(木)、分岐を右に進んだところ、無事に吉野水分神社旧社地に到達できました。

 

 喜佐谷川の左岸に沿って進みますが、少し広い場所に出ると進めなくなり、山の斜面をよじ登ります。

 

 よじ登った先には広い平坦地が幾重にも重なっており、木々の向こうには青根ヶ峰が見えますが、残念ながら、ヒロノ千軒ではありませんでした。

 急な尾根を登れば、突然、自動車道に出ます。青根ヶ峰山頂へはすぐですが、山頂は木が生い茂っていて眺望は望めません。 


 金峯神社を経て高城山に行きます。ここからは、北に延びる青根ヶ峰の稜線が見えます。


 その後、吉野水分(みくまり)神社に参拝します。桃山時代の本殿は三殿一棟造で、重要文化財です。

 

 金峯山寺「蔵王堂」を経て近鉄吉野駅に向かいます。


 吉野駅は、岩崎平太郎の設計により1928(昭和3)年に完成した社殿風の建物で、夜に見ると一層モダンな感じがしました。

 

 

 

2022年03月03日建造物:神社歴史:古代奈良県:吉野郡

王寺町観光協会「三輪山と周辺を訪ねる」(奈良県桜井市)

 令和4年2月25日(金)、王寺町観光協会「三輪山と周辺を訪ねる」に参加しました。講師は森下惠介先生で、午前中に纏向遺跡などの見学・昼食後に講義・その後に大神神社の参拝などを行いました。

 

(1)拝む山・祀る山
 山岳信仰では、最初は山を神々が居る場所としていたが、後には山自体を神そのものと考えるようになった。例えば、伊吹山(滋賀県・岐阜県)は、雲や霧を神の息吹。

 

 この山岳信仰と、山で神々から与えられた力を具現化しようとする山岳修験とは別のもの。

 

(2)三輪山(462m)
 円錐形の秀麗な山容で、神の坐す山


 三輪山の西に広がる、纏向川と初瀬川(大和川)に囲まれた場所は聖なる地
 したがって、この地域に古墳が作られるのは中期(5世紀)以降。
 古墳時代最初期の箸墓古墳ホケノ山古墳は、纏向川の北・聖なる地域の外に立地

 


 纏向遺跡「大型建物跡」は初期大和政権の王宮とも推定。祭祀場跡から抜き取られた磐座が三輪山に移された可能性あり。


(3)修行の山
 吉野は「玉城(たまき)の南山」として神仙境と意識され、「金の御岳(かねのみたけ、金峯」で古人皇子(645年)や大海人皇子(671年)が出家。
 神仏に近づき験力を得るための修行が修験。
 吉野川は仏界と俗界の境で、大峯七十五靡は山中の聖地回峰巡礼。
 大峰山(山上ヶ岳、1,719m)の山頂にある大峰山寺本堂の創建は8世紀。奈良県の最高峰のハ経ヶ岳(1,915m)や弥山(1,895m)には奈良時代に人が入る。


 12~13世紀に修験道が確立。真言系の当山派修験天台系の本山派修験


(4)山居(参籠)修行から回峰修行へ
 拝む山・祀る山から修行の山となり、山岳寺院が成立。
 これに伴い、参籠修行から回峰修行へ
 葛城修験でも28の聖なる山に経塚。


 回峰修行は集団で行うので回数を重視。
 江戸時代からは俗人山伏を連れて行くようになり、位階や免許を授与。

2022年02月25日古墳:前方後円墳建造物:神社歴史:古墳時代奈良県:その他

奈良博公開講座「不退の行法、東大寺修二会(お水取り)」

 令和4年2月19日(土)、奈良博公開講座「不退の行法、東大寺修二会(お水取り)」を受講しました。 講師は東大寺の北河原公敬長老です。長老は隠居の身のはずだが元気だと働かされると言われながらも、28回の参籠経験を踏まえてわかりやすく語られました。

(1)起源
 修二会は、大仏開眼と同じ752(天平聖宝4)年に実忠が始めた。
(2)目的
 十一面観音悔過(けか)法要と言われるように、目的は、①悔過(けか)②人々の幸せの祈念
 このように東大寺だけの行事ではないので、どんなことがあっても続ける「不退の行法」
 ①平安時代の平重衡による焼き討ち、②戦国時代の松永久秀の乱、③第二次世界大戦による召集と三度の危機があったが乗り越えた。
(3)参籠衆
 練行衆11人に男衆29人を加えた40人
 40人が抜けた状態で日常の法要等を行うのは大変。
 練行衆は、良弁忌の12月16日に別当が任命
 悔悟と国家安泰の祈りには名誉と重い責任
 普段は使わない法螺貝を吹いたりするので、はじめての参籠は大変。任命されると法螺貝の練習をするのでかつては「師走貝」と言われていた。

(4)前行「別火」
 戒壇堂の別火坊に移り、日常生活とは別の「清浄な火」を使用。
ア 試別火(ころべっか)
 自坊に戻るなど外出は可能だが、別の火で沸かしたお茶は飲めない。火鉢にも当たれない。
イ 惣別火(そうべっか)
 「声明(しょうみょう)」の稽古
(ア)輪唱のようなもので、修二会以外では行わない
(イ)人により声の高低差があるが、不協和音を嫌うので、一定の高さの音になるよう厳しく指導
(ウ)一つの大広間に全員が入るが、話をするのは廊下。

(5)本行
ア 参籠宿所入り
(ア)2月末日夕刻に参籠宿所入り。
(イ)4人・3人・2人・2人に分かれて四部屋。部屋頭は四職(ししき、和上・大導師・呪師・堂司)
イ 食事
 三度の食事が昼一回になるので夕方には空腹。法螺貝を吹く時に力が出ないが、二三日するとなれる。
ウ 六時の行法
(ア)一日を六分割して、その時刻ごとに勤行。
(イ)中心となる声明の時導師(じどうし、ソロ部分)は四職でなく平衆。ただし、実忠忌(3月5日)など重要な日には上の人が時導師。
(ウ)下七日には引上(ひきあげ)として声明のテンポが速くなる
(エ)日が経つにつれて感覚が研ぎ澄まされ、局で聴聞している女性の香水の匂いが漂ってくることもある。

(6)役割
ア 呪師(しゅし)
(ア)神道と仏教が融合した密教的・神道的役割
(イ)2月末日には中臣大祓(なかとみのおおはらえ)。
(ウ)儀式の中心
イ 大導師(だいどうし)
(ア)勤行の主役
(イ)祈りの趣旨を述べる。基本部分は決まっているが、コロナ禍など時事的な部分は自分で作成。

(7)勤行
ア 二月堂神名帳(じんみょうちょう)
(ア)毎日、初夜の悔過作法の後、平衆(ただし、参籠3年目以降)が読み上げ。重要な日には上の人が読み上げ。
(イ)13,700あまりの神々を勧請。冒頭は「金峯大菩薩」(金峯山寺の蔵王権現)
(ウ)上七日は遅く(20分)、下七日は早く(15分)読み上げ。
イ 過去帳
(ア)聖武天皇を筆頭に東大寺ゆかりの人びと
(イ)読まれるのは、実忠忌の3月5日・水取りが行われる12日の2回。読むのは平衆だが、5日は新人優先・12日は平衆の統率役「総衆之一」。
(ウ)聖武天皇などは重々しく読むが、鎌倉以降は節がなく早駆け、江戸時代以降は重要な人以外は飛ばし読み。45~50分
(エ)「青衣の女人」は集慶(じゅうけい)の頭にふと浮かんだ女人。樋から水が落ちる「雨だれ落ちの音」(微音)で読む。

(8)儀式
ア 水取り
(ア)呪師の役割で、水汲みの儀式は真っ暗な中で行う秘儀
(イ)閼伽井屋に入れるのは呪師のみで、他の練行衆は外で見守る。
(ウ)井戸は二基あるが、縁が低く浅いので雨が降らないと水量が少ない。
(エ)前日11日の深夜、呪師が堂童子とともに下見。
(オ)汲んだ水は一晩、お堂に置いた後、濾して5つの香水壺に入れる。特に北面の香水壺は「根本香水」で毎年注ぎ足し
(カ)翌日の走りの行法の後、参詣者に授与。
イ 走りの行法
(ア)5・6・7・12・13日の5日間だけ。
(イ)実忠が天上界から行法を授かるに際して“走ってでも行う”と誓ったとの伝承に由来。
(ウ)平衆は走る回数が多く、その後に五体投地するので、香水がありがたい。
ウ 達陀(だったん)
(ア)12・13日に内陣で行う松明を使った加持
(イ)水天(すいてん)と火天(かてん)が登場。
(ウ)サンスクリット語「ダッタ」(焼き尽くす)が原義で、穢れや煩悩を焼き尽くす意味。

(9)まとめ
 修二会は「不退の行法」で、途絶えることはあり得ない。
 平安時代に平重衡の焼き打ちにあった際も二月堂は残り、衆議に反して有志が実施。
 戦国時代に松永久秀が大仏殿を焼いた際にも実施。
 第二次大戦中も、日中、扉を閉めて灯が漏れないようにして夜の行を実施。練行衆も5日に1人・7日に2人に召集令状が来たが、残り8人で実施。
 東大寺として大きな行法
 東大寺だけでなく、世界の人々の祈りを代行
 2月18日の「油量り」など多くの人々との縁があって実施。

2022年02月19日建造物:寺院歴史:中世, 古代, 近世・近代奈良県:奈良市

高安山(大阪府八尾市)

 令和4年2月16日(水)午後、信貴山城(奈良県平群町・三郷町)を見学した後、北西の高安山(たかやすやま、大阪府八尾市)をめざします。


 高安山には、飛鳥時代、白村江の戦いに敗れた天智天皇が唐・新羅の侵攻に備えて古代山城・高安城(たかやすのき)を築きました。
 市民グループの探索により、山頂から200mほど下がった場所に六つの倉庫址が発見されました。


 第2・3号倉庫址では発掘調査が行われ、礎石から3間×4間の倉庫だったことが判明しました。

 

 奈良盆地への眺望が開けていますから、逆に奈良盆地から見上げると威容を誇っていたことでしょう。

 

 高安山(437m)には二等三角点があるのですが、木が生い茂って展望は望めません。

 

 そんな理由からでしょうか、ハイキング道から山頂に向かうきちんとした案内板がありません

 

 山頂の少し西には、白い円球が印象的な気象庁「高安山気象レーダー観測所」があります。かつては2人勤務の24時間体制でしたが、遠隔制御・監視が可能となった今は無人です。

 

 西信貴ケーブル「高安山駅」に着いたのは午後4時半過ぎです。


 午後5時5分発の最終便まで少し時間があるので展望台に登ったところ、西に大阪平野の夕景が広がっていました。


 西信貴ケーブル「ずいうん号」に乗って下山します。

 

 奈良県王寺町を出発し、一部、斑鳩町に入り、三郷町を経て平群町に入り、そこから大阪府八尾市、と府県をまたがる史跡ウォーキングでした。

 

2022年02月16日城郭:その他歴史:古代, 近世・近代

信貴山城跡(奈良県三郷町、平群町)

 令和4年2月16日(水)、西安寺跡(王寺町)を見学した後、信貴山に向かいます。
 大和川右岸からは、これから登る信貴山の雄岳・雌岳がハッキリと見えます。


 近鉄信貴山下駅と信貴山の間は、1983年まで東信貴ケーブルが運行しており、駅前には車両が保存されています。


 線路跡は、東側の下半分は道路や住宅地になりましたが、上半分はハイキング道として残されています。


 

 道に埋められている木は枕木の再活用で、コンクリートの橋脚も当時のものです。


 朝護孫子寺・奥之院へ向かう道をしばらく進み、途中で左に曲がれば、信貴山城跡です。


 信貴山城は、戦国時代に松永久秀が雄岳(おだけ、437m)を中心に築いた大規模な山城で、三つに分かれている地区のうち、雄岳地区と北の支尾根地区を探訪します。

 

 


 これまで、奈良大学教授の千田嘉博先生天理大学准教授の天野忠幸先生の案内で二度来たことがありますが、今回は中央の階段は登らず北に進みます。
【09 階段】


 支尾根地区には、尾根上に造成した五段の平坦地の四方を土塁(どるい、土盛による防御壁)で囲み一体化しています。

 


 切岸(きりぎし、斜面を削った人工的な断崖)は垂直に切り立っていますが、階段があるので角度を体感しながら登ることができます。
 中井均先生が、曲輪(山を削平して作った平坦面)・堀切(尾根筋をV字状に切断した遮断線)・土塁より切岸の方が重要だとされることが体感できます。

 

 ここから南に進むと広い平坦地で、松永屋敷跡と言われています。
 西側の立派な切岸を見て千田嘉博先生が嬉しそうに解説されたことを思い出しました。

 


 さらに南に進めば雄岳に設けられた主郭部で、二段に連なっている曲輪のうちで東の曲輪から大和盆地が見渡せます。
 天野忠幸先生は、久秀は信仰の対象だった山に城を築くことにより権威を高めようとしたとの説明されましたが、この風景を見ると納得できます。

 


 西の一段高い曲輪には石碑「信貴山城趾」が建ち、西に少し下れば信貴山朝護孫子寺「空鉢御法堂(くうはつごほうどう」です。


 ここから南には二上山・葛城山・金剛山などが重なって見えるだけでなく、眼下には細長い曲輪が築かれた雌岳(めだけ、399m)が見えます。

 

 

 この後、主郭部の北側に戻り、北西の高安山(たかやすやま、437m、大阪府八尾市)をめざします。

2022年02月16日城郭:山城歴史:古代奈良県:その他

西安寺跡(奈良県王寺町)

 令和4年2月16日(水)、西安寺跡(奈良県王寺町)・信貴山城跡(三郷町、平群町)・高安城跡(大阪府八尾市)などの史跡巡りをしました。


 最初は、本日のメインである「西安寺跡発掘調査見学会(王寺町)」です。


 西安寺(さいあんじ)は飛鳥時代の寺院で、今は舟戸神社となっています。神社の社殿は南か東を向いているのが通例ですが、この神社の社殿は大和川が流れる北を向いています。


 社殿の北東に塔の跡・その北に金堂の跡があることから、(1)王寺町のウエブサイトでは塔・金堂が西向きに横に並ぶ法隆寺式伽藍配置、(2)良県歴史文化資源データベースでは塔・金堂が南向きに縦に並ぶ四天王寺式伽藍配置とされています。

 なお、一部が王寺町に属する尼寺廃寺(香芝市)は、向きの法隆寺式伽藍配置だとされています。


 しかし、金堂跡の北にある田圃から木製燈籠の根元と考えられる柱が出土したことから、金堂が北向きの可能性もあるとして発掘調査が行われました。


 残念ながら二つの石はありましたが、階段の痕跡は見つかりませんでした。

 

 見学している時、岡島係長の案内で山岸常人京都大学名誉教授(建築史)が来られました。その後、発掘担当者を含む三人で版築(はんちく、粘土層と砂層を交互に突き固める方法)の年代等に関する鳩首協議が始まりました。現場に居合わせた私は、これ幸いと時間が経つのも忘れて傍聴しました。

 

 その後、信貴山に向かうべく北に進むと、すぐに大和川です。往時はたくさんの魚梁船(やなぶね)が往来していましたから、船を利用しての参拝を考えると、全国的にも珍しい北向きの伽藍配置だったとしても不思議ではありません

 

2022年02月16日建造物:寺院, 神社歴史:古代奈良県:その他

大輪田泊(神戸市)

 令和4年2月15日(火)午後、大輪田泊(おおわだのとまり、神戸市兵庫区)の史跡を探訪しました。


 大輪田泊は奈良時代に行基が修築したと伝えられており、奈良時代~平安時代の港湾施設の一部と考えられる石椋(いわくら)が見つかっています。

 

 平安時代末期、平清盛は日宗貿易の拠点とするために港を修復しました。 
 その際、波除けのために「経ヶ島」を築こうとしたのですが、工事が難航したため30人の人柱を立てました。来迎寺(築島寺)には、自ら申し出て人柱となった17歳の松王丸の菩提を弔う供養塔が建てられています。

 

 鎌倉幕府の第9代執権・北条貞時が造営したと伝えられる清盛塚には、高さ13.5mの石造十三重塔が建っていましたが、1922(大正11)年、市電の道路拡張工事に伴い現在地に移設されました。
 なお、発掘調査により、清盛塚は墳丘でないことが判明しました。

 

 この地には港があるだけでなく、西国街道(古代の山陽道)が通っていましたが、今は石碑「湊口惣門跡」「西惣門跡」が残るだけです。

 

 陸海の交通の要衝であることから、戦国時代、織田信長の家臣・池田恒興(今の姫路城を完成させた輝政の父)が兵庫城を築きました。
 イオンモール神戸南の隅に記念碑が建てられています。

 

 兵庫城は、尼崎藩の陣屋を経て大坂町奉行所「兵庫勤番所」となりました。
 1867(慶応4)年、ここに最初の兵庫県庁が置かれ、初代知事として伊藤博文が任命されました。
 現在、県立兵庫津ミュージアムとして整備が進められ、「初代県庁館」として兵庫勤番所の建物が復元されています。令和4年度後半には「ひょうごはじまり館」がオープンするそうです。

 

 

 

2022年02月15日建造物:寺院, 神社歴史:中世, 古代, 近世・近代兵庫県:その他

神姫観光「佐伯天神山」(岡山県和気町)

 令和4年2月13日(日)、神姫観光のトレッキング・ツアーで、佐伯天神山(409m、岡山県和気町)に登りました。「天神」とは、菅原道真ではなく道祖神のことです。


 領民の信仰の対象だった天神山に、戦国時代、浦上宗景(うらがみむねかげ)が山城を築きました。浦上氏は、南北朝時代、兵庫県播磨に拠点を置く赤松氏の有力な家臣でしたが、この時代には赤松氏を上回る力を持っていました。


 北から南東に向けて尾根を登りますが、本丸までの比高が360mもある高い山城です。

 

 尾根筋に曲輪が階段状に配置される腰曲輪」であることが体感でき、本丸を中心として同心円的に二之丸・三之丸が配置される輪郭式平山城姫路城」と違った縄張りが魅力です。

 


 見張所からは、吉井川沿いに通る倉敷街道が見渡せることから、交通の要衝であることもわかります。


 階段状の曲輪群を過ぎれば本丸ですが、手前には尾根をV字状に切断した堀切があります。

 


 本丸跡には大きな石碑「浦上遠江守宗景之城址」が建てられています。


 本丸からは、南東にある天神山の山頂をめざします。
 飛騨丸には野面乱積みの石垣が残っています。


 その先にある谷は深い堀切となっており、ここから先は前期(旧城)のもので、石門があります。

 

 

 物見や合図の役割を担った太鼓之丸」、 攻め登ってくる敵に落とすための軍用石」を過ぎれば山頂で、三等三角点があります。

 

 

 

 木立の中を進めば「和気美しい森」です。

 

 

 ここから先は舗装道路が続くのですが、昼食後、バスに乗り「岡山県自然保護センター」に向かいました。

2022年02月13日城郭:山城歴史:中世トレッキング:トレッキング

近畿文化会「奈良町における浄土宗寺院の成立」(奈良市)

 令和4年2月11日(金・祝)、近畿文化会「奈良町における浄土宗寺院の成立」に参加しました。講師は、元興寺文化財研究所研究員の服部光真さんです。


 JR京終駅から南に向かい、福寺(ふくでら)跡(南京終町)に行きます。福寺は室町時代には成立しましたが、江戸時代に廃絶しました。
 跡地の福寺池は1970(昭和45)年に埋め立てられて住宅地になりましたが、池の底から出土した石仏や石塔は、池跡の南東に集めて祀られています。

 

 京終(きょうばて)地蔵院(南京終町)は、正式な寺院でなく草堂だったと考えられており、頭光に蓮弁を刻む珍しい形式阿弥陀三尊形式の石仏が祀られています。

 

 

 五条大路沿いに鎮座する飛鳥神社(北京終町)は天神信仰にも関係しており、境内には「紅梅殿神社」と彫った石燈籠もあります。


 中世の豪商蜂屋紹佐邸跡(納院町)を経て、興善寺(十輪院町)に向かいます。

 

 興善寺の前身は十輪院境内にあった阿弥陀石仏を守る念仏聖の草庵で、当時の本尊だった阿弥陀石仏(脇侍は地蔵菩薩・観音菩薩、室町時代)は納骨堂に安置されています。

 


 本尊の阿弥陀如来立像(鎌倉時代前期)は、大和高原の寺にあったものと考えられています。


 昼食後は、奈良町の浄土宗寺院の中で最も古い可能性のある法界寺跡(脇戸町)を経て、阿弥陀寺(南風呂町)に向かいます。

 

 阿弥陀寺江戸時代前期の浄土宗寺院成立期の建造物がまとまって現存しているのが特徴です。


 また、境内には近くにあった悲田院が移されており、本尊だった珍しい三躯一仏観世音(観音菩薩の左右に阿弥陀仏・薬師仏)を拝見しました。

 

 次に三条通・やすらぎの道を北西に越えて、霊巖(れいがん)院(漢国(かんごうちょう)町)に向かいます。
 知恩院門主になった霊巖上人が戦国時代に開いた寺で、本堂には庚申講の本尊「青面(しょうめん)金剛立像」が安置されています。

 


 最後は、霊巖院に隣接した念仏寺(漢国町)はしています。
1622(元和8)年、琉球で布教した袋中(たいちゅう)上人が開き、元興寺の本尊とは異なる異本智光曼荼羅を開版して摺物を念仏講などでを配付しました。

 


 1週間前の2月4日(金)に奈良市観光協会「ならまち古地図ウォーキング」で元興寺旧境内を歩いたばかりですが、今回は奈良町の浄土宗寺院を歩き、奈良の奥深い仏教文化を感じることができました。

 

2022年02月11日建造物:寺院歴史:中世, 近世・近代奈良県:奈良市

奈良博特別鑑賞会「聖林寺十一面観音」

 令和4年2月9日(水)夕方、当選した奈良博プレミアムカード会員対象特別鑑賞会「聖林寺十一面観音」に参加しました。
 最初に、講堂で岩井共二美術室長から講演「聖林寺十一面観音菩薩立像をめぐって」を聞きます。


(1)奈良博との縁
 和辻哲郎が『古寺巡礼』で絶賛したことで有名になったが、和辻が初めて見たのは奈良帝室博物館(現「なら仏像館」)。
(2)サブタイトル「三輪山信仰のみほとけ」
 2021年の東博では、十一面観音の背景が三つ鳥居と三輪山だったが、これは大御輪寺伝来の仏像であることを強調する趣旨(①神仏習合、②大神神社の自然信仰)。

 

 奈良博だと実際の位置関係と違うことがすぐにバレルので、そんな「インチキ」はしない

 

(3)大神神社由来の仏像を一堂に展示する意義
 明治初期の神仏分離で、大御輪寺の仏像は他寺に移管
 和辻が『古寺巡礼』で伝聞として“十一面観音は道ばたに捨てられていたが拾われた”と書いているのは誤りで、聖林寺から大御輪寺に宛てたが存在。

 

 

ウ 和辻が十一面観音を高く評価していることは正しいが、異人・超人らしさを否定する部分は誤り

 

 同時に地蔵菩薩立像も預けられたが、①聖林寺本尊が子安延命地蔵であること、②スペースがないことから、法隆寺に移管。現存最古級で神像の可能性あり


 正暦寺に預けられた日光菩薩・月光菩薩は作風が異なり、別々の尊像がペアにされた可能性あり。

 

(4)十一面観音像
 当初から大御輪寺におられたかどうかに関しては様々な説。
 光背は下部が木心乾漆・上部が透彫りと華奢であり、別の寺から移したのなら光背残欠も残らないはず

 

 8世紀後半に作られた木心乾漆象で、木屎漆(こくそうるし)における漆使用率は20%と少ない。
 柔らかみのある繊細な造形で、東大寺にあった官営工房で制作か
 目の下のひび割れが残念だが致命的なものではなく、吊り上がった切れ目など厳しい顔立ち

 

 腰高のすらりとしたプロポーションで、胸が厚く腰が細い。
 衣のひだは平安前期の翻波式衣文を思わせ、次の時代様式の萌芽。

 

【個人的質問】

 講演終了後、降壇された際に個人的に質問しました。
Q:東博と違って十一面観音の背後に鳥居などを配置していないのは、元学芸部長の西山厚先生などから批判があったからか。
A:奈良の人なら位置関係がおかしいことがすぐにわかるので、我々は最初からあんな「インチキ」をするつもりはなかった
Q:『奈良国立博物館だより 第120号』で、町田甲一の聖林寺像に対する低評価を批判しておられたが、その話が聞けなく残念だった。
A:時間がないので町田批判はできなかった。あの文は、町田説が完全に誤っていることを示すために書いた。



 その後、閉館後の展示室に移動して、少ない人数のなか、じっくりと拝見できました。
 展示の中心は、かつて大御輪寺におられた国宝「十一面観音菩薩立像」、国宝「地蔵菩薩立像」、「日光菩薩立像・月光菩薩立像」の150年ぶりの再会です。
 どの仏様も素通しで間近に拝見できますが、やはり、十一面観音様を、手が届くような近さ・全体像が見える適度な距離から拝見できたのが素晴らしかったです。

 

2022年02月09日建造物:寺院, 神社歴史:古代奈良県:その他, 奈良市仏像:乾漆像

明神山・畠田古墳・達磨寺古墳群・西安寺跡ほか(奈良県王寺町)

 令和4年2月9日(水)、奈良県王寺町の史跡巡りウォークをしました。


 五つの世界遺産が見えると言われる明神山(273.6m)が主な目的地の一つです。
 JR王寺駅から南西に向かって霧の中を歩きます。

 

 山頂近くには、国交省大和川河川事務所が看板「亀の瀬地区地すべり対策」を設置していますが、手前の木が生い茂っているため全容を見ることができません。


 山頂に着いた午前10時頃には霧は消え去っており、東には雲海に浮かぶ龍王山や御破裂山などが見えます。

 

 特に素晴らしいのは西の展望です。
 王寺町観光協会のウエブサイトには《空気が澄んでいれば明石海峡大橋も見渡せます。》と書かれていますが、明石海峡大橋だけでなく、北西には六甲最高峰(931m)も見えました。

 


 南西には、応神天皇陵古墳・仁徳天皇陵古墳など(1)「百舌鳥・古市古墳群」が見えます。

 

 南には、大台ヶ原や山上ヶ岳など(2)「紀伊山地の霊場と参詣道」が見えます。

 

 北東に目を転じれば、手前の矢田丘陵には(3)「法隆寺地域の仏教建造物」が、奥の若草山の麓には東大寺など(4)「古都奈良の文化財」が見えます。

 

 その北には、比叡山など(5)「古都京都の文化財」が見えます。


 さらに北西からは、亀の瀬地区がはっきりと見えました。

 

 次に、明神山の南斜面の谷に位置する畠田古墳に向かいますが、谷奥に位置しているので辿り着くのに苦労しました。

 

 直径15m・高さ4m以上の円墳で、両袖式横穴式石室は南に開口しています。


 東に進み、尼寺(にんじ)廃寺跡(北)に行きます。
 北に金堂・南に塔を有する東向の伽藍配置で、大部分は香芝市に属しますが、北の一部は王寺町です。

 

 畠田の氏神である火幡(ほぼた)神社に参拝した後、北の達磨寺(だるまじ)古墳群に向かいます。


 達磨寺古墳群は、達磨寺境内に存在する三つの古墳からなります。

 築造時期が最も新しい3号墳は本堂の下にあるため、見ることができません。


 3号墳の北東には1号墳が、東には2号墳があり、いずれも直径15mの円墳です。
 1号墳は南東に開口する両袖式横穴式石室を有しており、玄室奥には組合せ式石棺の一部が残っています。

 

 

 2号墳の石室には入れませんが、羨門の穴から中を覗くことができます。

 

 

 最後は、西安寺跡です。
 舟戸神社が塔跡で、その北に金堂があったと推定されており、発掘調査が行われていました。


 北東から南西に延びる王寺町を大まかに一周したウォークとなりました。

2022年02月09日古墳:円墳建造物:寺院歴史:古代, 古墳時代奈良県:その他トレッキング:トレッキング

近畿文化会「“もののけ”たちの夜行する京」(京都市)

 令和4年2月6日(日)、近畿文化会「“もののけ”たちの夜行(やぎょう)する京(みやこ)(京都市)」に参加しました。講師は、前吉野歴史資料館長の池田淳先生です。
 「もののけ」とは、「物の『怪』」ではなく、「物の『気』」のことです。異界に住むものなので人間の目には見えないのですが、時折姿を現すことがあります。京都にある縁の地を訪ねるのが講座の趣旨です。

 


 平安時代、第76代・近衛天皇を悩ます怪異が起きました。警備を命じられた源頼正は、黒雲の中に「怪しき物」を見つけて矢を放ちました。矢は命中して、鵺(ぬえ、頭は猿・体は狸・尾は蛇・手足は虎)が落ちてきました。天皇を悩ませていた物の気の時は姿が見えませんでしたが、死んで初めて姿を現したのです。
 最初に訪問する神明神社(京都市下京区)には、その鏃(やじり、矢の先端)が奉納されたと伝えられます。

 

 鏃を洗ったとされる鏃池は、二条公園(上京区)にあります。


 大江山の鬼退治で有名は源頼光は頼政の先祖で、一条戻橋の近くに屋敷がありました。


 この近くには陰陽師・安倍晴明が住んでおり、屋敷跡は晴明神社となっています。

 

 晴明の式神(しきがみ、陰陽師が使う鬼神)は十ニ神将ですが、その容貌を妻が恐れたので、一条戻橋の下に置きました。橋(=端)は現世と異界との境界なので、晴明には見えますが妻には見えないのです。

 

 平安宮(大内裏)の朱雀門跡には石柱が建つだけです。
 朱雀門も現世と異界との境界なので、門の上で紀長谷雄(きのはせお)と鬼が双六をした際、負けそうになった鬼は、化けていた人間の男から上半身が鬼の姿に戻りました。

 

 平安宮の南東に隣接した神泉苑では、863(貞鑑5)年、記録に残る初めての御霊会(ごりょうえ)が開かれ、崇道天皇(早良親王)など五体の御霊が慰撫されました。


 二条城の中には、大宮大路と二条大路が交差するあわわの辻」があります。辻は現世と異界との出入口なので、百鬼夜行の物の気が出現しました。

 


 多くの遺跡が残る奈良と違って石碑が建つだけの場所が多い京都ですが、それでも実際に歩いてみて当時の人びとが物の気たちの災厄に立ち向かっていたことが理解できました。

2022年02月06日建造物:神社城郭:平城歴史:中世, 古代

奈良市観光協会モニターツアー「ならまち古地図ウォーキング」(奈良市)

 令和4年2月4日(金)、奈良市観光協会モニターツアー「ならまち古地図ウォーキング」に参加しました。

 

 「ならまち」は大部分が元興寺(がんごうじ)の旧境内です。

 

 元興寺は、平常遷都に伴い、718(養老2)年、飛鳥の法興寺(飛鳥寺)が新築移転してできた寺院です。戦乱等により荒れ、寺院としては極楽坊境内・五重塔跡・小塔院跡が残るだけです。
 しかし、他にも金堂跡の礎石などが残されており、古地図奈良時代と江戸時代の古地図を両面に印刷した地図に、現代の町並みを印刷したトレーシング・ペーパーを重ねたもの)を片手に、奈良まほろばソムリエの方の案内で遺跡をたどります。

 

 

 極楽坊境内に残る国宝の極楽堂・禅室は、僧坊を二つの建物に改造したもので、屋根の一部には法興寺から運ばれた飛鳥時代の丸瓦(茶褐色)が葺かれています。

 

 次に、金堂跡を訪ねます。菊岡薬局や奈良町物語館の北西を走る道が不自然に曲がっているのは金堂があった痕跡です。


 奈良町物語館では、金堂の礎石を二つ見ることができます。屋内にある一つは、礎石の上に現代の建物の基礎を築いています。

 

 

 

 元興寺塔跡には五重塔の基壇と出枘(でほぞ)が付いた礎石が残ります。

 


 北側にあるお堂の東西にも礎石の列があり、観音堂があった可能性もあります。


 塔跡から西に進めば小塔院跡です。ここに塔があれば東西が揃ってバランスが良いのですが、当初から小塔院が設けられていたようです。残念ながら、見るべきものは残されていません。

 

 塔跡と小塔院跡の間には、井上内親王・他戸親王(光仁天皇の皇后・皇子)などを祀る御霊(ごりょう)神社があり、かつては元興寺の鎮守社だったと考えられています。

 

 西室だった西光院は、今は華厳宗に属しており、姫路市出身で東大寺の長老を務めた清水公照氏の大きな額が掲げられていました。


 最後に、元興寺の奥之院だった興善寺に参拝して、住職から説明を受けます。浄土宗にも関わらず鼉太鼓(だだいこ)が置いてあったので法話後に訪ねると、南都楽所(なんとがくそ、寺社で雅楽を披露)に属しておられるとのことでした。

 

 また、文殊菩薩と女学生を彫った未完成の大きな浮き彫りがあり、ここに置かれるようになった裏話を伺いました。

 

 紙だけでなくスマートフォン用ソフトもあり、GPS機能と連動させれば現在地が確認できるので便利です。

 

 ただ、奈良時代と江戸時代の切り替えが面倒なので奈良市観光協会の担当者の方に尋ねたところ、奈良時代・江戸時代・現在と三つの時代を重ねる需要は少ないのでソフト開発会社が渋っているそうです。

 姫路市でも同じソフトを使っているそうですが、確かに江戸時代と現在の二つで十分です。

 ひさしぶりに、ならまち界隈を歩き、奈良の奥深さを再認識した一日でした。

2022年02月04日建造物:寺院, 神社歴史:中世, 古代, 近世・近代奈良県:奈良市

王寺町観光協会「古代の山岳修験と寺院『古代の山寺を訪ねる』」(奈良県高取町→明日香村)

 令和4年2月1日(火)、王寺町観光協会「古代の山岳修験と寺院『古代の山寺を訪ねる』」に参加しました。

 

 講師の森下惠介先生は、古墳研究のエキスパートなだけでなく、山岳修験者でもあります。
 さらに、チューターとして王寺町学芸員(係長)の岡島永昌さんが同行されると言う豪華な布陣です。

 

 南法華寺(壷阪寺)の大講堂で、講演「古代の山岳修験と寺院」を聞きます。


 講演の概要は次のとおりです。
(1)古来、山は神仏がいる場所で俗人は入らなかったが、7~8世紀、神仏から力を分けてもらうために山に人が入るようになった。分けてもらった力の一つは薬の知識(看病禅師)。
(2)都城に営まれた「平地寺院」と、山地に立地する「山岳寺院」は対で存在。
(3)比曾寺(大淀町)は山麓に立地するが、吉野地方唯一の古代山岳寺院で、奈良時代には大安寺・元興寺など官寺僧の山林修行地。七世紀の軒丸瓦が出土。


(4)義淵創建と伝える「五ケ龍寺」のうち、龍蓋寺=岡寺(明日香村)、龍門寺=龍門寺跡(吉野町)、龍峯寺=加守寺跡(葛城市、龍峯=ニ上山)龍門寺の龍門滝は水源祭祀と関係があり、龍門大宮は吉野山口神社か。

 

 

(5)中世には、山居参籠行から回峯行(奥駈)となり、修験道が確立。「修」行により「験」力を得る。
(6) 大きな岩を神の依代とする磐座信仰は、磨崖仏信仰(笠置寺、大野寺)につながる。

 壷阪寺を拝観しますが、講座の趣旨からすると、メインは、本堂ではなく「五百羅漢」と名付けられた奥之院です。大きな岩に仏像が彫られています。まさに、磐座信仰を表現するもので、森下先生に“壷阪寺でなく比曾寺の奥之院ではありませんか”と尋ねると、“その可能性が高い”とのことでした。

 


 大観音石像の前からは西に眺望が開け、二上山の北には王寺町が見えました。


 この後、比曾寺(現・世尊寺)に向かう予定でしたが、コロナ禍で拝観できないので、北の岡寺(明日香村)に向かいます。

 

 バスで近くまで行きましたが、明日香村の中心からだと東に登る山岳寺院です。
 小さいながら、奥之院の石窟もあります。
 舌状の尾根の先端部には治田(はるた)神社が鎮座していますが、瓦が出土したことなどから、ここが旧伽藍の中心だったと考えられています。


 森下先生には、著書に立派な揮毫と落款をいただくだけでなく、高市大寺跡=木之本廃寺説の妥当性等に関しても意見をお聞きすることができました。

 

2022年02月01日建造物:寺院歴史:古代奈良県:その他, 吉野郡

やまとびとツアーズ「隠れ美古墳・塚平古墳と和爾、布留の古墳群を訪ねて」(奈良県天理市)

 令和4年1月29日(土)午後、やまとびとツアーズ「隠れ美古墳・塚平古墳と和爾、布留の古墳群を訪ねて(天理市)」に参加しました。


 最初に、天理駅からタクシーで岩屋集落に向かいます。目的の「塚平古墳」は、案内役の雜賀さんと岡下さんが3時間にわたって探索した結果、やっと見つけたそうです。確かに、尾根には古墳らしい箇所が点在しており、一人で行き着くことは不可能に近いです。
 現地に行って尾根道から下を見ると、南斜面に一辺16mの方墳が見えます。

 

 南に開口する石室は、花崗岩切石を積み上げた精美なものです。南側は破壊されていますが、奥壁や天井石が残存しています。

 

 

 また、切石の隙間には漆喰が残っていました。


 次に石上町の「ウワナリ塚古墳」に向かいます。
 前方部を北に向ける全長110mの前方後円墳で、後円部の南に横穴式石室が開口しています。いつもは鍵が掛かっているのですが、天理市教委の方に特別に開けていただきました。

 


 玄室は花崗岩の巨石を積み上げた両袖式で、長さ6.8m・幅3.0m・高さ3.6mと巨大なものです。雜賀さんによると、全国でも五本の指に入る大きさだそうです。

 


 次に、同じ岩屋谷に面する丘陵上に並ぶように築かれている「石上大塚古墳」に向かいます。


石上大塚古墳」は全長107mの前方後円墳ですが、残念なことに、南に開口した横穴式石室の大部分の石は失われています。

 

 

 

 丘陵の北を西に向かって歩いて赤土山古墳に向かいます。途中で南を見ると、「ウワナリ塚古墳」と「石上大塚古墳」が同じ丘陵に並ぶように築かれていることがよくわかります。

 

 「赤土山古墳」は全長106.5mの前方後円墳です。かつては前方後「方」墳と考えられていたのですが、地震による地滑りで墳丘部分が変形していたことが判明しました。

 

 最後は、全長105mの前方後円墳和爾下神社古墳」です。後円部には和爾下神社の社殿が建てられています。

 

 物理的にアクセスが困難な(一人では行き着けない)塚平古墳普段は鍵が掛かっていて近寄ることが困難なウワナリ塚古墳と、二つの難易度が高い古墳の石室に入ることができました。

2022年01月29日

大和古墳群(奈良県天理市)

 令和4年1月29日(土)午前、天理市の大和(おおやまと)古墳群を訪れました。
 この地域は、さまざまな階層の古墳が集中的・継続的に造営されているのが特徴です。


 JR万葉まほろば線「長柄」から東に歩けば「ノムギ古墳」です。前方後方で、西側の前方部は大きく改変されていますが、全長100m程度だと推定されています。この地域の前方後方墳としては全長185mの西山古墳が有名ですが、嚆矢となるのがノムギ古墳です。


 天理環状線の道路を隔てて東側には、全長130mの前方後円墳「ヒエ塚古墳」があります。古墳時代前期の築造で、箸墓古墳との類似が指摘されています。


 「竹之内環濠集落」を経て北に向かいます。


 全長75mの前方後円墳「東乗鞍古墳」は前方部が大きく開いているのが特徴で、後円部の南側には横穴式石室が開口しています。
 玄室長は7.6mで、奥には阿蘇ピンク石の刳抜式家形石棺が、手前には二上山凝灰岩組合式石棺があるのですが、土砂が流入しているために入ることができず、外側から覗くだけです。

 

 

 西北には、全長118mの前方後円墳「西乗鞍古墳」があります。これまで訪れた三つの古墳は東西方向でしたが、この古墳は南北方向です。
 埋葬施設は不明ですが、横穴式石室だと推定されています。
 2018(平成30)年2月13日付けで国史跡に指定されました。

 


 この後、午後の古墳探訪ツアーの集合場所である天理駅に向かいました。

2022年01月29日古墳:その他, 前方後円墳歴史:古墳時代奈良県:その他

吉野ビジターズビューロー「大津皇子の物語-吉野の盟約から二上山へ―」(奈良県吉野町→桜井市→葛城市)

 令和4年1月23日(日)、吉野ビジターズビューロー「大津皇子の物語 ー吉野の盟約から二上山へ」に参加しました。講師は、吉野町学芸職員の中東洋行さんです。


 大津皇子は、天武天皇と太田(おおた)皇女の間に生まれました。太田皇女は、鸕野讚良(うののさらら、後の持統天皇)皇女の姉です。


 壬申の乱で勝利した天武天皇は、679(天武8)年、鸕野讚良皇女や草壁皇子・大津皇子など6人の皇子とともに吉野宮に行き、皇位継承の争いを起こさないことを盟約させました。
 宮滝遺跡では発掘調査が進み、この地に吉野宮(離宮)があったことが確実視されています。
 ただ、吉野の盟約が行われたと推定される場所には宮滝醤油の建物が建っており、発掘調査することができません。

 



 天武天皇の没後、大津皇子は謀反の罪で死を命じられました。背景に、我が子・草壁皇子に王位を継承させたい持統天皇の意向があったものと推測されます。
 萬葉集の巻二には、大津皇子が訳語田(おさだ)の宮で処刑される際に詠んだ「ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」(416)、その死を悼んで姉・大伯(おおくの)皇女が詠んだ「うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟(いろせ)と我が見む」(165)が収められており、桜井市にある吉備池(きびいけ)の畔には歌碑が建てられています。

 

 


 また、吉備池に隣接した春日神社境内には、懐風藻に収められた大津皇子の漢詩碑「金鳥望西舎」(福田恒存揮毫)が建てられています。

 

 この地からは二上山が望めて碑にふさわしい場所なのですが、残念ながら、東池尻・池之内遺跡(橿原市)が磐余池跡であることが、道路建設に伴う発掘調査により明らかになりました。
 高さ2m・長さ80mの人工堤防が確認され、ここから南の尾根に向かった一帯が磐余池だと考えられています。

 

 

 次に葛城市に移動して、二上山麓の加守(かもり)廃寺跡を見学します。
 薬師寺縁起には“悪龍となった大津皇子を鎮めるために建てられた龍峯寺の後身が掃守寺(かもりでら)”とする記述があり、それが加守廃寺跡だと考えられています。小さな四天王堂の裏には、南北に長い六角堂跡が確認されました。

 

 石光寺(せっこうじ)を経て鳥谷口(とりたにぐち)古墳に行きます。宮内庁が治定する大津皇子墓は二上山・雄岳にありますが、実際の墓は鳥谷口古墳だと考えられています。

 


 鳥谷口古墳は一辺7.6m・高さ2.1mの方墳で、埋葬施設は家型石棺蓋石未成品を転用して組み立てた横口式石槨です。
 底石(そこいし)を持つ横口式石槨は、石棺から発展したものと石室から発展したものに分かれていますが、これは石棺型です。

 


 いずれも過去に訪問したことがある場所ですが、中東さんの説明付きで“吉野の盟約 → 逝去 → 埋葬” と時系列的に訪問することにより、体系的な理解を深めることができました。

2022年01月23日古墳:その他建造物:寺院歴史:古代奈良県:その他, 吉野郡

近畿文化会「上町台地東辺の史跡と旧村をめぐる」(大阪市)

 令和4年1月22日(土)、近畿文化会「上町台地東辺の史跡と旧村をめぐる(大阪市)」に参加しました。
 講師の来村多加史先生は阪南大学国際観光学部教授として日本史を教えておられますが、最近、『河内平野中部観光資源調査報告』(晃洋書房)を出されました。中国考古学が専門ですが、観観光学が学問として成立するための方法論を示す(平たく言えば「観光学の専門家」に活を入れる)ために書かれたそうです。


 対象としている地域は、奈良と違って観光とは無縁と考えられがちな河内平野中部です。
 タイトルは観光資源調査報告と厳めしいのですが、探訪する際のガイドブックとしても役立ちます

 

 今回は、この本に記載されているコースのうち上町台地東辺(生野区・東住吉区)を歩きます。


 縄文時代、大阪市の大部分は河内湾で、北に延びる上町台地だけが陸地でした。


 近鉄鶴橋駅からコリアタウンを通って、彌榮(やえい)神社(生野区桃谷)に向かいます。途中、旧木野村「五榎木山(うえきさん)」の頂上には、旧庄屋・飯田家の大きな建物があります。

 

 彌榮神社の読み方について、神社の方にお聞きすると“本来は「いやさか」と読むべきだが、ほとんどの人が「やえい」と読むので仕方なくそう読んでいる”とのことでした。また、「猪飼野保存会」の提灯が上がっていたので、近くにいた人に尋ねると“猪飼野(いかいの)の地名を残すため”と言っておられました。


 南500mには御舘(みたち)神社跡があり、今は彌榮神社の御旅所となっています。


 御幸森天神宮(みゆきのもりてんじんぐう)に参拝します。「御幸森」は仁徳天皇の行在所・「天神宮」は京都五條天神社から少彦名命(すくなひこなのみこと)を勧請したことに因んでおり、菅原道真の天神とは直接の関係はありません。


 途中には、川船の底板を再利用した舟板張りの家があります。
 工楽松右衛門旧邸(兵庫県高砂市)も舟板貼りですが、こちらは松前船など大きな舟板を使っているので横に貼っており、対照的です。

 

 
 鶴橋の由来となる「つるのはし」は猪狩野村を流れる平野川に掛かっていた橋ですが、1940(昭和15)年に撤去されました。その親柱4本が「つるのはし跡公園」に保存されています。

 

 午前中の最後の見学地は御勝山(おかちやま)古墳です。4世紀末~5世紀初頭に築かれた墳丘長120mの前方後円墳ですが、南側の前方部は削平されて今は御勝山南公園となっています。
 出土した鰭付円筒埴輪などは生野区役所のロビーに展示されているのですが、閉庁日なので見ることができません。  

 
 公園の北東隅には、釈迢空(折口信夫)の歌碑「小橋(おばせ)過ぎ、鶴橋生野来る道は、古道と思ふ 見覚えのなき」がありますが、本人の書でなく、しかも銅板を貼り付けているのが残念です。

 

 午後は、俊徳街道を通って舎利尊勝寺(しゃりそんしょうじ)に参拝した後、南西の生野神社に行きます。


 生野神社の祭神はスサノオノミコトなので以前は「素戔嗚神社」でしたが、1947(昭和22)年に現在の社号になりました。

 

 桑津天神社(東住吉区)は少彦名命をはじめ11柱の神を祀っています。笑顔の狛犬が印象に残りました。


 法樂寺には、幹回り8mの府指定天然記念物「大クス」が生えています。


 山阪神社(地名は東住吉区山「坂」)の主祭神は野見宿禰をはじめ4柱で、5つの力石が並んでいます。

 

 最後に、西に向かって道が下っていることを体感しつつ、JR阪和線の南田辺駅に向かいます。


 観光名所をめぐる講座ではありませんが、身近なところに観光資源があることが理解できた一日でした。

2022年01月22日古墳:前方後円墳建造物:寺院, 神社歴史:中世, 古代, 古墳時代, 近世・近代

毎日新聞旅行「丁未の乱(ていびのらん)」(奈良県田原本町→桜井市→大阪府八尾市)

 令和3年1月21日(金)、毎日新聞旅行「丁未の乱(ていびのらん)」に参加しました。


 丁未の乱とは、587(用明2)年に蘇我馬子が河内に進撃して物部守屋を滅ばした戦いのことです。


 従来は崇仏・排仏の思想的対立によるものと理解されていましたが、①当時は仏教教義に関する理解が未成熟だったこと、②物部氏の国際的立場を考慮すると排仏派と位置づけるには無理があることから、現在は蘇我氏・大伴氏と物部氏との権力争いと考えられています。
 物部氏は河内国の在地豪族でしたが、第26代・継体天皇に従って大和国に入り活動拠点を設置しました。今回のツアーは、物部氏ゆかりの地を訪ねるものです。


 最初に奈良県田原本町(たわらもとちょう)に向かい、村屋神社の境内摂社「物部神社」に参拝します。小さな社殿は西を向いており、「守屋」姓の宮司さんは物部氏末裔とも伝えられています。



 天理市に移動し、天理参考館で、物部氏が支配する「古墳時代の布留の祭場」を再現した埴輪や土器などを拝見します。

 

 西山古墳は、4世紀後半に築かれ、墳長185mと日本最大の前方後「方」墳です。後方部の墳頂上から西を眺めた景色が素晴らしく威容を誇っていたことが体感できるのですが、コロナ禍で草刈りが行われていないので、下から眺めるだけです。


 その後、武門の棟梁だった物部氏の総氏神として創建された石上(いそのかみ)神宮に参拝します。


 昼食後は、本拠地だった大阪府八尾市に移動します。

 

 最初に、守屋の邸宅跡とされる跡部(あとべ)神社に参拝します。

 

 大聖勝軍寺(だいしょうしょうぐんじ)の山門前には、石碑「聖徳太子古戦場」が建ち、その東には守屋の首を洗った伝わる守屋池があります。



 寺を出て少し東に進めば、物部守屋の墓があります。廃仏派として神道を擁護したからでしょうか、玉垣は全て全国の神社が寄進したものです。
【13 物部守屋の墓】


 南に進めば、守屋を射た鏑矢が埋められたと伝えられる鏑矢塚、その弓を埋めたと伝えられる弓代塚があります。

 

 

 物部氏の祖神「布留大神(ふつのおおかみ)」を祀ったとされる樟本(くすもと)神社は、北木の本・南木の本・木の本の三か所にあり、北木の本には守屋首洗池があります。

 

 

 

 最後に、光蓮寺の門前にある石碑「稲城址」を見ます。稲城とは稲を積んだ砦のことで、防戦のために守屋が作ったと伝えられています。
 戦いが終わった後に寺が建立され、住職の姓は「稲城」です。


 午後に訪問した八尾市の遺跡は、いずれも伝承に基づくものばかりでしたが、本拠地で物部氏が大切にされていることがわかりました。

2022年01月21日古墳:その他建造物:寺院, 神社歴史:古代, 古墳時代奈良県:その他

近畿文化会「石清水八幡宮と八幡市の史跡」(京都府八幡市)

 令和4年1月16日(日)、近畿文化会の臨地講座「石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)と八幡市(やわたし)の史跡」(京都府八幡市)に参加しました。


 石清水八幡宮は、徒然草の第52段「仁和寺にある法師」で有名ですが、参拝するのは初めてです。仁和寺の法師は一人だったので麓にある高良(こうら)神社などに参拝しただけですが、私たちは「先達」として考古学者の泉森 皎(いずもり こう)先生(80歳!)に案内いただき、無事に参拝することができました。

 


 石清水八幡宮が鎮座する男山は、木津川・桂川・宇治川(淀川)が合流する場所に突き出した岩山で、山城国と河内国との国境となっています。

 

 男山には石清水寺があり、平安時代、大安寺の僧・行教が宇佐八幡宮から八幡神を勧請するとともに、寺号を護国寺に改めました。江戸時代には40を超える僧房があったのですが、明治政府の神仏分離令により現在の姿になりました。


 僧房の一つに、「松花堂弁当」の名の由来となった松花堂があり、建物は移築されています。

 

 

 本殿の南西には、鎌倉時代初期、阿弥陀如来坐像をおさめる八角堂が建てられました。この建物は後に焼失したのですが、豊臣秀頼が再建しました。
 この建物は正八角形ではなく、四角の四隅を切り取った「隅切り八角形」で、西車塚古墳の後円部に移築されました。

 

 

 本尊の重文「阿弥陀如来坐像」は、正法寺(しょうぼうじ)の法雲殿に安置されています。公開日ではないのですが、ご住職の案内で特別に拝見しました。丈六の大きな仏様で、わずかに金箔が残っています。印相は、中品中生の転法輪印と珍しいものです。
 快慶作とも推定されたのですが、修理の際に銘は見つかりませんでした。法雲殿の完成により京博から帰られたましたが、大きな扉を作ると経費が嵩むので、仏像を安置してから壁でふさいだとのことです。

 


 お寺のご本尊は阿弥陀三尊で、脇侍の観音菩薩と勢至菩薩は跪坐(きざ、大和坐)をしておられます。

 

 この他、八幡市を本拠とした内氏(うちうじ)が始祖・味師内宿禰(うましうちすくね)を祀った式内社内神社」にも参拝しました。ここが古代の五畿内の一つの山城国の北限です。
 当初は今より南東500mの地にありましたが、天正年間に現在の地に遷座されました。本殿の西に旧社殿が残されています。 

 

 

 北西に離れた場所には、12月19日(日)に臨地講座で訪れた長岡京があり、桓武天皇が旧勢力から逃れるため、五畿外の地に新しい京を求めたことが理解できました。

 

2022年01月17日古墳:前方後円墳建造物:寺院歴史:中世, 古代, 古墳時代, 近世・近代仏像:木彫像

吉野山「喜佐谷・吉野水分神社」(奈良県吉野町)

 令和4年1月7日(金)、今年初めての奈良行きは吉野町です。

 

 近年は、近鉄吉野駅から歩いて如意輪寺→金峯山寺と言うコースだったのですが、今年は、近鉄大和上市駅からスマイルバスで宮滝まで行き、そこから、象山と三船山(二つも独立峰ではありません。)の間にある喜佐谷を登ります。

 

 

 喜佐谷では大伴旅人「昔見し象の小川」(巻3・316)など多く万葉歌が詠まれており、犬養孝先生も愛されました。

 

 閑静な山道を登れば右下に階段状の「高滝」があり、高い所から水が繊細に流れ落ちています。本居宣長は『菅笠日記』」で、この滝が象の小川・この辺りが象山だろうと書いています。

 

 

 途中の日拝地蔵に参拝した後、、如意輪寺に向かう参道と分かれて、上千本をめざします。

 

 道の傍らには、昨年の「MIND TTRAIL 奥大和」で展示された三原聡一郎「ちいさな観測所」が残っていました。


 上千本で「さくら咲競(さくら)プロジェクト」が進められている場所を過ぎれば、「雲井桜」で車道と合流します。

 

 

 ここから少し登れば「吉野水分神社」です。豊臣秀頼が再建した重文の本殿・幣殿・拝殿がコの字型に並んでいます。
 「みくまり」が「こもり」に転化して「子守明神」とも言われており、この神社に両親が祈願して生まれたとして、宣長もお礼に参拝しています。
 前日の6日(木)に降った雪が残っており、いつもに増して静謐な雰囲気でした。

 

 

 少し下った「花矢倉」の辺りから金峯山寺「蔵王堂」を眺めます。4月になれば山桜で華やかになるのですが、今は寂しい風情です。

 

 

 途中の路上に「辰之尾集落 眺望良好地すぐそこ」と書いたパネルがあったので行ってみると、二上山・葛城山・金剛山が一望に望める素晴らしい眺望でした。

 

 昼食は、富豆茶屋林で「麻婆ラーメン」をいただきます。豆腐づくし膳が定番なのですが、奥さんこだわりの新製品なので試してみました。さすがに林豆腐店の絹ごし豆腐だけあり、辛味とみごとに調和しており、冷えた体が温まりました。


 その後、金峯山寺に参拝しました。これが初詣になります。松の内にも関わらず、他に参拝者を見かけませんでした。
 防災施設整備工事足場が組まれた蔵王堂の前には門松が置かれていました。

 


 中井春風堂が休みだったので、そのまま七曲を下ります。旅の最後に、下った所に鎮座する「幣掛(しずかけ)神社」に参拝します。この神社は、元旦のNHK「奈良“ニッポンはじまり”の旅」にも登場していました。

 

 帰りは、久しぶりに近鉄特急「青の交響曲」に乗りました。

 

2022年01月07日建造物:寺院, 神社歴史:中世奈良県:吉野郡トレッキング:トレッキング

貝吹山周辺の遺跡(奈良県高取町→明日香村→橿原市)

 令和3年12月26日(日)、貝吹山(かいぶきやま)の遺跡(奈良県高取町→明日香村→橿原市)を探訪しました。

 

 古墳時代、貝吹山は一大葬送の地であり、派生する尾根の丘陵上には約750基の古墳が築かれました。
 近鉄壷阪山駅から西北に進めば、束明神(つかみょうじん)古墳があります。対角長40m・二段築成の八角形墳で、被葬者は草壁皇子(天武天皇・持統天皇の皇子)だと推定されています。

 

 埋葬施設は二上山凝灰岩のブロックを積んだ横口式石槨で、橿考研の前庭に復元模型が展示されています。
【03 復元模型】


 なお、南西には、宮内庁が草壁皇子陵に治定している岡宮天皇 真弓丘陵」があります。


 次は、六角形墳のマルコ山古墳です。高松塚古墳と似た横口式石槨を持ってきることから壁画の存在が期待されましたが、漆喰が塗られているだけでした。
 史跡公園として整備されていますが、訪れる人も少ない悲運の古墳です。


 牽牛子塚(けんごしづか)古墳は八角形墳で、埋葬施設は刳りぬき式横口式石槨で二つの墓室を持ちます。被葬者は、斉明天皇と間人皇女(はしひとのこうじょ、孝徳天皇の皇后)だと推定されています。
 前には越塚御門古墳があり、被葬者は皇孫・大田皇女と推定されています。
 令和4年春に向けて整備工事が進められており、遠くから眺めました。

 


 真弓鑵子塚古墳の前を通り、与楽(ようらく)カンジョ古墳に向かいます。一辺32mの二段築成の方墳で、ここも整備工事中でした。ガラス越しにみる玄室は長さ5.8m・幅3.8m・高さ4.3mで、巨石を積んだ大きなものです。

 


 最後に、与楽カンジョ古墳の横を北に進み、橿原市の最高峰・貝吹山(210.3m)の山頂にある貝吹山城跡をめざします。
 貝吹山城は中世、大和国人の越智氏が築いた山城ですが、戦国時代、筒井順慶により破却されました。南北に連なる小さな曲輪群が往時を偲ばせます。

 

 木々の間からの景観はすばらしく、西には金剛山なども望めました。

 

 その後、本来の目的地である重伝建地区今井町」に向かいましたが、この地は室町時代、越智氏の支配下にありました。

 

2021年12月26日古墳:その他, 円墳城郭:山城歴史:中世, 古代奈良県:その他

近畿文化会「長岡宮の構造と造営実態」(京都府向日市、長岡京市)

 令和3年12月19日(日)、近畿文化会「長岡宮の構造と造営実態」に参加しました。講師は、近畿大学文芸学部教授の網伸也先生で、長岡宮や平安京の発掘調査をされたこともある考古学者です。
 午前中は、向日市(むこうし)文化資料館で展示を拝見した後、講演を聞きます。
 長岡京は、桓武天皇が784(延暦3)年に平城京から山背国に遷都し、794(延暦13)年に平安京に遷都するまで10年間だけ存在した都城です。

 

 

(1)桓武(かんむ)天皇は、先に既成事実を作って反対派の動きを封じるため、通常だと5~6年かかる遷都をわずか5ヶ月で行った。
(2) 長岡の地を選んだ理由は、①淀川を通じて瀬戸内海とつながった水運の便、②山陽道と山陰道の結節点である陸路の便、③琵琶湖を通じた東国との交流。
(3) 前期造営は、淀川を利用して難波宮を解体移築して、向日丘陵の中央に大極殿院、西に内裏「西宮」を造営したが、地形的制約から西宮に皇后宮を置くことができなかった。
(4)そこで、後期造営として東宮を作ったが、朝堂から見下ろされる場所だった。
(5)すなわち、①長岡遷都は成功だったが、②京や宮(京の中枢部分)の造営は失敗
(6)このため、失敗の教訓を生かして十分な準備をしたうえで、平安遷都を行った。
(7) 平安京の完成度の高さは、長岡京と比べるとよく理解できる。

 

 午後は、長岡宮を実際に歩きます。

 

 最初に行くのは3世紀前半の前方後方墳「元稲荷山古墳」です。ここは長岡宮の西端で、後方部に登って西を眺めると、切り立っていることがわかります。

 

 向日神社を経て南西に進めば、前方に展望が広がります。

 

 南東の削平された部分が前期内裏「西宮(にしみや)」で、今は市立向陽小学校となっています。展望が開けた一等地ですが、北側が傾斜地となっているので皇后宮を設置することができませんでした

 


 南に向かった傾斜地であることを実感しながら西国街道を歩き、東に曲がって進めば朝堂院公園で、少し高まった場所に西第四朝堂がありました。

 

 北に少し歩けば、大極殿院の閤門で、奥には大極殿がありました。

 

 

 阪急京都線をくぐって東に下れば内裏公園で、後期内裏「東宮(ひがしみや)」がありました。この場所だと、確かに朝堂院にいる役人から見下ろされます

 

 最後は、宮城東大垣跡(築地跡)を北から南に歩きます。東方が下がっているのが実感できます。

 

 これまで歩いたことがある場所ばかりでしたが、長岡宮が様々な問題を問題を持った宮城であることが体感できた臨地講座でした。

2021年12月19日歴史:古代

東大寺「良辨忌」(奈良市)

 令和3年12月16日(木)午後、東大寺を参拝しました。
 この日(旧暦11月16日)は初代別当・良弁(ろうべん)僧正の御遠忌なので、「良弁僧正坐像」・「開山堂」(ともに平安時代)、法華堂(三月堂)の「執金剛神立像(しゅこんごうしんりゅうぞう、奈良時代)」が年に一回だけ特別開扉されるのです。併せて、鎌倉時代に東大寺を復興した「俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)上人坐像」(鎌倉時代)も特別開扉されます。


 午前中は人が多いと思いる昼過ぎに行ったところ、最も人気のある執金剛神立像がおられる法華堂(三月堂)も、20分程度待っただけで拝見できました。

 

 執金剛神立像は、金剛杵(こんごうしょ)を持って仏法を守護する神のことで、この神将から二体の金剛力士像が生まれたと言われています。

 


 執金剛神立像は、不空羂索観音立像の背後にある厨子内に北面しておられます。

 

 このため、礼堂から内陣の東側を進むので、普段は拝見できない 多聞天に踏みつけられている邪鬼の顔や梵天が履いておられる履なども見ることができます。

 


 執金剛神立像は塑像ですが、東大寺ミュージアムには復元彩色の塑像・現状彩色の脱活乾漆像が展示されています。二体の模刻を並べて見ると、重厚な塑像の技法が選ばれたことが理解できます。

 

 良弁僧正坐像は、八角造り厨子内に安置されています。側面からの光が少ないからか、平板な印象を受けます。また、遷化されたのは8世紀後半・像が造られたのは10~11世紀なので理想化されているのでしょうか、端正すぎるように感じました。

 

 一方、重源上人坐像は、厨子の横から光が入って来ることもあり、立体的な印象を受けます。斜め横から拝見すると、頭を前に突き出した姿勢であることも確認できます。

 

 入滅後すぐに弟子たちが像立したと伝えられており、目の前に重源上人がおられるようです。
 口を堅く結んだ厳しい表情をしておられ、これを強い意思と解釈すれば弟子の快慶作狷介さと解釈すれば確執のあった運慶作となるのでしょうか。
 像から受ける印象は全く異なりますが、無著・世親立像(むちゃく・せしんりゅうぞう、興福寺)に通じる写実性があり、私には運慶作だと感じられました。


 迫力ある国宝の秘仏を三体拝見して圧倒されたので、毘盧遮那仏様へのご挨拶は失礼させていただきました。

2021年12月16日建造物:寺院歴史:中世, 古代奈良県:奈良市仏像:塑像, 木彫像

十輪院(奈良市)

 令和3年12月16日(木)、午前、啓林堂書店奈良店で購入したばかりの『十輪院の歴史と信仰』(元興寺文化財研究所編、京阪奈教育情報出版、2021年)を手に十輪院(じゅうりんいん、奈良市十輪院町)を訪ねました。


 十輪院は、本尊の重文「地蔵石仏龕(がん)」(鎌倉時代前期)や国宝「本堂」(鎌倉時代)で有名ですが、前掲の本を手に探訪したことにより、地蔵石仏龕や本堂に関する知識が深まっただけでなく、これまで見過ごしていた仏像などをじっくりと拝見することができました。

 

 地蔵石仏龕は、(1)中尊の地蔵菩薩立像、(2)側壁の十王坐像、(3)扉石の弥勒菩薩像と釈迦如来像、(4)袖石の金剛力士像、(5)手前の引導石(棺置石)などから構成されています。

 

 これらは全て花崗岩の切石で作られていますが、三つの種類に分かれます。お寺の方によると、地蔵菩薩は、湿度が高いと水分を含んでしっとりとしたお姿になるそうです。
 製作されたのは鎌倉時代前期ですが、その時は露仏・露座の状態でした。

 

 その後、13世紀に石龕(せきがん、石の厨子)が付加されました。しかも、この石龕は一様でなく複数の石龕を組み合わせたものだそうです。
 境内には石仏龕の他に、十三重石塔(鎌倉時代、今は十層)など97点もの石造物があり、石の霊場だったと考えられています。

 

 本堂は本来は石仏龕を拝むための礼堂だったと考えられており、地蔵堂(覆堂)は1613(慶長18)年に再興されたものです。

 

 本堂の南東・南西にある展示ケースには、たくさんの小さな仏像がおられます。尊名が書かれた紙片があるだけですが、前掲の本には詳しく紹介されています。
 私は特に、誕生仏立像(奈良時代、銅造、8.1cm)と地蔵菩薩立像(鎌倉時代、木造、18.3cm)が気になりました。
 お寺の方に“石仏龕以外にも立派な仏様がおられますね”と話したところ、“元興寺文化財研究所の調査により科学的なデータが明らかになって良かった寺の言い伝えと異なる部分もあるが、学術調査の結果と信仰とは別問題だ。”と言っておられました。もっともなことだと思います。

 

 

 なお、東博の法隆寺宝物館の北には旧十輪院宝蔵が移築されています。

 移築前は本堂の東・やすらぎ花壇(共同墓地)の場所にあったそうです。

 

 

2021年12月16日建造物:寺院歴史:中世奈良県:奈良市仏像:木彫像, 石像

鳥羽城跡・松ヶ島城跡・松坂城跡(三重県鳥羽市→松阪市)

 令和3年12月14日(火)、JR西日本「青春18きっぷ」(1回当たり2,410円)と近鉄「伊勢志摩日帰りきっぷ」(2,500円)を利用して三重県鳥羽市と松阪市にある三つの城跡を探訪しました。
 最初に訪れた鳥羽城は、1594(文録3)年、九鬼水軍を率いた九鬼嘉隆が鳥羽湾に突き出た山上に築いた平山城です。

 

 最大の特徴は鳥羽湾に向けて開く二の丸でしたが、残念ながら今は国道・近鉄鳥羽線・鳥羽水族館になっています。

 

 現在、城の玄関口として国道沿いに三の丸広場公園が整備され、海城だった往時を偲ぶことができます。

 

 本丸からは、鳥羽湾の眺望が楽しめます。

 

 本丸は旧鳥羽小学校の運動場として使用されていたため、北にあった天守台跡は削平されたと考えられます。

 

 ただ、幸いなことに、築城当時とその後の石垣が、本丸の西側に残されています。

 

 築城当時の石垣は、本丸の南にも残されており、水抜き穴も確認できます。

 

 鳥羽城で時間を取ってしまったので、急いで松阪市に移動します。
 観光案内所では、担当の方の勧めに従いパワーアシスト自転車を借ります。

 


 最初に訪問するのは、16世紀後半に近江日野からこの地に入った蒲生氏郷(がもううじさと)が整備した松ヶ島城です。現在は農地の中に天守台が残るだけですが、近くで農作業されていた方に聞くと、滋賀県から訪れる人が多いそうです。

 

 今は農地になっていますが、往時は北東部は海だったと考えられています。確かにすぐ北は伊勢湾です。

 


 最後は、蒲生氏郷が、1588(天正18)、松ヶ崎城から移転して築いた松坂城です。

 独立丘陵を堀切で分断して北側に築かれた城です。
 時間がなくなってしまい、天守台御城番屋敷へは行けず、辛うじて大手門を通れただけです。

 

 

 

 観光案内所でもらったリーフレット「松阪の城跡めぐり」にはたくさんの城跡が掲載されており、本居宣長の奥墓と併せて、パワーアシスト自転車で訪問したいものです。

 

2021年12月14日城郭:平城, 平山城歴史:中世, 近世・近代

吉野ビジターズビューロー「天誅組終焉の地」(奈良県東吉野村)

 令和3年12月12日(日)、吉野ビジターズビューロー「天誅組終焉の地」に参加しました。
 「天誅組の変」とは江戸時代末期に起きた倒幕運動で、以後、生野の変や禁門の変などが起たことから、明治維新の魁けと位置づける人もいます。

 


 案内は、天誅組研究の第一人者である阪本基義先生です。阪本先生は東吉野村の中学校に長く勤務して「もっちゃん先生」として親しまれるとともに、村教育長も務められました。天誅組総裁・吉村虎太郎の出身地の高知大学で数学を学ばれましたが、天誅組研究に目覚められたのはもっと後のことだそうです。
 最初に住民ホールで天誅組に関する講演があります。私のように体系だった知識を持たない者にとっては、ありがたいです。


 住民ホールや村役場がある場所には、かつて、天誅組を討伐した彦根藩が本陣を置いていました。

 
 1863(文久3)年8月17日、孝明天皇の大和国行幸の詔が出され、これに対応して天誅組は五條代官所を襲い、櫻井寺に五條新政府を置きました。しかし、反対派による宮中クーデターにより行幸は中止となり、天誅組に対して討伐命令が出されました。
 このため、天誅組は五條市・十津川村などに逃れて戦いを続けましたが、1863(文久3)年9月、東吉野村で終焉を迎えました。

 

 最初に訪れるのは、明治谷(みょうじだに)墓地です。街道から石段を登った場所には総裁の吉村虎太郎を始め9人の墓碑があります。

 

 当初は、村人が遺骸を街道脇に葬っていましたが、1912(大正元)年の天誅組五十年祭を契機として、政府の費用により現在の形に整備されました。後ろにあるのが整備以前の墓碑です。 

 

 ここから歩いて宝泉寺に向かいます。
近くに、彦根藩が脇本陣を置いていたので天誅組の決死隊が切り込んだ「碇屋があることから、「天誅義士」「彦根義士」双方の菩提寺となっています。

 


 宝泉寺の門前には、元土佐藩士・土方久元が揮毫した石碑「天誅組義士記念」が建てられています。

 

 宝泉寺から碇屋に向かう出合坂の途中には石碑「植村定七戦死の地」、鷲家川の畔には石碑「宍戸弥七郎戦死の地」が建てられています。

 

 

 バスで「吉村虎太郎原瀛(げんえい)處」に移動します。

 かつては墓所でしたが、1896(明治29)年の天誅組三十三回忌を機に墓碑は明治谷墓地に移され、今は石碑「吉村虎太郎原瀛處」が建てられています。

 

 また、鷲家川を渡る手前には、虎太郎が詠んだ辞世の歌を彫った歌碑や石碑「天誅組終焉之地」碑が建っています。

 

 最後に、藤本鉄石など6人を葬る湯ノ谷墓地へ行きます。明治谷墓地と同様に天誅組五十年祭を契機として整備されたものですが、こちらは共同墓地の奥にあります。


 東吉野村で、今に至るまで天誅組が大切にされていることを実感した一日でした。

2021年12月12日

浄土寺・広渡廃寺跡(兵庫県小野市)

 令和3年12月4日(土)、兵庫県小野市立好古館主催の見学会「浄土寺と周辺の文化財を巡る」に参加するとともに、終了後に一人で関連史跡を巡りました。
 浄土寺は、鎌倉時代に東大寺の播磨別所として重源上人が創立した寺院です。念仏道場であるとともに、東大寺領荘園「大部荘(おおべのしょう)」の東部に位置することから荘園の管理機関の役割を担ったとされます。

 

 1197(建久8)年に落慶した浄土堂と、内部に安置されている快慶作の阿弥陀三尊像が国宝です。

 

 東を向いた浄土堂の西側は蔀戸となっており、夕陽に照らされた幻想的な阿弥陀三尊象の写真が有名です。
 しかし、拝観時間が春夏は午後5時・秋冬は午後4時で終わるので、このようなお姿を拝見することはできません。好古館の学芸員の方も見たことがないそうです。

 

 阿弥陀三尊像には二つの特徴があります。
 一つは、三尊の幹部材が須弥壇を貫通して床板の礎石に達して堂と一体化していることです。したがって、建物を解体しない限り仏像は運び出せません。

 

 もう一つは、(1)本尊の両手の上げ下げが一般の仏像と逆、(2)阿弥陀如来なのに右手が釈迦如来の与願印、(3)脇侍の観音・勢至菩薩の位置が逆などです。学芸員の方に理由を尋ねましたが、“重源の指示に基づいて快慶が作ったので、重源に聴かないとわからない”とはぐらかされました。
 京都大学の根立研介先生は、《三尊の両腕の構えや印相などが特殊なものとなっているのは、宋代絵画の本様に従ったためかと思われる。》(『慶派の仏たち』(東京美術、2018年))と書かれていますが、なぜ宋の絵画を参考にしたのかわかりません。


 他にも、快慶作の重文「阿弥陀如来立像(裸形)」重文「菩薩面」がありますが、奈良国立博物館に寄託されています。
 これらは迎会のために作られたもので、阿弥陀如来立像は実際に布製の衣を着せ台車に乗せて動かしたものと考えられています。

 

 小野市立好古館での特別展「知られざる浄土寺の至宝」では、江戸時代に使われていた菩薩の衣装が展示されていました。

 

 来迎会は、西の浄土堂と東の薬師堂の間を橋掛かりとして行われていました。毎年4月に當麻寺で行われている練供養会式のような法要だったのでしょう。

 

 現在、浄土寺の本堂は、浄土堂ではなく薬師堂です。当初の薬師堂が1498(明応7)年に焼失したため、1517(永正14)年再建されたのが現在の重文「薬師堂」です。
 薬師堂の本尊は絶対秘仏で、近くにあった古代寺院の広渡寺(こうどじ、正確な寺名は不明)から移されたと伝えられています。

 

 広渡廃寺跡は発掘調査された結果、南北に南大門・東西両塔・金堂・講堂などが並ぶ薬師寺式伽藍配置であることが判明しました。
 現在、史跡公園として基壇などが復元されるとともに、縮小伽藍模型も置かれています。

 


 小野市の浄土寺と言えば夕陽に照らされる阿弥陀三尊像のイメージしかありませんでしたが、もっと奥深い背景を持つことが分かりました。

2021年12月04日建造物:寺院歴史:中世, 古代兵庫県:播磨仏像:木彫像

桜井市観光協会「わくわくドキドキ! 古墳探訪 狛・岩坂編」(桜井市)

 令和3年11月27日(土)、桜井市観光協会「わくわくドキドキ古墳探訪! 狛・岩坂編」に参加しました。一人ではたどり着けない古墳を桜井市文化財課長の橋本輝彦さんの案内で探訪できるのですから、大人気です。

 
 私は第一回から続けて参加しており今回で六回目になりますが、企画に携わるM井さんの尽力で回を重ねるごとにマニアック度が増して行くのも魅力です。

 

 最初に訪問するのは、粟原(おうばら)にある国史跡の円墳「花山西塚・東塚古墳」です。煉瓦状に加工した榛原石(はいばらいし、凝灰岩)を積み上げた磚槨式石槨(せんかくしきせっかく)を有する個性的な古墳です。本来ならメインなのですが、第三回に来たことがあるのでサブの扱いです。
 東塚古墳は、残念ながら石室の前面が破壊されています。小さな石なので持ち去られたようです。


 一方、西塚古墳は羨道や玄室が残っており、玄室の扉石も戻されています。全体を鉄格子で囲んで保護しているため、観光協会で用意いただいた梯子がないと、入ることができても出ることが困難です。

 

 さらに北東に登って尾根に出ると、古墳の痕跡が残っています。

 

 元の道に戻り、いよいよ狛峠を越えて岩坂式シ山古墳をめざします。
 かつては通学路としても使われていたそうですが、今は利用する人もなくススキなどで覆われています。今回の古墳探訪のために、観光協会の事務局長さんや区長さんなどが自走式草刈機を使って通れるようにされました。ありがたいことです。

 

 岩坂には古墳が点在しており、円墳「式シ山古墳」の玄室長は4.1m・玄室幅1.7mで、土砂が流入していますが羨道から入ることができます。

 

 

 十二神社で昼食時間を過ごした後、本日のメインとも言うべき粟原森貝古墳群に向かいます。南西の急斜面に築かれており、下(南)からのアクセスは困難です。橋本課長も三十年近く前に来られて以来だそうです。
 最初に、比較的わかりやすい場所にある2号墳に行きます。石室は埋まっていて入ることができません。墳丘の後ろには掘割が続いており、他にも古墳があったことが想像できます。

 

 

 

 次の3号墳は、一つの墳丘に二つの石室がある双室墳ですが、石室はほとんど土砂で埋まっており、西石室の中が覗ける程度です。

 


 また、石室入口の反対側の斜面には葺石らしき小石も見えます。

 

 最後は、民家の塀の下に玄室の奥だけが残る狛大石古墳です。わざわざ一部だけでも壊さずに保存するところに、住む人の古墳に対する畏敬の念が感じられました。

 

 橋本課長が言われるように、“石室だけを見るのではなく、(1)地形を見る、(2)周囲を見る” ことを心掛けて探訪した結果、桜井市の古墳の奥深さを体感できた一日でした。


2021年11月27日古墳:その他, 円墳歴史:古墳時代奈良県:その他

近畿文化会「松永久秀と信貴山城」(奈良県王寺町→平群町)

 令和3年11月14日(日)、近畿文化会「松永久秀と信貴山城」に参加しました。
 講師を務める天理大学准教授の天野忠幸先生は、松永久秀(弾正)研究の第一人者で『松永久秀と下克上』(平凡社、2018年)などの著作があり、城郭にも造詣が深い方です。
 最初に、講義を聴きます。久秀には、(1)主君・三好氏の毒殺、(2)将軍・足利義昭の暗殺、(3)東大寺・大仏殿の焼き討ち、(4)織田信長への謀反などで悪評が高い存在です。しかし、これらは全て、後世、信長を英雄視するために評価するために作られた虚構で、典拠となっている『太かうさまくんきのうち』は信用できない史料だとされます。

 


 講演後、達磨寺(奈良県王寺町)にある久秀の墓に行きます。

 信貴山城の戦いに敗れた久秀は自害し、その首は安土の信長の元に送られました。この首を、宿敵の筒井順慶が葬ったと伝えられる墓で、毎年10月10日前後に法要が営まれています。


 ただし、江戸時代の『大和名所図会』には「松永つか」として宝篋印塔が描かれていますが、今に残るのは宝篋印塔ではありません筒井順慶を称える視点から誕生した伝承の可能性もあり、天野先生に事の真偽を尋ねましたが、“達磨寺との友好関係を保ちたい”とノーコメントでした(笑)

 


 午後は、久秀が築いた信貴山城(しぎさんじょう、奈良県・平群町)跡に行きます。

 

 

 城は信貴山の雄岳(434m)と雌岳の間に展開されて、主郭があった雄岳山頂には大きな岩があります

 この大岩に対する庶民の信仰を利用する意図もあり、ここに城を築いたとするのが天野先生の見解です。

 


 山頂の空鉢護堂(くうはつごほうどう)から南には視界が開け葛城山・金剛山・二上山・明神山・畝傍山など絶景が楽しめます。

 

 東の林道を北に向かって「松永屋敷跡」をめざします。林道から土塁を登れば、南北に長く立派な五段の曲輪の中央に出ます。
 信貴山城址保全研究会の方々が階段を付ける・倒木を取り除くなど整備を進めておられるので、見学しやすくなっています。天野先生が学生時代は草茫々で調査するのに苦労されたそうです。

 

 

 この曲輪は「松永屋敷跡」と呼ばれていますが、(1)主郭から見下ろされる位置にあること、(2)「松永兵部大輔(一族の秀長)殿屋敷」と書いた史料があることから、臣下の居所だとされます。


 時間の都合で雌岳山頂の曲輪には行けませんでした。
 ぜひ、ケーブル跡のハイキング道を通って信貴山に登り、雌岳の曲輪や雄岳の松永屋敷跡をじっくりと見た後、西にある古代山城「高安城」(大阪府八尾市)にも寄りたいと思います。

2021年11月14日城郭:山城歴史:中世奈良県:その他

吉野スタイル企画・吉野ビジターズビューロー主催「大海人皇子が越えたもう一つの峠を歩く」(奈良県吉野町)

 令和3年11月6日(土)、吉野スタイル企画・吉野ビジターズビューロー主催「大海人皇子が越えたもう一つの峠を歩く」に参加しました。平成24年から令和元年まで続けられた「スマイルバスで行くディープな吉野の旅」の復活第二弾です。


 「もう一つの峠」とあるのは、令和2年の復活第一弾で、大海人皇子が吉野脱出の際に利用した矢治(やじ)峠」を歩いたからです。


 今回は、吉野宮の東に位置する国栖(くず)にある大海人皇子の伝承地を、国栖で生まれた育った今西一郎さんの案内で訪ねます。

 

 吉野宮からこの地まで吉野川に沿って歩くと、川が二カ所で大きく湾曲しているため、随分と時間がかかります。
 このため、昭和初期まで「うれし峠」を越える道が利用されていました。

 

 

「うれし峠」の名称は、浄見原(きよみはら)神社がある地で、大海人皇子が食して片腹になった魚を川に放り込んだところ泳いだので、吉兆なので「うれしい」と感じたことに由来します。

 

 この道は荒れ果てていましたが、今西さんは地元の人たちの協力を得て整備されました。さらに、苦労して地権者の合意を得られているので、いつでも誰でも歩くことができます。

 
 頂上とも言うべき「うれし峠辻」には地蔵堂が建っており、傍らには手作りの標識もあります。

 

 ここから東に下れば国栖です。意外に短い距離で、そんなに急峻でもなく、実際に歩いてみると、“国栖の人々が大海人皇子のために用意した間道”とする今西さんの説にも説得力が感じられます。

 

 昼食は、南国栖自治会館で中谷さんの弁当を頂きます。


 毎年、旧暦正月14日に国栖奏が行われる浄見原(きよみはら)神社は、大友皇子から逃れた大海人皇子が隠れた場所に創建されたと伝えられます。
 ここで、国栖奏保存会長の辻内さんから説明を聞きます。国栖奏は舞翁2人・笛翁4人・鼓翁1人・謡翁5人の12人で行うのが原則で、辻内さんは全て経験されています。写真は舞翁をされていた時のもので、向かって右の方です。


 次は吉野川と高見川が合流する「ババ川原」です。能「国栖」で、大津皇子から逃れた大海人皇子を翁が伏せた舟の中に隠す場面の舞台となっています。

 

 この後は、国栖小学校跡地に地域の方々が整備された「くにすの森」に行き、大西さんから話を聞きます。随分と整備されているので前回来たのは数年前だと思ったのですが、わずか一年前でした。


 傍らには「犬塚」があります。地元では、舟の中に隠れた大海人皇子を見つけようとした犬を翁が殺して葬った場所だとされています。このため、地元の窪垣内(くぼがいと)では今も犬を飼う家がないそうです。

 

 その後、大海人皇子が伝えたと伝承される「吉野手漉き和紙 宇陀紙(うだがみ)」の福西和紙本舗に行きます。ちょうど六代目当主の福西正行さんがおられて、お話が伺えました。
 一代限りの人間国宝(重要無形文化財保持者)と違い、「表具用手漉和紙(宇陀紙)製作」選定保存技術保持者は、保存技術を伝えて行く必要があります。また、宇陀紙は表具裏打ち用ですが、巻物を巻くと表面と密着するので保存のためにも高品質が求められるそうです。


 最後は、「くにす食堂」で珈琲をいただきます。愛知県から移住した糟谷(かすや)さんが古民家を改装して営む小さな店ですが、人気店です。糟谷さんは、これからの国栖を担うホープだそうです。


 国栖に対して知識と熱意を持つ今西さんの案内で、大海人皇子をキーワードとしたディープな国栖の旅を楽しむことができました。

2021年11月06日歴史:古代奈良県:吉野郡トレッキング:トレッキング

龍田古道「亀の瀬」(大阪府柏原市)

 令和3年10月9日(土)、奈良県のJR三郷駅から大阪府のJR河内堅上駅まで、大和川沿いの龍田古道を歩きました。逆方向では歩いたことがあるのですが、今回は「亀の瀬」に絞っての訪問です。

 

 亀の瀬は、古代から河内国と大和国を隔てる天然の関所でした。河内から上ってきた剣先船(けんさきぶね)は、ここで積荷を一回り小さい魚簗船(やなぶね)に積み替えて大和に向かいます。
 荷継ぎ場跡に残る「龍王社」には、剣先船仲間が寄進した石燈籠が立っています。

 

 川の右岸には、地名の由来となった「亀岩」があります。


 亀の瀬は地すべりが頻発した場所で、大規模な地すべり対策工事が進められています。


 地すべりを止める対策の一つに、水を抜くことがあります。
 通常は非公開ですが、ある僥倖に恵まれて「排水トンネル」に入ることができました。見上げると大きな「集水ポーリング工」があり、水滴が落ちてきます。

 

 

 1932~1933(大正7~8)年の地すべりで旧大阪鉄道(JR大和路線)の亀瀬隧道(トンネル)が埋められてしまい、急遽、大和川の上に第三・第四橋梁が架けられました。

 

 隧道は全壊したと思われていたのですが、2008(平成20)年、排水トンネル工事の掘削推進中に隧道の一部が発見されました。ここも通常は非公開ですが、排水トンネルに続いて見学することができました。
 工夫された照明で幻想的な雰囲気がします。突き当たりには崩落現場が残されており、地すべりの激しさを感じます。

 

 

 

 亀瀬隧道跡に入ることは念願の一つでしたが、この日に実現するとは予想しておらず、人との縁に感謝した一日でした。

2021年10月09日歴史:古代, 近世・近代

神姫観光「京丹後縦断トレイル(浅茂川漁港~夕日ヶ浦)」(京都府京丹後市網野町)

 令和3年10月6日(水)、神姫観光「京丹後縦断トレイル(浅茂川漁港~夕日ヶ浦、京丹後市網野町)」に参加しました。コロナ禍で間が飛んだのでほぼ3ヵ月ぶりです。
 浅茂川漁港から西に向かって歩き始めます。


 最初に、最北の「子午線塔」に行きます。ここから南に下れば、西脇市「日本へそ公園」や明石市立天文科学館に至るはずです。

 

 東を向けば、これまで歩いてきた海岸線が見えます。


 昼食は、磯小学校(明治7年~昭和58年)跡の公民館でいただきます。いつものように、地元の食材を使った心尽くしの弁当です。

 

 昼食後は、「静神社」に向かいます。
 源義経の愛妾・静御前は磯地区の漁師の娘で、義経没後は郷里に戻って晩年を過ごしたと伝えられています。

 

 海岸線を歩けば、七龍峠です。旅人が小さな白蛇を煙管でつついたところ、大蛇となり旅人を飲み込んでしまいました。村人は「七龍のへび」と恐れて祠を建てて祀ったと伝えられています。
 西には、天橋立に似た「小天橋(しょうてんきょう)」が見えます。

 

 ここから山の中の車道を歩けば、「五色浜」です。凝灰岩が波に削られて平らな地形「波食棚」になっており、表面には多数の「甌穴(おうけつ、ポッドホール)」があります。

 


 本来はここから海岸沿いを西に向かって歩くのですが、崖崩れにより通行止めになっており、車道を歩きます。

 

 「夕日ヶ浦」では、若者がサーフィンをしています。


 ここから「花ゆうみ」に向かい、入浴して汗を流した後、生ビールを呑みます。


 神姫観光のツアーだと、JR姫路駅前まで連れて帰ってくれるので、楽ちんです。
 心地よく疲れた一日でした。

2021年10月06日

KANSAIウオーク2021「奈良(斑鳩町)」

 令和3年10月4日(月)、「KANSAIウオーク2021」の「奈良(斑鳩町)」を歩きました。
 今年は聖徳太子1400年御遠忌記念に当たるので、関連した三つのアプリ・コース(①大阪(大阪市内エリア)、②奈良(斑鳩町エリア)、③京都(嵐山・太秦エリア))が設定されています。
 10月2日(土)に①大阪を歩いたので、今度は②奈良に挑戦です。

 

 「葛城修験」の幟を持った太子の愛犬・雪丸に励まされて、JR王寺町駅を出発します。

 

 北東に向かって自動車道を歩き、龍田大橋を渡れば龍田の街並みです。


 龍田神社は三郷町にある龍田大社の分霊で、法隆寺を強風から守る太子ゆかりの神社と言われています。


 藤ノ木古墳は直径48mの大型円墳で、ガラス越しに石室内の石棺が見えます。

 

 静かな西里地区を抜けて、西門から法隆寺に入ります。


 時間の関係で、會津八一の歌碑を二基(西院伽藍南東「ちとせあまり」、東院伽藍北「あめつちに」)を拝見しただけで失礼します。

 


 斑鳩神社は旧法隆寺村の守り神で、祭神は菅原道真です。

 

 松尾寺への参詣道を進めば、田圃の中に仏塚古墳があります。一辺23mの方墳で数年前には横穴式石室に入りましたが、今は入れません。

 

 ここから法輪寺に向かいますが、途中に中宮寺宮墓地(ちゅうぐうじのみやぼち)」があることを初めて知りました。歴代皇女・女王の六基の墓と後西(ごさい)天皇(17世紀)の供養塔があります。

 

 法輪寺では、會津八一が本尊の十一面観音を詠んだ歌碑「くわんおんの」を拝見します。1975年に再建された三重塔は、半世紀近くを経て馴染んでいます。

 


 富郷陵墓参考地(伝山背大兄墓所)の前を通って法起寺に向かいます。


 法起寺の三重塔は法隆寺・五重塔と似た建築様式で国宝です。秋桜が咲いていました。

 

 中宮寺跡史跡公園では、塔と金堂の基壇が復元されています。

 

 聖徳太子の愛馬・黒駒を葬ったと伝えられる駒塚古墳は前方後円墳、太子の舎人・調子丸を葬ったと伝えられる調子丸古墳は直径14mの円墳ですから、馬と人が逆転しています。

 

 

 上宮遺跡公園は称徳天皇が行幸の際に宿泊した飽波(あくなみ)宮跡で、八一の歌碑「いかるがの」があります。

 

 9月26日(日)に参拝したばかりですが、コースに含まれているので安堵町の飽波(あくなみ)神社まで足を延ばします。太子が亡くなった飽波宮跡との伝承があります。

 

 ここから終着のJR法隆寺駅までは、少しコースを外れて、天理軽便鉄道廃線跡を歩きます。天理軽便鉄道は、かつて斑鳩町と天理市を結んでいましたが、大正末期に廃止となり、一部は近鉄天理線となっています。

 

 炎天下を14km歩いたので、さすがに疲れました。

2021年10月04日古墳:円墳, 前方後円墳建造物:寺院, 神社歴史:古代, 古墳時代奈良県:その他トレッキング:トレッキング

桜井市観光協会「二上山に沈む夕陽を観るハイキング」(奈良県桜井市)

 令和3年10月3日(日)午後、桜井市観光協会主催の「万葉歌碑めぐりと二上山に沈む夕日を観るハイキング」に参加しました。
 実は看板に偽りありで(笑)、桜井市文化財課長の橋本輝彦氏の案内で纒向遺跡・箸墓古墳・ホケノ山古墳なども巡ることができました。


 最初に国史跡「纒向遺跡「辻地区」」に行きます。東から順に大・中・小の建物が東西方向に並んでいることが分かり、当時と同じ太さの柱が立てられています。
 現地で説明を聞くと、真ん中の建物の南北には棟持柱があったこと、東の大きな建物には床を支える細い束柱があったことなどがよく理解できます。

 ここを卑弥呼の宮殿跡とする説もあります。

 

 次は、古墳時代の始まりとされる前方後円墳「箸墓古墳」です。北側に大きな池がありますが、これは周濠ではなく後世に掘られた溜池です。池になる前には二つの古墳があり、削平されなかった一基が残っていますが未調査です。
 なお、箸墓古墳が卑弥呼の墓だとする説もありますが、橋本課長は否定的です。


 箸墓古墳を一回りして北にある前方後円墳「ホケノ山古墳」に向かいます。全長:後円部径・前方部径の比率が3:2:1の「纒向型前方後円墳」で箸墓古墳より古い築造です。


 次は、すぐ東の慶運寺です。本堂の脇を抜けると慶雲寺裏古墳があり、両袖式石室に入ることができます。

 

 また、本堂の西には、最高級とされる阿蘇のピンク石(馬門石(まかどいし))石棺仏が建っていますが、由来は不明です。

 

 暗くなり始めたので、井寺(いでら)池に向かいます。

 上池と下池の間にある堤の北には、集字による川端康成の歌碑「大和は国のまほろば・・・」(ヤマトタケル、『古事記』)が建っています。康成本人の希望で、目立たない場所に目立たないように建てられたそうです。

 

 晴れ渡った空が、いよいよ暗くなってきます。

 

 期待するなか、二上山の雄岳と雌岳の間に日が沈み、歓声が起きます。

 

 日が沈んだ後も、しばらく余韻を楽しんだ後、提灯の灯を頼りに歩きます。LEDでなく、ロウソクの火なのが嬉しいです。

 


 天候にも恵まれ、遺跡の勉強をするとともに夕日を楽しむことができました。

2021年10月03日古墳:その他, 円墳, 前方後円墳歴史:古墳時代奈良県:その他トレッキング:トレッキング

歴史・文化セミナー「日本遺産・龍田古道の歴史と魅力」

 令和3年10月2日(土)、近畿文化会の歴史・文化セミナー「日本遺産・龍田古道の歴史と魅力に参加しました。講師は、大阪府柏原市立歴史資料館長の安村俊史先生で、『大和川の歴史』の著作がある大和川研究の第一人者です。

 

1 日本遺産
(1) 日本遺産とは
 これまでの一点重点主義とは異なり、ストーリーを重視。文化財を観光資源としてインバウンドに活用する狙いだが、抵抗を感じる
(2) 龍田古道
 「龍田古道」(「難波大道」と同様に後世の名称)は大和川に沿って築かれた歴史的意義のある道。したがって、「もうすべらせない」から始まるサブタイトルは不満
← 私は一部に過ぎない亀の瀬が表に出ていることに対しては違和感を覚えていましたが、安村館長も同じ思いだと知って安心しました。

 

2 古墳時代以前の龍田古道
 大和川沿いに弥生時代の集落や古墳時代の大古墳群が分布。→ 川を通じて人や文化などが交流。  
 『日本書紀』の「神武即位前紀」に“狭く険しい”・「履中即位前紀」に“龍田山を越えた”とあることから、龍田古道は大和川沿いと推定

3 飛鳥時代(7世紀)の龍田古道
 推古16年、遣隋使・小野妹子の帰国とともに隋から裴世清が来日。難波津から大和川水運で海柘榴市へ(亀の瀬は陸路)。海柘榴市からは陸路で小墾田宮(おはりだのみや)へ。
 『日本書紀』に推古21(613)年《難波より京に至る大道を置く。》とあるが、どの経路か


◎通説(岸俊男説)
 難波津→「難波大道」(南北縦貫道路)→竹内街道・横大路(日本最古の官道として日本遺産)→飛鳥
◎安村説
 難波津→「渋河道」(大和川左岸)→龍田道→太子道(筋違道)→飛鳥
〔理由〕
発掘調査により難波大道の完成は7世紀中頃と判明したので裴世清の来日時には未完成四天王寺・渋川寺・平隆寺・斑鳩寺・中宮寺など古代寺院が立ち並ぶ太子道を利用、大和川に近接しており利用可能、⑤高低差が少ない(78m)、奈良時代には平城京・難波京の行幸路
 聖徳太子が住まいを飛鳥から斑鳩に移したのは、大和川と龍田道を整備して押さえるためではないか。
 『日本書紀』に、壬申の乱の際に大海人皇子が《初めて関を龍田山・大坂山に置く。》とあるのは、奈良県三郷町関地蔵辺りと奈良県香芝市関屋で大和川沿い。


4 奈良時代(8世紀)の龍田道
 聖武天皇の難波宮造営(732年)に伴って、竹原井離宮(頓宮)を置くなど再整備
 平群駅家(へぐりのうまや、奈良県三郷町勢野)や津積駅家(つつみのうまや、大阪府柏原市安堂町)など駅路の整備
 河内大橋が架けられ、龍田ルートが山越えで安堂に下るルートに変更(高橋虫麻呂の萬葉歌(巻9・1742)に「河内大橋」が登場)。
 最も重要な道で、聖武天皇や孝謙天皇・重祚後の称徳天皇が行幸に利用

5 龍田古道の魅力 
 聖徳太子や歴代天皇が行幸した面影は残らないが、想像することが可能
 虫麻呂の萬葉歌《我が行きは》(巻9-1747,1748)に詠まれたように古来から景勝の地


 古代人にとって峠越えは大変なことであり、風の神を祀る龍田大社(三郷町)で神事。


 亀の瀬では日本最大の地滑り対策工事

 

2021年10月02日歴史:古代奈良県:その他

やまとびとツアーズ「聖徳太子ゆかりの太子道を歩く」(奈良県生駒郡・磯城郡)

 令和3年9月26日(日)、やまとびとツアーズ「やまとびと副編と行く! 聖徳太子ゆかりの太子道を歩く」に参加しました。案内は、季刊誌『やまとびと』の副編集長で八咫烏神社(やたがらすじんじゃ、宇陀市)宮司でもある栗野義典さんです。
 今回歩く「太子道」には、聖徳太子が住まいの斑鳩宮と飛鳥・小墾宮との間を往復するのに使ったという伝承があります。


 この地域には古代の都市計画「条理制地割」が残っており、南北に上ツ道・中ツ道・下ッ道が走っています。これに対して、太子道は西に20度傾いているので「筋違道(すじかいみち)」とも言われます。
 この20度の傾きは、斑鳩宮や斑鳩寺(太子が建てた「創建法隆寺」)と同じなのが興味深いところです。

 

 最初に訪問するのは、「飽波((あくなみ)神社」(安堵町)です。祭神は素戔嗚(すさのお、天照大神の弟)で、元は牛頭(ごず)天王社と呼ばれていました。中世以降、蘇民将来伝説とも結び付いて、牛頭天王と素戔嗚が習合されました。


 境内には「太子腰掛け石」があり、案山子が座っています。


 神宮寺だった「極楽寺」を拝観した後、案山子公園に向かいます。斑鳩の方向を向いた「ジャンボ聖徳太子MAX」を始めたくさんの案山子がいました。


 中窪田の「杵築(きづき)神社」に参拝します。平安時代の『延喜式』神名帳で出雲大社が杵築大社と記載されていることから、出雲大社との関係が考えられます。祭神は素戔嗚ですが、出雲大社も祭神が大国主でなく素戔嗚だった時代があるそうです。


 安堵町から川西町に入り杵築神社」に参拝します。先に参拝した安堵町中窪田の杵築神社は、この神社から分祀されたそうです。


 油掛地蔵を参拝した後、大和川の堤防に上がります。西には養蚕に関係した比売久波(ひめくわ)」神社が、東側には機織りに関係した「糸井神社」があります。
 この日は寄りませんでしたが、「比売久波神社」の踏石には島の山古墳の石室の天井石が使われています。


 昼食後、「糸井神社」に参拝します。
 たまたま宮司さんがおられ、拝殿に入れていただきました。「太鼓踊り絵馬」は、右下に描かれている西瓜売りで有名です。

 

 

 祭神は豊鍬入姫(とよすけいりひめ)ですが、本殿は春日若宮の本殿を移した「春日移し」です。宮司さんに“もともとは春日大社系列だったのでは”と尋ねたところ、“この辺りには春日大社系列の神社が多く、その可能性は高い”とのことでした。そう言えば、中窪田の杵築神社の本殿も、旧春日大社若宮本殿を移したものでした。

 

 面塚を経て三宅町に入り、「屏風杵築神社」に参拝します。手水舎の屋根が唐破風となっており、境内には太子「矢じりの井戸」があります。

 

 

 また、向かいに白山神社には「太子の腰掛石」があります。


 ここから「伴堂(ともんど)杵築神社」に向かいます。南南東に向かって斜めにまっすぐ進む道で、筋違道と呼ばれる意味が体感できます。
 神社の門前には「道路元標」があります。明治時代に距離測定の基準点として設置されたもので、当時から主要道であったことが分かります。


 拝殿前には、幕末の名石工・丹波佐吉による立派な獅子・狛犬が立っています。

 

 

 三宅町の花は「あざさ」なので、この花が詠まれた万葉歌の碑(巻13・3295,3296)が建っています。犬養孝先生揮毫による立派な歌碑なのですが、解説板が壊れたままなど少し寂しい状態です。

 

 オプションとして黒田大塚古墳(6世紀初頭の前方後円墳)を見学した後、解散場所の近鉄黒田駅に向かいます。
 斑鳩町からバスで安堵町に移動し、そこから川西町・三宅町・田原本町と五町を巡るマニアックで充実したツアーでした。

2021年09月26日建造物:神社歴史:中世, 古代奈良県:その他

文全協歴史講座「奈良市菅原遺跡を考える」

 令和3年9月25日(土)午後、奈良県教育会館で行われた文化財保存全国協議会の歴史講座「行基の供養堂か ―奈良市菅原(すがわら)遺跡を考える―」を聴講しました。 この歴史講座は、住宅開発により菅原遺跡が破壊されようとしていることに對應して行われたものです。

 

☆菅原遺跡
 令和3年5月、奈良県から、奈良市菅原遺跡で大規模な回廊に囲まれた円形建物遺構が出土した旨が発表されました。

 

 

 この遺跡は、①東に平城宮大極殿や東大寺、②南に唐招提寺や薬師寺、③麓に喜光寺(菅原寺)などが見える、平城京の西側の高台にありす。

 

 

 発見された遺構は、①中心建物は柱穴が円形に取り巻くもので、②その周囲を大規模な回廊が取り囲んでいます。


 創建年代については、出土した軒平瓦や土師器杯から8世紀中頃と推定されています。一方、溜池の構築など社会事業に貢献した行基が亡くなったのは749年です。
 さらに、昭和56年に南側隣接地で行われた調査で瓦葺・風鐸を持つ建物基壇が発見されていることから、一帯は行基が創建した「長岡院(ながおかいん)」である可能性が高いとされています。
 こうしたことから、発掘された円形遺構は行基の供養堂であったと推定されています。

☆「天平の20年と行基」(寺崎保広先生)
 奈良大学名誉教授の寺崎保広先生は、文献史学の立場から時代背景を語られます。

 

(1)行基は藤原不比等の時代以降、弾圧を受けており、長屋王首班時代も変わらなかった。
(2) 長屋王は官僚として優秀だったが、聖武天皇・光明皇后の間に生まれた某王が乳児で立太子することに反対したため、失脚した。長屋王邸跡は光明皇后宮となった。
(3) 聖武天皇が宮都を転々とさせた「彷徨の五年」は、長屋王の怨霊で天然痘が流行するなど平城宮が汚れてしまったと考えたから。
(4) 聖武天皇は仏教に帰依し(天皇と仏教の関係が逆転)、大仏造立を計画した。行基が協力したのは従来から行っている社会活動と一致したためであり、庶民を裏切り権力側に付いたという批判は当たらない。

☆「行基の活動と供養堂」小笠原好彦氏)
 滋賀大学名誉教授の小笠原好彦先生は、考古学の立場から大胆に自説を展開されます。


(1)聖武天皇は、河内・知識寺の毘盧遮那仏を見て行基集団の力量を知った
(2) 聖武天皇が行基を大僧正に抜擢して大仏造立の中心にした理由は、①力量を認めた、②既存仏教勢力の協力が得にくいの二点。
(3) 行基が大仏造立に協力したのは、聖武天皇から、没後の行基集団保護が約束されたから。
(4) 最初は甲賀寺で大仏造立を始めたが、地震で頭部が落下したので、縁起が悪いとして断念。
(5) 紫香楽宮では山火事が発生したので環都したが、その背後には元正皇太后。
(6) 東大寺での造立には良弁と菩提僊那が中心的な役割。非協力的な玄昉は太宰府・観世音寺に左遷。
(7) 菅原遺跡の供養堂を多宝塔と推定しているのは間違い。礎石でなく掘立柱にしたのは強風に耐えるため

 

(8)八角形の建物は、聖徳太子を祀る法隆寺「夢殿」、藤原不比等を祀る榮三寺「八角円堂」だけ。
 これに倣って、行基集団は八角円堂の行基供養堂を作った。

☆まとめ

 今回の講座を聞いて、菅原遺跡の重要性を再認識しました。
 しかしながら、住宅開発工事により、菅原遺跡は既に破壊されてしまっているそうです。
 文化財保護法では、開発に伴う発掘調査は破壊を前提として「記録保存」するために事業者の費用負担で行うものですから、業者を一方的に責めることはできません。
 今回の事件を教訓に、小笠原先生が提案されていたように、重要な遺跡は国の補助を受けて地方自治体が買い上げて保存する仕組みができることを期待します。 

2021年09月25日建造物:寺院歴史:古代奈良県:奈良市

大阪市立美術館「聖徳太子」

 令和3年9月25日(土)午前、大阪市立美術館で開催されている千四百年御聖忌記念特別展「聖徳太子」を観覧しました。近くにある四天王寺が主催者の一員ですから、会場としてはふさわしい場所です。


 四天王寺聖徳太子が創建したと言われています。伝承によれば、587年、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏との間で戦いが行われました。14歳だった聖徳太子は、ヌルデの木に四天王を彫り、この戦いに勝ったら四天王を安置する寺院を創ると誓いました。この誓いに基づき上町大地に築かれたのが四天王寺です。

 

 四天王寺の伽藍は南から、南門・中門・塔・金堂・講堂が並んでおり、「四天王寺式伽藍配置」と言われますが、本来は先に建立された「創建法隆寺式伽藍配置」と呼ばれるべきものです。


 その後、何度も地震や火災に遭いましたが、その度に復興されました。今の五重塔八代目で鉄筋コンクリート造りです。

 

 こうしたことから、今回の展覧会に出展されている四天王寺所蔵の作品は、ポスターの表紙になっている聖徳太子童形像・四臣像」など持ち出しやすい絵画や小さな仏像がほとんどです。

 

 この結果、他の寺院から聖徳太子二歳像・童形像、如意輪観音像などが複数出陳されているのですが、一覧できるように工夫して展示されているので、違いを楽しむことができます。

 

 また、河内三太子の一つ「野中寺(やちゅうじ)」(羽曳野市)からは、重文「弥勒菩薩半跏像」が出陳されていました。お寺だと間近に拝見できるのですが、ここではガラスケースに収められています。

 

 ちなみに、他の河内三太子は「叡福寺(えいふくじ)」(大阪府太子町)と「大聖勝軍寺(だいしょうしょうぐんじ)」(八尾市)です。
 聖徳皇太子磯長墓がある叡福寺へは参拝したことがあるのですが、物部氏の本拠地近くにある大聖勝軍寺の存在は初めて知りました。近くに物部守屋の墓などもあるので、ぜひ参拝したいお寺です。


 午前11時から四天王寺僧侶による『聖徳太子絵伝』絵解き法話があり、時間があったので拝聴しました。
 本来は絵堂で杉本健吉画伯による7枚の「聖徳太子御絵伝障壁画絵」に基づき、1時間かけて太子の生涯を話されるのですが、今回はコンパクトな複製に基づく30分程度のダイジェスト版です。それでも、愛馬・黒駒で富士山を駆ける場面や王寺町・達磨寺の飢人伝説の話もありました。

 

 太子信仰の広がりを感じた展覧会でした。

2021年09月25日建造物:寺院歴史:中世, 古代仏像:木彫像, 鋳銅像

比叡山延暦寺(京都市・大津市)

 令和3年9月21日(火)、JR西日本「秋の関西1デイパス」(3,600円)を使って天台宗総本山「比叡山延暦寺」に参拝しました。電車・ケーブル・ロープウェイ・シャトルバスに乗れる京阪「比叡山チケット」が選べるので随分とお得です。因みに、JR姫路・京都間の往復運賃だけで4,620円かかります。

 

 延暦寺は、東塔(とうどう)西塔(さいとう)横川(よかわ)の三地区に分かれています。叡山電車の八瀬比叡山口からケーブル・ロープウェイを乗り継ぎ、比叡山頂駅から歩いて東塔地区に向かいます。

 

 最初に、東塔地区だけでなく全山の中心でもある仏堂「根本中堂」に参拝します。

 国宝「本堂」を三方から重文「回廊」が取り囲む構造です。

 

 今は、2016年から十年間の予定で大改修が行われているため、素屋根で覆われています。

 

 千二百年以上も灯し続けられる「不滅の法燈」や本尊「薬師如来立像は大日如来」は、素屋根の中で拝見します。最澄が唐から持ち帰ったと言われる二株の叢竹「石欄杆の竹」は、別の場所に移植されているそうです。
 ただ、中庭に「修学ステージ」が設けられており、修理現場を近くで見ることができ、写真撮影も可能です。瓦が外されたお堂や回廊を見ることができるのは、貴重な機会です。

 

 次は、重文「大講堂」です。元の建物は1956年に焼失したため、山麓の讃仏堂を移築しました。本尊は胎蔵界の大日如来坐像です。裏に回ると、金剛界の大日如来坐像が描かれています。

 

 戒壇院とは僧が受戒する場所で、当時は東大寺・筑前の観世音寺・下野の薬師寺の三寺にしかなかったため、最澄は東大寺で受戒を受けました。
 延暦寺に戒壇院が創建されたのは、最澄が入滅してから5年後です。今の重文「戒壇院」は江戸時代に再建されたものです。 
 今年は「伝教大師 最澄 千二百年大遠忌」なので、初めて内部が公開されます。説明役のお坊さんがおられて、いろいろと興味深いお話を伺えました。例えば、最澄の二百年前に亡くなった聖徳太子と最澄は、ともに唐の高層の生まれ変わりとの伝承があることなどです。
 戒壇院は全山でも特別な場所であり、次に公開されるのはいつか分からないとのことです。

 

 1986年再建の「法華総持院」も特別公開されていました。
 堂内正面には胎蔵界大日如来五仏がおられます。


 「国宝殿」は、最澄が“道心ある者こそ国の宝”と述べたことに因んで、延暦寺で育った優位な人材「国宝」との関わりの中で生まれた文化財を収めています。文化財保護法の「国宝」を収めるものではありません。
 たくさんの仏様がおられますが、小振りの重文「千手観音菩薩立像」が印象に残りました。

 

 ここから樹林に囲まれた参道を歩いて西塔地区に向かいます。
 浄土院には最澄の御廟があり、最も神聖な領域です。

 

 常行堂法華堂は廊下で結ばれており、その廊下を天秤棒にして弁慶が担いだとの伝承から、「にない堂」とも呼ばれています。向かって右にある法華堂では修行が行われていました。

 

 中堂の役割を担う重文「釈迦堂」には、最澄が彫ったと伝えられる秘仏の重文「釈迦如来立像」が祀られています。
 この建物は、園城寺(大津市)の弥勒堂を移築したものですが、戒壇院におられたお坊さんによると、“建物を守るために豊臣秀吉が園城寺から延暦寺に強制的に移築させた”とのことでした。

 

 少し足を延ばして、相輪を幢柱(とうちゅう)に取り付けた重文「相輪橖(そうりんとう)」と、高さ2mの石仏「弥勒菩薩坐像」を拝見しました。

 

 

 ここからシャトルバスに乗り、横川地区に向かいます。円仁(えんにん)が創建した「横川中堂」(よかわちゅうどう)は、織田信長の比叡山焼き打ちで焼損しており、1971年に一部懸造りで復元されました。本尊は円仁が彫ったとされる重文「聖観音菩薩立像」で、来春の京博「最澄と天台宗」に出陳される予定です。

 

 元三大師(がんさんだいし)良源の住居跡と伝えられる「四季講堂」(元三大師堂)はおみくじ発祥の地とされ、魔除けの護符として角大師(つのだいし)が授与されます。

 

 恵心(えしん)堂は、良源の高弟で『往生要集』を著した恵心僧都の住坊跡です。

 
 帰りは、シャトルバスなどを利用して下山しましたが、八瀬比叡山口駅に着いた時は暗くなり始めていました。

 

 やはり、延暦寺は一日で回るには広すぎました

2021年09月21日建造物:寺院歴史:中世, 古代仏像:木彫像

書寫山圓教寺(姫路市)

 令和3年9月19日(日)、姫路市の六角坂から天台宗別格本山「書寫山圓教寺」に参拝しました。十世紀に性空上人が開基し、大伽藍を擁していた古刹です。

 

 西国二十七番所であることから多くの人がロープウェイで参拝しますが、麓からの参道が六本あります。

 

 「東坂(ひがしざか)」は、交通の便が良く、岩尾根を登ることから眺望も良いので何度も歩きましたが、他の参道は日を分けて初めて歩いてみました。

 


 「西坂(にしざか)」は舗装されているので歩きやすいのですが、面白みのない道です。

 

 今回の「六角坂(ろっかくざか)」は森林浴コースだと言われますが、六角谷川沿いに歩きます。雨の後だったからでしょう、道がぬかるんでいるうえに岩も滑りやすい状態でした。そのかわり、いくつもの小さな滝を楽しむことができました。

 


 「刀出坂(かたなでざか)」は少し荒れた道で、山麓には江戸時代に備荒貯蓄のために設けられた「固寧倉(こねいそう)」があります。

 


 「鯰尾坂(ねんぴざか)」は雑木林の中の快適な尾根道です。山麓には戦国時代に築かれた「鯰尾大谷構居跡」があります。

 


 最後は、北東にある「置塩坂(おきしおざか)」です。
 参道沿いの石に浮き彫りされた石仏があるなど、山岳仏教であることを感じる道です。バスの便が少ないのが難点ですが、六本の参道の中では一番気に入っています
 なお、石仏の上にかかっているのは、チベット仏教を支援する旗です。 


 

2021年09月19日建造物:寺院歴史:古代兵庫県:姫路市トレッキング:トレッキング

姫路城

 令和3年9月18日(土)、「ブラタモリひめじロケ地めぐりマップ」を手に姫路城に行きました。先日、飾磨津(しかまつ)を探訪したので、今回は姫路城です。

 

 姫山にある本丸・大天守は、1601(慶長6)年から池田輝政が築城を始めました。飾磨津を外港・軍港として整備したのも輝政です。
 一方、鷺山にある西の丸は、1618(元和4)年から本多忠政が造営を始めました。

 

 豊臣秀頼の妻であった千姫(徳川秀忠の娘)は、忠政の嫡男・忠刻と再婚して、「西の丸」の御殿で暮らしました。
 今は庭園となっており、ここから天守を見ると、(1)連立式天守(大天守と小天守)、(2)白漆喰、と江戸城に類似していることが確認できます。

 

 西の丸がある鷺山を下り、姫山の坂を登って天守に向かいます。姫路城が平城ではなく平山城であることが体感できます。
 この坂は、暴れん坊将軍など時代劇に江戸城として登場するので、「将軍坂」とも言われています。

 

 池田輝政の時代、天守南の本丸「備前丸」には御殿が立ち並んでいました。
 ここから天守を見上げると連立式天守が迫ってくるようで、さらに近寄ると、屋根の裏側まで白漆喰が塗られていることが確認できます。

 

 

 大天守には登らず、「お菊井戸」に向かいます。かつては「瓶取(つるべとり)」と呼ばれており、曲輪内で茶を点てる時に利用されていました。怪談『播州皿屋敷』の「お菊井戸」と呼ばれるようになったのは、明治時代末期以降のことで、観光振興のためでした。

 

 城郭考古学者・千田嘉博先生が最も絶体絶命感が強いお勧めスポットとされる「ぬの門」を通って「二の丸」に向かいます。

 
 マップには二の丸を《秀吉時代の石垣(野面積み)が残るエリア》と書かれていますが、『姫路城石垣の魅力』(姫路市立城郭研究室)では池田輝政時代の石垣と書かれており不可解です。一般に、秀吉時代の古式石垣が残るのは、上山里下段」とされています。

 

 

 次に東の搦手(裏門)にある「喜斎門跡」に向かいます。内堀に鉤状の土橋が架けられています。
 備前丸東にある太鼓櫓北方土塀の狭間(さま)から見下ろすことができます。

 

 

 喜斎門の奥には「内堀の堀留」があり、ここから堀が左回りに螺旋状に回って内堀・中堀・外堀を構成しています。江戸城には右回りに螺旋状の堀がありますが、他に螺旋状の堀を持つ城はありません。

 

 

【桜門橋を渡って内曲輪から中曲輪に出て、内堀に沿い西に向かいます。コロナ禍前は、この内堀に和船が浮かんでいました。

 

 内堀沿いの道を北西に進めば、「南勢隠門(せがくしもん)」があります。さらに進めば、「北勢隠門」です。

 

 

 この辺り一帯は、秘密の勢力を隠す「勢隠曲輪」でした。今は、「姫山公園」としてソメイヨシノなどが植えられ、市民の憩いの場となっています。

 

 ラタモリの視点から観光客として姫路城を楽しみましたが、堀留から螺旋状に堀が延びていることなど勉強になりました。

2021年09月18日城郭:平山城, 織豊系山城歴史:近世・近代兵庫県:姫路市

英賀神社・飾磨津(姫路市)

 令和3年9月15日(水)午後、姫路市南部の飾磨(しかま)史跡巡りをしました。
 西から順に、(1)英賀城(あがじょう)跡、(2)文学碑、(3)飾磨津の三部構成です。


(1)英賀城跡 
 夢前川(ゆめさきがわ)と水尾川が合流する地点は海に近いことから、古くから港として利用されてきました。
 室町時代中頃、播磨国守護だった赤松氏は、南の守りと瀬戸内海の水運の拠点として英賀城を築きました。
 なお、英賀の地名は、阿賀比古・阿賀比売を祀った英賀神社に由来しています。

 


 この地域は英賀本徳寺(後に移転して亀山本徳寺)の門前町として栄えましたが、豊臣秀吉の播磨攻めによって滅びました
 夢前川や水尾川を自然の堀として利用し、巨大な土塁で囲まれた居館でしたが、今は、土塁の一部石碑があるだけです。山城と違って遺構が残らない平城は寂しいものです。

 

 

 

(2)文学碑
 南東に進めば津田天満神社で、境内には山部赤人神社賛歌碑(作者は荒木良雄)があります。
 なお、飾磨の地名は、砂洲がある場所を示す「洲処(すか)」が転じたものとする説が有力です。

 


 南東に進めば飾磨江で、御旅所には赤人の萬葉歌碑が建っています。
 風吹けば 波か立たむと さもらひに 津太の細江に 浦隠り居り(萬葉集、巻6-945) 

 

 さらに東に進めば恵美酒天満神社で、境内の南には有本芳水詩碑が、近くには生誕地碑も建っていますが、竹久夢二と同世代で有名だった詩人も今では忘れられていて残念なことです。

 


 境内には、玉乗り狛犬がいました。石工銘は「尾道 石工嶋居 勘十良(郎) 作」と刻まれており、“精巧かつ優美な造りの代表作”(『尾道の石造物と石工』(尾道市、2016年))だそうです。

 

(3)飾磨津
 令和元年12月に放送されたNHK「ブラタモリ」で、姫路城とともに登場したのが飾磨津です。
 今の姫路城大天守を建てた池田輝政は、水軍施設として飾磨に人工島・向島(むかいじま)を築き、海上からの敵にも完璧かつ絶対的な海上の城「安宅船(あたけぶね)」を浮かべました。石碑「舊姫路藩御舩役所之趾」も建てられています。


 

 この地は、明治時代に生野銀山から銀を運ぶ日本で初めて築かれた高速産業道路「銀の馬車道」の発着点であり、「飾磨津物揚場跡」の記念碑が建っています。


 雨の日が続く合間の縫って、地元の史跡を知るとともに、快適にウォーキングすることができました。

2021年09月15日城郭:平城歴史:中世, 古代兵庫県:姫路市

彦根城(滋賀県彦根市)

 令和3年9月10日(金)、残っている青春18きっぷを使い果たすべく、彦根城に行きました。
 なぜか町中にある平城だと思い込んでいたのですが、7月に参加したクルーズで琵琶湖畔に聳える山城だとわかり、気になっていたのです。

 

 姫路城と同様に彦根城には内堀・中堀・外堀が築かれ、中堀の内側の構造がほぼ残されています。そこで、JR彦根駅前でレンタサイクルを借り、建物だけでなく城郭構造も楽しむことにしました。


 東の佐和口から中曲輪に入ります。多聞櫓は江戸時代に再建されたもので、中に入ればL字型の馬屋があります。

 

 

 表御門跡を通って内曲輪に入ります。


 内堀に面する石垣は、上部が鉢巻石垣・下部が腰巻石垣・間が芝土居となっています。姫路城にはない珍しいものです。

 

 表御殿は明治初期に解体され、今は彦根城博物館として再建されています。

 

 表御殿の南にある「鐘の丸」に行きます。表御殿から鐘の丸に向かう斜面には、斜面移動を妨げる登り石垣竪堀が築かれています。


 鐘の丸と太鼓丸の間には大堀切が設けられ、非常時には落として敵の侵入を防ぐ木橋が架けられています。

 

 天秤櫓から太鼓丸に入ります。

 

 太鼓櫓は、太鼓の音が城内に聞こえるよう、背面も開放されています。

 

 太鼓櫓を過ぎれば、天守と本丸御殿があった本丸です。
 天守の前には、ひこにゃんがいました。


 国宝の天守は三層三階で、二層目と三層目には禅宗寺院に用いられる花頭窓が設けられています。

 

 ここから、西の丸三重櫓及び続櫓に向かいます。天守に匹敵するような大きな櫓です。

 

 西の丸と出曲輪「人質郭」の間には大堀切があり、木橋が架けられています。

 

 この後、中堀に架かる京橋口を経て、大手門に向かいます。

 

 内堀南西部の虎口には内曲輪で唯一の桝形門があったことから、表御門ではなくここが大手門だったと考えられています。

 

 中井均著『彦根城を極める』(サンライズ出版、2017年)を片手に探訪することにより、城郭に関する知識を深めることができました。
 

2021年09月10日城郭:山城, 織豊系山城歴史:近世・近代

正岸寺・こけ地蔵ほか(兵庫県加古川市)

 令和3年9月9日(木)、姫路市の東にある加古川市の史跡巡りをしました。JR加古川駅前からはレンタサイクルの利用です。


 陰陽師として有名なのは朝廷に仕えた安倍晴明(あべのせいめい)ですが、その清明が《(この呪術を)清明がほかには、知たる者候はず。もし道摩法師や仕たるらん》(『宇治拾遺物語』)と評価したのが民間陰陽師の蘆屋道満(あしやどうまん)です。

 その道満の生誕地と伝えられる場所が寶國山正岸寺(しょうがんじ)の近くにあり、境内には祠と記念碑が建てられています。

 
 また、本堂向かって左には産湯の井戸と伝えられる井戸もあります。ただ、両方とも表示がないので事前に調べていないと分かりません。


 藤原道長の呪詛に失敗した道満は、播磨へ追放されました。その魂は京の都に向かって飛んで行こうとしましたが、石棺仏にぶつかって行く手を阻まれました。その結果、石棺仏は倒れ(転(こ)け)かけたので、こけ仏とも伝えられています。

 

 こけ仏は、家型石棺の蓋石に地蔵菩薩立像を彫ったものです。
 正岸寺にも、組合せ式石棺の底石に阿弥陀如来坐像を彫った石棺仏がありました。
 この地域には、近くで産出される良質な凝灰岩・竜山石を使った石棺が多いことから、その石材を使った石仏が多く残っているそうです。


 こけ仏に向かう途中には、古代寺院の中西廃寺跡があります。
 残っている塔心礎は、長径225cm・短径186cmと大きなものです。

 

 

 また、近くの石井の清水の井枠には、中西廃寺の塔の相輪の露盤(ろばん)と刹(さつ)が転用されています。露盤は金属製のものが多く、石製は初めて見ました。

 

 この他、玄室長5.1m・幅2.2m、羨道長9.1m・幅1.5mの両袖式横穴式石室を持つ円墳升田山15号墳」、倭建命の産湯に使われたと伝承がある「石のタライ」、日本三奇の一つ石の宝殿」なども見学しました。

 

 

 

 

2021年09月09日古墳:円墳兵庫県:播磨

近畿文化会「特別講演『法隆寺創建から見えるもの―考古学の視点で―』(田邊征夫先生)」

 令和3年8月29日(日)午後、大和文華館(奈良市)で近畿文化会の特別講演「法隆寺創建から見えるもの―考古学の視点で―」を聴講しました。
 講師の田邊征夫先生は、国立奈良文化財研究所の所長を務められた考古学者で、この講演は、考古学の視点から、創建法隆寺について考えると言う内容です。

 以下は、私が理解した範囲での講演概要です。


(1) 斑鳩宮・若草伽藍(創建法隆寺)
  601年、斑鳩宮の造営開始。
   605年、聖徳太子が居住。
  607年、創建法隆寺建立(金堂本尊「薬師如来」の光背銘文)。
  643年、斑鳩宮が焼失。
  670年、若草伽藍(創建法隆寺)が焼失(『日本書紀』)。


(2)若草伽藍(創建法隆寺)の解明

 

  『日本書紀』の記述の真偽をめぐって「法隆寺再建非再建論争」が勃発。この論争は、考古学だけでなく文献史学・建築史学・美術史・歴史地理学などよる学際的研究の発展に大きく寄与
  1939(昭和14)年の若草伽藍発掘調査
  (ア)門・塔・金堂が中軸線上に並ぶ「四天王寺式伽藍配置」であることが判明。 ただし、講堂跡や回廊跡は未発見。
  (イ) ①中軸線が西に20度傾いていること(今の西院伽藍の傾きは西に3度)、②若草伽藍と西院伽藍は同規模であることが判明。→ 再建説で決着


  (ウ)七世紀前半の瓦「単弁素弁蓮華文軒丸瓦、手彫り忍草(にんどう)文軒平瓦」を発見。→ 再建法隆寺(7世紀後半)の瓦は、「複弁蓮華文軒丸瓦、均整唐草文軒丸瓦」

 

  (エ)心礎は地上型(飛鳥寺は地中型)。
  (オ) 焼失の痕跡は未発見。
  1968~1969年の発掘調査
    ①若草伽藍建立時に流路を付け替え、②その流路を川を西院伽藍建立時に埋め立てたことが判明。

 

 

(3) 伽藍の立地と方位
  丘陵沿いに立地し、正方位をとらない
  (ア)斑鳩宮・斑鳩条里の方向と一致。
  (イ)西院伽藍は正方位に近い。

 

 

  飛鳥寺や四天王寺は正方位。

(4) 堂内の荘厳
 ア 平成の発掘調査で、南大門の南((2)ウで判明した川跡の延長)から、焼け土・焼け瓦・壁画片など若草伽藍焼失の明確な証拠が出土
  若草伽藍の金堂にも、再建法隆寺の金堂と同様に壁画(浄土変相図)が描かれていたと推測。

 

(5) 法隆寺造営の政治的背景
  大和川を遡って大和に入る交通の要所に立地(難波→亀の瀬→斑鳩→金屋(桜井市))。


  『日本書紀』によれば、608年、隋の使節・裴世清がこの経路を利用して飛鳥・小墾田宮へ到着。前年の607年に創建法隆寺が完成しているので、裴世清が船上から見た可能性あり。
  遣隋使にみる統一国家建設と倭国の思惑
  (ア) 最初の遣隋使が『隋書』には記載があるが『日本書紀』に記載がないのは、隋に説明した日本の風俗が恥ずかしかったからか。
  (イ) 第二回遣隋使が携えた国書にある《日出ずる処》《日没する処》は、対等の立場を示したものではなく、仏典『大智度論』に言い回しを借りただけ(東野説)。
  法隆寺造営の意図
  (ア)仏教的・文化的意図に加えて外交的意図

  (イ)都づくりと関連した伽藍造営を行った飛鳥寺や四天王寺とは違った役割。→太子の仏教に対する強い思いと人格を色濃く反映させた伽藍造営により、人びとの精神的支柱

(6) まとめ
  崇仏派が排仏派に勝利した背景には、仏教を国造りの基軸にした隋の影響
  天皇を中心とした中央集権的統一国家を作るうえで仏教は有効な思想政策
  寺院建築、特に壁画は仏教思想を視覚的に分かりやすく伝える役割
  仏教思想の下に国家体制を作っていることを隋に示す。
→ 法隆寺を始めとする初期寺院は、これらの重要な役割を担っていた。 

2021年08月29日歴史:古代奈良県:その他

近畿文化会「特別講演『聖徳太子聖蹟としての斑鳩』(東野治之先生)」

 令和3年8月29日(日)午前、大和文華館(奈良市)で近畿文化会の 特別講演「聖徳太子聖蹟 としての斑鳩 」を聴講しました。講師は東野治之先生です。
 東野先生の講演は、5月1日(土)に奈良博で行われた「聖徳太子―史実から信仰へ―」を聞いたばかりですが、太子研究の第一人者だけあって、内容的に重なる部分はほとんどありませんでした。

 


 以下は、私が理解した範囲での講演概要です。


(1) 斑鳩地域の特色
 ア 聖蹟とは聖地のことで、鳩がどのように聖蹟として作り上げられたかを考察するのが講演の目的。
  太子は、膳妃(かしわでのきさき)王姫の出身地に斑鳩宮を設置。これが、生前から聖人とされていた太子の聖蹟の起源。
 ウ 今は、東院伽藍として夢殿などが建つ。


(2) 法隆寺(斑鳩寺)の消失と再建
 ア 太子は、斑鳩宮近くの「若草伽藍」に法隆寺(斑鳩寺)を創建。
  ①本尊は薬師如来、②伽藍配置は四天王寺式(門・塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ。本来は「創建法隆寺式」と呼ばれるべき)。
  太子が没してから半世紀後の670年に焼失。

 

 


  711年、現地でなく、北西の「西院伽藍」に再建。理由は、焼け跡の整地が大変だから。

 

(3)「再建」法隆寺の性格
  再建法隆寺は、①本尊が飛鳥時代の釈迦三尊、①)伽藍配置は法隆寺式(門の奥に金堂と塔が横に並んで奥に講堂)で飛鳥時代の「百済大寺」に類似、③最新の唐様式の壁画。
  これらから、創建法隆寺とは別の寺であり、聖徳太子を記念するものだと考えられる。

 

 

(4) 法輪寺・法起寺・中宮寺
  法隆寺の復興と並行して整備。
  法輪寺は、膳氏の氏寺。


  法起寺は、太子の子である山背皇子(やましろのおうじ)が住んでいた岡本宮の跡。

 

  中宮寺(現在地の500m東)は、太子の母・穴穂間人(あなほべのはしひと)が住んでいた中宮(なかみや)の跡。

 

 ここから、核心に入ります。東野先生は『新修 斑鳩町史』(令和4年刊行予定)の古代部分を執筆されており、その内容です。

(5) 法隆寺東院の造営
  再建法隆寺は太子を記念するものだったが、それをさらに進めたのが斑鳩宮跡に作られた東院伽藍。
  再建に際して表に出ているのは阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)だが、実際に進めたのは光明皇后と異母兄の藤原房前(藤原北家の祖)。
  太子は観音菩薩の化身であると言う太子信仰を具体化するために、別の寺から飛鳥仏「救世(ぐぜ)観音」を移して夢殿の本尊とする。
  救世観音は金堂にあったとする説もあるが、170cmと背が高いので金堂の本尊である釈迦三尊像とアンバランス。


  夢殿は、興福寺の北円堂・南円堂や榮山寺の八角円堂と同様に廟建築
  創建当時の東院伽藍は、太子の斑鳩宮を意識した夢殿は礎石・瓦葺だったが、回廊など他の建物は掘建柱・檜皮葺。


(6) 道詮による東院の整備
 ア 平安時代前期には荒廃が進んでいたので、859年、道詮(どうせん)が建議して大規模な改修。
  全ての建物を礎石に変更
  太子信仰の恒久的拠点とするため、絵殿(絵画館)を建てたほか、西院伽藍の西に聖霊会を行うために聖霊院を建立。


(7) 斑鳩の聖蹟化
 ア 平安時代から江戸時代までは、西院伽藍より東院伽藍が重要視
  明治時代以降は、飛鳥文化の殿堂として西院伽藍が重用視され、従来の太子信仰は弱体化。
  1922(大正11)年の千三百年御遠忌を契機として「新しい太子信仰」が作られ、斑鳩が太子信仰の聖蹟にされてしまっている。
  具体的には、①法隆寺国宝保存事業(1934~1959)、②文化庁主導による世界文化遺産登録第1号(1993(平成5)年)など。

 講演内容を整理してみて、東野先生が難しい内容を分かりやすく説明されていることを再認識しました。
 この講演を聞いて、私が敬愛する會津八一が《うまやどの みこのみことは いつのよの いかなるひとか あふがさらめや》(厩戸の皇子さまは、どんな世のどんな人でも崇敬し奉らずにゐられようか(吉野秀雄))と詠んだのも、新しい太子信仰に基づくものだと理解できました。

2021年08月29日歴史:中世, 古代, 近世・近代奈良県:その他

笠形山(兵庫県市川町→神河町)

 令和3年8月27日(金)、姫路市北部の神崎郡にある「笠形山」(939.4m)に登りました。
 JR播但線「福崎(ふくさき)」駅で降りて、タクシーで市川町上牛尾の登山口に向かいます。適当な時間帯に走るコミュニティバスがないのです。

 

 

 しばらく行くと「笠形寺」です。平安時代以降、天台宗の寺として栄えましたが、明治時代の大火で、蔵王堂を除く建物が消失してしまいました。
 今、蔵王堂には不動明王などが安置されています。修験道の聖地だったことからすれば、かつては本尊として蔵王権現がおられたのかもしれません。


 本堂・庫裏の前には、樹高21m・樹齢500年の立派な県天然記念物「コウヤマキ」が生えています。


 さらに進めば、笠形寺の鎮守社だった「笠形神社」です。
 拝殿は、明治初期に笠形寺の本堂を転用したもので立派です。

 

 境内は広大で、中宮(なかみや)などを挟んだ奥に本殿があります。

 

 

 境内には、樹高42m・樹齢650年の神木「ヒノキ」が生えていましたが、姫路城の昭和大修理の際に伐採されてしまい、今は切り株の横に石碑が立っています。

 

 伐採されたヒノキは、木曽ヒノキの上に二本継されて、大天守の西大柱の一部となっています。

 

 伐採されたヒノキの近くには、樹高50m、樹齢850年「大スギ」(夫婦杉)が立っており、最近、県天然記念物に指定されました。

 

 ここからスギの植林道を北に進みます。

 

 長く厳しい木の段を上ると「笠の丸」で、北側には笠形山頂が見えます。

 

 

 石がゴロゴロした急坂を登れば、一等三角点がある山頂です。

 360度の見晴らしですが、南は霞んでおり明石海峡大橋や四国は見えません。

 

 

 下りは、西に進み、グリーンエコー笠形(神河(かみかわ)町)をめざします。
 途中の滝見台からは「扁妙(へんみょう)の滝」の全容を見ることができます。落差が65mあり、四方を急峻な岩に囲まれていて壮大です。名称は、江戸時代初期に不動明王を祀った僧「扁妙」に由来すると言われています。厳冬期の氷瀑が有名です。

 
 最後に「響の湯」で汗を流した後、神河町コミュニティバスに乗ってJR播但線「新野(にいの)」駅に出ました。

 駅近くには、田圃に水を入れる水車が保存されています。

 

2021年08月27日兵庫県:播磨トレッキング:トレッキング

奈良国立博物館「奈良博三昧」・京都国立博物館「京の国宝」

 令和3年8月25日(水)、奈良国立博物館「奈良博三昧」京都国立博物館「京(みやこ)の国宝」を観覧しました。
 午後の奈良博は、後期展示を見るのと写真撮影が目的です。
 一番拝見したかったのは、後期の国宝「金剛般若経開題残巻 空海筆」です。前期では国宝「尺牘(せきとく) 最澄筆」を拝見したので、これで日本密教の二大開祖の書跡を見たことになります。

 

 
 国宝「牛皮華鬘(ごひけまん、仏堂内に懸ける荘厳具(しょうごんぐ))」は、前期とは別の二枚で、今に残る天女の鮮やかな色彩に驚きました。

 

 また、今回は明るい標準レンズを装着していたので、五大明王を構成する「軍荼利明王」も、写り込みなしに撮影できました。

 

 午前中の京博は、8月24日~9月5日までの2週間限定公開の「風神雷神図屏風」(俵屋宗達筆)が目当てです。混雑を予想していたのですが、平日の開館直後だったからでしょうか、極めて人が少なかったです。154.5×169.8cmの屏風二隻となると、少し離れたところからでないと全容がわからないのですが、前に立つ人がいなくてじっくりと鑑賞できました。

 

 隣の「花鳥図襖」(狩野永徳筆)も、同様に離れた位置からゆっくりと鑑賞できました。

 

 これだけで所期の目的を果たしたのですが、ほかにも「玉泉帖」(小野道風筆)、「七弦琴」を鑑賞しました。

 

 


 8月5日(木)に続いて二回目なので、対象を絞って効率的に観覧することができました。

2021年08月25日歴史:中世, 近世・近代奈良県:奈良市

姫路城

 令和3年8月16日(月)午前、自宅から歩いて姫路城へ行きました。
 雨のため数日、外出できなかったので、合間を縫っての外出です。
 入城口から進んで菱の門を入れば、三国堀越しに大天守が見えます(天守閣は近代以降の俗称)。

 

 

 多くの人は、ここから大天守をめざしてまっすぐ進みますが、左に進んで西の丸に行かないのはもったいないことです。
 姫路城は、大天守があり天正・慶長期に池田輝政が築いた姫山(ひめやま)と、その後の元和期に本多忠正が開いた西の鷺山(さぎやま)に分かれています。
 鷺山には西の丸があり、忠政の嫡男・忠刻と千姫が住む御殿がありました。ここからは大天守・西小天守・乾小天守が見えます。


 西の丸から大天守に向かう坂道は、「暴れん坊将軍」のエンディングに使われたことから将軍坂とも言われています。

 

 大天守の1階と2階はほぼ同じ形です。周囲を廊下が巡り、南半分は兵が寝泊まりする大広間、北半分は3室に区切られた武具庫となっています。

 

 2階の武具庫の東の一室は公開されていますが、1階の武具庫は非公開でした。今回、東の一室が初公開されているので、それを見るのが目的の一つです。

 

 3階では、東大柱と西大柱を見ることができます。東大柱はモミの一木材で築城当時のものですが、西大柱は昭和の大修理でヒノキの二本継に交換されました。


 最上階の6階は書院風造りで、姫路長壁(おさかべ)大神と播磨富姫大神を祀る長壁神社があります。長壁大神は光仁天皇の皇子だった他戸(おさべ)親王・冨姫はその娘とする説もありますが、他戸親王は幽閉されている奈良県五條市で13歳で亡くなったので、荒唐無稽な話です。

 

 ぬの門を通ります。この門は3階建てで、2階と3階の窓と壁には狭間(銃眼)があります。
 千田嘉博先生は、『城郭考古学の冒険』(幻冬舎新書、2021年)で《最も絶体絶命感が高いお勧めスポット》と評価しておられます。

 

 ぬの門の内部は令和3年2月に特別公開されました。


 ぬの門の前面には大型石材である鏡石が積まれており、人の顔のように見えることから人面石と言われています。

 

 門外の備前丸西側石垣は、傾斜角度が下方で65度・上方で74度と変化しており、扇子のカーブに似ていることから扇子の勾配と言われています。

 

 

 姫路城の奥深さを再認識した一日でした。

2021年08月16日城郭:織豊系山城歴史:近世・近代兵庫県:姫路市

伊吹山(滋賀県米原市)

 令和3年8月11日(水)、滋賀県の最高峰伊吹山(1,377m)に登りました。
 JR米原駅から伊吹山登山バス(湖国バス)で伊吹山スカイテラスに向かいます。

 

 本来なら登山口で下車して山頂を往復すべきなのですが、バスの時刻の関係で九合目のスカイテラスに行き、そこから南西に山頂を経て下山します。

 

 山頂一帯は国天然記念物「伊吹山頂草原植物群落」で、鹿や猪などの害を避けるために、保護柵やネットが設けられています。その維持管理費用として入山協力金を支払い、西登山道に入ります。

 

 最初に、黄色いキオン(キク科)に群落が目に入って来ます。

 

 さらに登れば赤色のシモツケソウ(バラ科)群落再生地で、ネットで囲まれた中で咲き誇っています。


 遠くには、琵琶湖に浮かぶ竹生島が見えます。

 

 山頂は、多くの登山客やハイキング客で賑わっています。

 

 白いシシウド(セリ科)の群落がネットで保護されています。

 

 山頂で景観を楽しんでから、上野への下山道を歩みます。
 石灰岩が露出して歩きにくい道です。

 

 三合目に向かって急な坂をジグザグに歩きます。

 

 平安時代に奈良・元興寺の僧「三修」が伊吹山寺を開くなど、かつて伊吹山は山岳信仰の霊場でした。その名残として、八合目には手掛岩行導岩が残っています。

 六合目から上を見れば、ニホンジカの群が目に入りますが、目が合っても逃げようとしません。この辺りの草原が消滅しつつある原因の一つはニホンジカの食害だそうです。

 

 三合目の山野草保護区に入ればユウスゲ(ススキノ科)の群落です。

 

 コオニユリも咲いています。オニユリと違って、葉の付け根にムカゴがないのが特長だそうです。
 また、すぎやままさとの歌「吾亦紅」で名前だけ知っていたワレモコウ(バラ科)の花も咲いています。

 伊吹山スキー場跡を通って下山します。今はパラグライダーの体験場所となっています。

 

 登山口の上にはケカチのがあります。解説板によると、山岳修行に入る前の行者がここで身を清めた(悔過の行)そうです。


 すぐ近くには、伊吹山登山の守り神三之宮神社があり、祭神は大国主命・大山昨命(大山祇命?)・玉依姫命の三柱です。

 

 この後、ジョイ伊吹「伊吹薬草湯」で体を癒す予定でしたが、時間が無くなったので、ここからJR米原駅に出て帰路に付きました。

2021年08月11日歴史:古代

奈良国立博物館「奈良博三昧」

 令和3年8月5日(木)午後、奈良国立博物館「奈良博三昧 ―至高の仏教美術コレクション―」を観覧しました。
 奈良博は明治28(1895)年、神仏分離で失われつつある仏像等を保護するために設立された経緯から、所蔵する約2,000件の多くが仏教美術品となっています。その一部は、なら仏像館で常設展示されていますが、この特別展は選りすぐりの245件を展示するものです。


 この特別展の特長の一つは、写真撮影が可能なことです。しかし、ガラスケースに入っていたり暗かったりして、なかなか上手く撮影することはできません。

 

 「第1章 ブッダの造形」では、普通の釈迦如来像と違って苦行で瘦せこけた出山(しゅっせん)釈迦如来立像(南北朝時代)が印象に残りました。

 

 また、国宝刺繍釈迦如来説法図(飛鳥時代)も気になりました。

 

 「第3章 写経に込められた祈り」では、聖武天皇が写経させた国宝今光明最勝明経(奈良時代)の金字が燦然たる光を放って紫紙に映えていました。

 

 「第4章 密教の聖経とみほとけ」では、伝教大師・最澄筆国宝尺牘(せきとく)(平安時代) は空海に対して礼を尽くした内容で、清澄で格調が高い文字です
 なお、後期には代わって弘法大師・空海筆の国宝「金剛般若経開題残巻」が出展されるので、これも拝見したいものです。

 

 「第5章 仏教儀礼の荘厳」では、たくさんの密教法具が出展されているなかで、特に重文独鈷鈴・三鈷鈴・宝珠鈴(平安~鎌倉時代)が印象に残りました。

 

 「第6章 地獄極楽と浄土教の美術」では、 国宝地獄草紙(平安~鎌倉時代)のデフォルメされた表現を楽しみました。

 

 「第7章 神と仏が織りなす美」では、手を大きく振って疾走する伽藍神(がらん)立像(鎌倉時代)がユーモラスに見えますが、修行を怠る者を懲らしめるために釘と槌を持って走り回っているそうです。

 

 「第9章 南都ゆかりの仏教美術」では、重文増長天立像(平安~鎌倉時代)と、愛欲煩悩を表わす赤色に染められた重文愛染明王坐像(鎌倉時代)が印象に残りました。

 


 今回の最大の収穫は、「第10章 奈良博コレクション三昧」の国宝日本書紀 巻第十巻(残巻)(平安時代)です。現存する最古の写本で、応神天皇紀の部分です。

何となく見ていたところ、吉野町・浄見原神社で行われる国栖奏の始まりに関係する記述がありました。

 


 奈良博が所蔵する逸品が一堂に展示される充実した企画展であり、展示替え後の後期もぜひ観覧したいと思います。

2021年08月05日歴史:中世, 古代奈良県:奈良市

奈良大学博物館「東大寺松龍院 筒井家所蔵 拓本展」

 令和3年8月5日(木)午後、奈良大学博物館「東大寺松龍院 筒井家所蔵 拓本展」を観覧しました。

 

 拓本とは、水で湿らせた対象物に紙や布を密着させ、「たんぽ」で墨を当てながらその形を写し取る技法です。
 展示される拓本(拓影)は、国宝・重文クラスのものを対象として、東大寺の別当(住職)を務めた筒井英俊・寛秀・寛昭の三師が採拓・収集されたものです。


 これは、将来の修理等に備えてのものでした。

 しかし、いまでは高解像度のデジタル撮影や三次元計測の技術が進んでいることから、国宝・重要文化財クラスの文化財から採択することはできません。その意味では貴重な資料です。
 さらに、細部や微妙な表現が実物大で写し採られているので、素人にもよく分かります。
 なかでも、東大寺法華堂不空羂索観音立像の宝冠の化仏と光背は、奇蹟のような拓本です。

 

 戦前に盗難にあったが戻ってきた際に採拓されたものです。通常は遠くから拝観す化仏と光背なので、よくぞ採拓されたものと感謝します。

 

 

 運慶が若い頃に時に作った円成寺大日如来坐像の光背も、通常は前に仏様がおられて全体を拝見できないので、貴重なものだと思います。

 


 かつて存在した東大寺西大門の勅額今光明四天王護国之寺も、聖武天皇宸筆と伝えられており、興味を惹かれました。

 

 

 無料でいただける18枚の立派な図録も、貴重な資料です。


 地味ですが、充実した内容の展覧会でした。

2021年08月05日歴史:中世, 古代奈良県:奈良市

京都国立博物館「京(みやこ)の国宝」

 令和3年8月5日(木)午前、京都国立博物館「京(みやこ)の国宝」を観覧しました。
 この特別展は、京都ゆかりの国宝や皇室の至宝を展示することにより、文化財が持つ魅力や価値を紹介するものです。
 平日の開館直後だったからかもしれませんが、人が少なくて、ゆっくりと観覧できました。


 展示は、「(1)京都ー 文化財の都市」「(2)京の国宝」「(3)皇室の至宝」「(4)今日の文化財保護」に分かれています。
 私は、京都より奈良が好きなので、特に「(3)皇室の至宝」に魅力を感じました。明治維新による混乱の中、法隆寺や東大寺などの古社寺は、伝来の品々を皇室に献納することにより存続を図りました。その至宝が展示されているのです。
 春日権現験記絵は、鎌倉時代に藤原氏の氏神である春日社に奉納されたものです。20巻全てが揃っていて、京都の公家文化の高まりを鮮やかに示しているそうです。
 宮内庁三の丸尚蔵館に収蔵されているため国宝に指定されていませんでしたが、方針変更に伴い、7月16日に文化審議会が国宝指定を答申しました。


 (1)京都ー文化財の都市では、藤原道長自筆の御堂関白記が目玉です。美術工芸品として国宝に指定されていますが、平安時代の歴史や文化を研究するうえでも欠かせない史料です。
 最高権力者の道長が、丁寧な字で膨大な記録を残していたことに驚きました。


 (2)京の国宝では、四面六臂の梵天(ぼんてん、教王護国寺)と、琵琶を抱えた摩睺羅(まごら、妙法院)に興味を持ちました。いずれも、千手観音の眷属である二十八部衆の一人です。

 

 

 展示されている仏像は七点と少ないのですが、他にも、ずらりと並んだ五智如来(安祥寺)、間近で拝観できる雲中供養菩薩(平等院)など充実した内容でした。

 

 絵画では、長谷川等伯が描いた巨大な松に秋風図屏風(智積院)が圧巻で、離れた位置からゆっくりと観覧できました。


 (2)京の国宝なのに、なぜか奈良・金峯神社所蔵の金銅藤原道長経筒も展示され、単眼鏡を使うとはっきりと「道長」の字が見えました。

 

 (4)今日の文化財保護では、戦後に最初の国宝指定を受けたが一時行方不明になり、近年出現した日本刀が展示されており、文化財保護には、調査・把握・管理が重要なことを示しています。

 


 また、法隆寺金堂壁画摸本(桜井香雲)も拝見することができました。

 

 観覧を終えて会場の平成知新館を出ると灼熱の暑さで、噴水越しに見る明治古都館が涼しげでした。

 

 


2021年08月05日歴史:中世, 古代, 近世・近代

神姫観光「霧ヶ滝トレッキング」(兵庫県新温泉町)

 令和3年8月3日(火)、神姫観光「霧ヶ滝トレッキング(兵庫県新温泉町)」に参加しました。兵庫県の西北端に位置しており、少し行けば鳥取県です。


 霧ヶ滝渓谷の入口から全長2.4kmの遊歩道を歩きます。ガイドは上山高原エコミュージアムのお二人です。


 鉄橋の手前に、関西電力朝来水力発電センターの取水口があります。

 

 登り始めてすぐ、対岸に急な魚止めの滝が見えます。

 

 さらに進めば、壊れた鉄橋の横に簡単な木橋が架かっています。水量が増えた場合には流れるようになっており、不安定なので、気をつけて渡ります。

 

 大きな岩が転がっている中を歩きます。

 

 急なジグザグ坂を登り切ってから下れば、対岸遠くに細長い絹糸の滝が見えます。

 

 さらに下ると、目の前に霧ヶ滝が現れます。落差65mで、水が途中の段に当たって霧状になるため、霧ヶ滝と呼ばれるそうです。


 遠くから見ても迫力があります。しかし、ガイドの方によると、いつもだと離れていても滝の圧力を感じるが、今日は水量が少なくて貧弱だそうです。


 バスで現地に向かっている途中では大雨が降り、実施されるのか不安に思いましたが、現地では雨に降られることなく、川沿いの快適なトレッキングが楽しめました。

2021年08月03日兵庫県:その他トレッキング:トレッキング

姫路市坊勢漁協「底びき網漁見学ツアー」

 令和3年8月1日(日)、姫路市の坊勢(ぼうぜ)漁協主催の底びき網魚見学ツアーに参加しました。 

 

 姫路市の18km南には、大小44の島々から構成される家島(いえしま)諸島があります。
 そのうち、本島、坊勢島、男鹿(たんが)島、西島の4島に約6,000人の人が暮らしています。なかでも坊勢島は漁業が盛んで、総漁船数が900隻と一つの漁港としては日本一の数です。 

 

 家島の地名は古く、万葉集にも詠まれています。家島本島の家嶋神社境内には犬養孝先生揮毫の歌碑があるのですが、残念ながら今日は寄りません。
 家島は 何こそありけれ 海原を 我が恋ひ来つる 妹もあらなくに(巻15・3718)
 姫路市白浜町には、坊勢の魚をそのまま販売する「姫路まえどれ市場」が設けられています。最近はブランド「白鷺鱧(しらさぎはも)」を売り出しており、「白鷺鱧祭り」の一環として底びき網漁見学ツアー(3,000円)が実施されたのです。

 

 妻鹿漁港を出港した第1ふじなみは、南西に漁場をめざして進みます。家島諸島の先には、小豆島も見えます。

 


 底びき網漁とは、海の底に入れた網を漁船で曳いて魚を捕る漁法です。地域によっては二人以上のところもあるのですが、小型に船を使う坊勢は一人です。今の季節だと夜明けとともに操業し、人によっては日が暮れるまで操業されるそうです。

 

 捕れたタイ、カマス、アジ、ヒイカなどの魚は、こちらの船に移されます。捕れたてなので跳ねる魚も多く、こども達は大喜びです。

 

 その後、坊勢島に向かい、港に面した冷凍倉庫を見学します。千種川の水を凍らせた氷で冷凍しています。
 冷たい倉庫から外に出ると、一気にメガネが曇ります。従業員の方に聞くと、倉庫内用と屋外用の二つのメガネを用意されているそうです。

 

 坊勢港を出てからは、左に家島本島、右に男鹿島を見て北東に進みます。
 家島本島には、たくさんの家が建てられています。

 

 一方、男鹿島は採石場として栄え、主に花崗岩が切り出されています。切り出された石は、大坂城の石垣に使われ、近年では関西国際空港の埋め立てにも使われましたが、採石跡は寂しい光景です。

 


 初めて底びき網漁を見学するとともに、穏やかな瀬戸内クルーズを楽しむことができました。

2021年08月01日兵庫県:姫路市

神姫観光「犬鳴山」(大阪府泉佐野市)

 令和3年7月28日(水)、神姫観光のトレッキング・ツアー「犬鳴山(いぬなきさん、大阪府泉佐野市)に参加しました。


 犬鳴山七宝瀧寺(しっぽうりゅうじ)は、葛城(かつらぎ)修験の根本道場の一つです。
 なお、山号「犬鳴山」と同じ名前の山はなく、五本松(730m)や高城山(たかしろやま、648m)などの総称です。

 

 令和2年に葛城修験が日本遺産に認定されたことを記念して、令和3年2月に泉佐野市などで記念シンポジウムが開催されました。
 修験道で有名なのは金峯山寺などの大峯(おおみね)修験ですが、役行者が大峯修験を開く前に修行されたのが葛城修験です。同じ山の宗教ですが、大峯修験に比べて集落との関係が深いのが特徴の一つです。

 

 寺号「七宝瀧寺」が示すように、参道沿いにはたくさんの瀧があり、最初に両開ノ瀧に出会います。
 ここは行場ではないので、多くの高校生が水遊びをしていました。

 

 さらに進むと、行場である塔ノ滝です。

 

 犬鳴山の山号は義犬に由来していることから、義犬の墓もあります。


 七宝瀧寺は真言宗犬鳴派の大本山で、本尊は倶利伽羅大龍不動明王です。
 本堂(不動堂)の奥には行者の瀧があります。水垢離の行場で、鉄の鎖も掛かっています。

 

 

 元山上に向かう表参道がありますが、修験者以外は通ることができません。

 

 しばらく林道を歩けば、石積みの山道に入ります。


 山道と林道を交互に歩めば、目的地の五本松です。

 

 料金(200円)を払って展望塔に登れば、南には和歌山の山々西には関西国際空港などが見えます。

 


 帰りは来た道を戻ります。
 下山後、犬鳴山温泉不動口館で日帰り入浴(800円)しました。露天風呂の眼下には、犬鳴川が見えます。

 

 大峯修験ほど厳しくない葛城修験ですが、それでも修験道の厳しさを垣間見ることができました。

2021年07月28日トレッキング:トレッキング

神姫観光「京丹後縦断トレイル「三津漁港~浅茂川漁港」」(京都府京丹後市網野町)

 令和3年7月21日(水)、神姫観光「京丹後縦断トレイル」の第4回「三津漁港~浅茂川漁港(京丹後市網野町)」に参加しました。

 

 今回は全長10.0km・高低差50mのコースで、メインの国名勝・天然記念物「琴引浜」は全長1,8kmと広大です。

 

 

 最初の遊歩道は、砂浜から少し上にありますが、松林が続いており海浜の雰囲気です。ただ、盛夏のアブラゼミと晩夏のヒグラシの鳴き声が同時に聞こえてくるのには違和感を覚えます。

 

 少し進めば、板状節理が見られます。上下の温度が低いと板状になり、左右の温度が低いと節状になるそうです。

 

 掛津砂丘に出ると、ハマゴウなど浜辺の植物が生い茂っています。

 

 網野町出身の野球選手・野村克也さんが自身を例えていた月見草(マツヨイグサ)も咲いています。


 昼食は、松林で風に吹かれながら、地元食材を使った弁当を食べます。

 

 与謝野鉄幹・晶子の歌碑が建っていますが、黒御影石の表面が光っていて詠みにくいのが残念です。
○鉄幹「たのしみを 抑へかねたる 汝ならん 行けば音を立つ 琴引の浜 」
○晶子「松三本 この蔭に来る 喜びも 共に音となれ 琴引の浜」

 

 太鼓浜で「鳴き砂」を体験します。摺り足で歩くとキュッキュッと鳴るのですが、難しいので、表面の砂を両手で合わせて見ると鳴りました。主成分の石英は、表面がきれいで乾いていると摩擦係数が大きくなるので、力を加えると音がするそうです。

 

 次の水晶浜では、温石英の小さな結晶が光っていてきらびやかです。

 

 さらに進めば千石(ちいし)の帆掛け岩があります。岩の形が帆を掛けた千石船の形に似ているそうです。

 

 八丁浜を過ぎれば嶋児(しまこ)神社です。浦島伝説の水江浦嶋児を祀っていますが、予想外に小さい社殿です。

 

 ここから、浅茂川温泉「静の里」に行き、温泉で汗を流した後に生ビールをいただきます。

 

 晴れていて暑かったのですが、穏やかな日本海の風景を楽しむことができました。

2021年07月21日トレッキング:トレッキング

琵琶湖汽船「琵琶湖万葉クルーズ」(滋賀県長浜市ほか)

 令和3年7月17日(土)、琵琶湖汽船主催の「琵琶湖万葉クルーズ『湖北・湖東の万葉集』」に参加しました。
 講師は安土城考古博物館の元副館長・大沼芳幸氏、万葉歌の朗詠は福知幸氏です。
 大沼先生からは、万葉歌だけでなく関連する琵琶湖の歴史についても説明がありました。

 


 長浜港を出航して湖北まで行き、そこから南の大津港に向かって湖東を沿岸沿い進みます。

 先生からお許しが出たので、デッキに出てスピーカーから流れる万葉歌や説明を聞きながら、湖上の風景を楽しみます。

 
 古来、日本海沿いの福井県敦賀で陸揚げされた物資は、陸路を琵琶湖畔まで運ばれました。その一つが敦賀と塩津を結ぶ塩津街道で、塩津街道の一部「深坂古道」は、先日、別のツアーで歩きました。

 
 塩津では丸子船に積み替えられ、琵琶湖を大津に向かって運ばれました。船上から眺めると、塩津港が奥まった場所にあることがわかります。

 

 

 塩津港を出て南に進めば、右手(西)に葛籠尾崎(つづらおざき)、その先には宝厳寺や都久夫須麻(つくぶすま)神社が鎮座する竹生島(ちくぶじま)が見えます。

 


 眺める方向によって多様な景色を見せる多景島(竹島)は、周囲600mの小島で、日蓮宗見塔寺の境内です。

 

 さらに進めば、左手(東)に小谷城跡・伊吹山が見えます。
 伊吹山から眺めたのと逆の光景です。

 

 

 次に、彦根城の国宝「大天守」が見えてきます。平山城なので、湖上から眺めると良く目立ちます。

 

 さらに進めば、安土城跡が見えてきます。標高199mの安土山に、高さ32mの黄金の天主が建っていたのですから、さぞ威容を誇ったことでしょう。

 

 

 

 沖島は周囲6.8kmと琵琶湖最大の島です。300人の人が住んでおり、「湖で人が暮らす唯一の島」がキャッチフレーズです。東には、辨財天社の鳥居が見えます。

 


 琵琶湖の最も狭い部分に架かるのが長さ1,350mの琵琶湖大橋です。この橋を境に北湖と南湖に分かれますが、北湖が圧倒的に広く深いです。

 

 琵琶湖を知り尽くした大沼先生の説明を聞きながら、船上から実際の風景を眺めることにより、琵琶湖周辺に関する知識を深めることができました。

2021年07月17日歴史:中世, 古代, 近世・近代

那波野古墳(兵庫県相生市)、永富家住宅(兵庫県たつの市)ほか

 令和3年7月16日(金)午後、JR相生駅前で自転車を借りて、相生市の古墳時代の史跡と、隣接するたつの市の近世の史跡を訪問しました。走行距離は17.5kmですが、今回はパワーアシスト自転車(800円)なので楽でした。


 最初の目的地は、因念寺(いんねんじ)(たつの市揖保川町)です。門前に植えられている龍舌蘭(中南米産)が、15年ぶりに花を咲かせていると聞いたからです。
 山門より高く7mに育っており、黄色い花を付けていました。

 


 山門は、江戸時代初期に築造された龍野城の大手門を、明治初期に移築したものです。

 


 龍野城の大手門が、なぜ4kmも南に離れた因念寺に移築されたのか疑問に思ったのですが、近くにある重文「永富家住宅」を訪れて理由が分かったように思います。
 永富家は庄屋を兼ねた大地主で、龍野藩に資金を融通したり年貢米を大坂に積み出すことを請け負うなど、脇坂氏と深い繋がりを持っていました。多分、その関係でしょう。

 

 

 西に戻り、那波野古墳(なばのこふん、相生市)に行きます。古墳時代終末期の七世紀に築かれた直径25mの円墳です。播磨でも最高クラスの横穴式石室を有しています。
 しかし、石室の入口は鍵が掛かっており、隙間から覗いただけです。

 

 

 次に、近くにある塚森古墳を訪ねます。JR山陽本線の列車内から見て気になっていた古墳です。
 円墳だと思い込んでいたのですが、西側に短い前方部の痕跡があり、墳長60mの帆立貝形古墳(前方後円墳)の可能性が高いそうです。

 


 訪れた四か所の中では、越後の豪農屋敷を思わせる壮大な「永富家住宅」が最も印象に残りました。

2021年07月16日古墳:円墳, 前方後円墳歴史:古墳時代, 近世・近代兵庫県:播磨

利神城ガイドツアー(兵庫県佐用町)

 令和3年7月13日(火)、兵庫県佐用町「利神城ガイドツアー」に参加しました。


 利神城(りかんじょう)は、1349(貞和5)年、赤松一族の別所敦範(あつのり)が築城しました。その後は別所一族の居城でしたが、1578(天正6)年、山中鹿之助に攻められて落城しました。
 その後、姫路城主・池田輝政の甥である池田由之が城郭を大改修しましたが、壮大過ぎたために、輝政の命令で天守などが破却させられました。

 


 城跡の利神山は標高373.3m・比高250mで、三層の天守は雲を衝くような威容だったことから、雲突城(くもつきじょう)とも呼ばれていました。
 東西200m・南北500mと広大な城跡は、総石垣造りで、江戸時代初頭の山城の形態を良く残しています。

 

 平成29年には国史跡に指定されましたが、登山道が荒廃しているため、登ることができません。ただ、令和3年からは、佐用山城ガイド協会が実施するガイドツアーに限って登山できるようになりました。4月に2回実施されたのですが、5~6月はコロナ禍で中止になったので、今回が第3回です。そのため、参加者7名にガイドの方が5名という贅沢な人員体制でした。


 西山麓は御屋敷地区で、石垣が残っています。ここから三の丸に至るジグザグの登城道と、これに沿った竪堀がありました。

 


 この登城道は荒廃しているので、南西から尾根沿いに登ります。

 

 三の丸には石垣が残っています。

 

 三の丸の上には天守丸、左奥には本丸が見えますが、急斜面で荒廃しているので登れません。
 天守丸は不等辺五角形で、南西隅に三層天守が建っていたそうです。

 

 谷を隔てて向かいには、二の丸馬場が見えます。馬場の先には二つの大きな堀切が残っています。

 

 三の丸から奥へは行けませんでしたが、佐用山城ガイド協会の皆さんのお陰で、利神城の壮大さ味わうことができました。ありがとうございました。
 今後、整備が進んで全曲輪を見学できるようになることを期待しています。

2021年07月13日城郭:山城歴史:中世, 近世・近代兵庫県:播磨トレッキング:トレッキング

大官大寺跡(奈良県明日香村)ほか

 令和3年7月11日(日)午前、近鉄桜井駅で自転車を借り、橿原神宮前駅に向かって、大官大寺跡(だいかんだいじ、奈良県明日香村)などを探訪しました。

 

 大官大寺は、飛鳥時代に藤原京に所在した最初の官寺です。平城遷都に伴い、716(霊亀2)年に平城京に移り、大安寺(「癌封じ笹酒祭り」で有名)となりました。


 大官大寺の創建は聖徳太子が建立した熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)に遡るとの伝承がありますが、実際は、639(舒明11)年に舒明天皇が創建した百済大寺(くだらおおでら)が始まりです。
 百済大寺の所在地については、諸説がありましたが、吉備池の堤改修工事で金堂と塔の跡が発掘されたことから、吉備池廃寺跡(きびいけはいじあと)だとされています。


 伽藍配置は、東に金堂・西に塔・北に講堂があり、法隆寺と同じです。本当はこちらの方が古いのですが、法隆寺式伽藍配置と言われています。
 池の周りの草が刈ってあったので、池を一周することができました。

 


 

 百済大寺は、673(天武2)年に高市に移転して、高市大寺(たけちおおでら)になりました。
 その所在地については、(1)藤原宮東の木之本廃寺跡(きのもとはいじあと)、(2)雷丘北のギオ山西方とする二つの有力説があります。
 さらに、(1)木之本廃寺説は、大官大寺が完成前に焼失したことから、高市大寺が大官大寺の役割を果たしたとします。
 具体的な場所としては、香具山西麓に鎮座する畝尾都多本(うねおつたもと)神社の北方が想定されていますが、金堂跡や講堂跡などと想定される場所には集会所や民家が建っていて、往時を偲ぶことはできません。


 

 高市大寺は、677(天武6)年に藤原宮の南東に移転し、大官大寺となりました。発掘調査の結果、中門からめぐる回廊が金堂に取り付き、金堂の東南に九重塔、北に講堂がある伽藍配置だったことが判明しました。九重塔の基壇は一辺が35mと通常の3倍近い大きさでしたが、完成直前に焼失しました。

 

 寺跡には礎石が残っていましたが、明治時代に橿原神宮が造営された際に、抜き取って石垣に使用されてしまいました。塔跡には「史蹟 大官大寺」の石碑が建っています。

 

 金堂跡とされる場所は畑となっていて、所有者の方が農作業をされていました。“金堂跡の畑とは豪華ですね”と話したところ、笑っておられました。農作業小屋が講堂跡で、明日香村の北端だと教えてもらいました。

 


 ルートの途中にある藤原宮跡の蓮や、本薬師寺金堂跡・塔跡の立派な礎石も見ることができました。

 

 3時間ほど回っただけですが、最高気温が33度と高い日だったので、熱射病になりそうでした。

2021年07月11日奈良県:その他

毎日新聞旅行「大峰奥駆道を歩く(金峯神社→五番関)」(奈良県吉野町→奈良県天川村)

 令和3年7月7日(水)、毎日新聞旅行「大峰奥駆道を歩く(金峯神社→五番関)に参加しました。
 大峰奥駆道(おおみねおくがけみち)とは、奈良県吉野と和歌山県熊野の二大聖地を結ぶ修験の道のことです。途中にある奇岩などは神仏が降臨する場所として「靡(なびき)」「宿(しゅく)」と呼ばれる行所になっています。
 第一回目の今回は、奈良県吉野町を出発して川上村や黒滝村を経由して天川村に下る12kmのコースです。

 

 バスはJR大阪駅前を午前7時50分に出発して、吉野山の「奥千本口」に向かいます。 
 雨が降るなか、金峯(きんぷ)神社の右手を進んで山道に入ります。見晴らしの良い場所に出れば、荒れ果てて痛々しいた奥千本が目に入りますが、現在、桜再生プロジェクトが始められています。

 

 

 吉野山(大峯山と同様に複数の峰の総称)の最高峰である青根ヶ峰(858m)に登ります。吉野町宮滝からはそびえ立つ姿が見え、金峯山信仰の根底には青根ヶ峰の水分峯信仰があったと考えられています。
 しかし、山頂には木が生い茂っており、展望はありません。

 


 林道吉野大峯線に出て歩いていると、前方に四寸岩山(しすんいわやま)が見えてきます。


 左手の山道から四寸岩山に向かって、急な試み坂を登ると、試み茶屋跡や守屋茶屋跡があります。

  

さらに尾根道を進むと四寸岩山(1,236m)です。山頂からは西南に大きく展望が開けており、晴天ならこれから向かう大天井ヶ岳が見えるはずなのですが、残念ながら霧に包まれています。


 南に下ると、浸食された石灰岩の奇岩足摺石があり、その横にある足摺小屋で昼食を摂ります。小屋の中には小さな蔵王権現様が祀られています。 


 山道を下り、林道を横断してからは再び山道を登り、近世の百町茶屋跡を過ぎれば二蔵小屋です。
 二蔵小屋の横は大正以後の新百丁茶屋跡で、不動明王様を祀る祠と役行者様を祀る祠があります。

 

 ここから急坂を登れば、大天井茶屋跡です。晴天であれば四寸岩山が見えたはずです。


 さらに登れば、大天井ヶ岳(1,439m)です。やはり霧に包まれていて眺望は期待できません。

 

 山頂を下った所にある鞍部が現在の女人結界五番関で、結界門があります。

 

 女人結界門の手前を右に進み、急坂を下って林道に向かいます。


 ここから、バスで天の川温泉センターに向かいます。浴槽は高野槇で作られており露天風呂からは山々が望めます。


 生憎の雨天で眺望は楽しめませんでしたが、稜線を走る奥駆道の雰囲気を感じることができました。

2021年07月07日歴史:中世, 古代, 近世・近代奈良県:吉野郡トレッキング:トレッキング

見聞悠学之旅「倉橋みどりさんと行く 万葉集に詠まれた吉野」(奈良県吉野町)

 令和3年7月3日(土)、吉野ビジターズビューロー主催の見聞悠学之旅「倉橋みどりさんと歩く 万葉歌に詠まれた吉野」に参加しました。
 吉野町の象山(きさやま)と三船山の間には喜佐谷(きさだに)があります。万葉学者の犬養孝先生が愛された道の一つです。

 

 吉野離宮へは、持統天皇の31回をはじめ六人の天皇が行幸しており、随行した大宮人も喜佐谷を通って吉野山に登っていました。
 今回のツアーは、俳人の倉橋さんの案内で喜佐谷を歩きながら、万葉歌に詠まれた吉野を感じようとするものです。

 

 最初に、近鉄吉野駅前にある犬養先生揮毫の歌碑「淑き人の よしとよく見て」(天武天皇、巻1・27)を見ます。吉野山の玄関口にふさわしい立派な歌碑ですが、簡単な案内板しかなく気づく人が少ないのが残念です。

 

 予定では、ここからタクシーで如意輪寺まで移動して喜佐谷を下るはずでしたが、昨夜の大雨で道が荒れているので、高滝への登り口まで移動しました。この予定変更の判断は素晴らしかったです。


 喜佐谷への登り口には、上野誠先生揮毫の歌碑「皆人の 恋ふるみ吉野」(巻7・1131)が建っています。

 

 幸い、ここから高滝に向かう山道は荒れていませんでした。しかし、下から聞こえてくるのは小川のせせらぎ音ではなく轟音です。

 

 大伴旅人は「昔見し 象の小川を」(巻3・316)と詠んでおり、途中にある「高滝」を本居宣長は『菅笠日記(すががさのにき)』で《いとおもしろし》と褒めています。
 高滝を見るのは四回目ですが、こんなに水量が多いのは初めてで、まさに瀑布だと体感しました。

 

 


 昼食場所のゲストハウス「きさのせせらぎ」の前には、上野先生揮毫の歌碑「皆人の 恋ふるみ吉野」(巻7・1131)が建っています。しかし、詠まれているのは「滝の常盤(急流の大岩)」なので、ここでなく宮滝周辺にあるべき歌碑です。

 

 昼食は「中谷」の仕出し弁当で、いつものように丁寧に作ってあり旨いです。

 

 昼食後には、犬養先生が宮滝で講演されているビデオを拝見します。
 1994年頃の撮影で、吉野駅前の歌碑が建立されたのが1993年ですから、車椅子にも関わらず、毎年来られていたのでしょうか。
 ここから歩いて櫻木神社に向かいます。前を流れる象の小川も、これまでに見たことのない激流です。

 

 境内には、歌碑「み吉野の 象山の際の」(山部赤人、巻6・924)が建っています。

 

 さらに下れば、民家前に板碑「瀧の上の 三船の山に」(弓削皇子(天武天皇の第9皇子)、巻3・242)があります。

 

 象の小川が吉野川と合流する地点が「夢のわだ」です。大伴旅人が大宰帥だった時に奈良の都を偲んで詠んだ歌「我が行きは 久にはあらじ」(巻3・335)に登場します。

 

 

 中荘小学校跡には長歌の歌碑「やすみしし わご大君の」(柿本人麻呂、巻1・36)があります。この長歌には反歌「見れど飽かぬ 吉野の川の」(巻1・37)があり、向かいの河川交流センターには上野先生揮毫の歌碑があります。

 

 

 当初の予定ではここで終わりでしたが、追加で吉野歴史資料館に行きました。これも好判断です。
 上野先生揮毫の歌碑「よき人の よしとよく見て」(天武天皇、巻1・27)だけでなく、三船山・象山や青根ヶ峰などを見ることができました。

 

 天気予報では雨でしたが、雨に降られることもなく、的確な状況判断で、充実した喜佐谷ウォークを楽しめました。
 特に、倉橋さんの、柔らかでわかりやすい語り口で、萬葉集の魅力を再認識しました。もう一度、キッチリと勉強し直そうと思います。

2021年07月03日歴史:古代奈良県:吉野郡

神姫観光「京丹後縦断トレイル「立岩」」(京都府京丹後市丹後町)~三津漁港(京丹後市網野町)

 令和3年6月30日(水)、神姫観光のバスツアー「京丹後縦断トレイル」の第3回「立岩(京丹後市丹後町)~三津漁港(京丹後市網野町)」に参加しました。「京丹後縦断トレイル」とは、神姫観光と京丹後市観光公社がコラボレートしたツアーで、山陰海岸ジオパークを中心としたコースを8回に分けて歩きます。今回は、8.5km程度歩きました。

 

 

 現地に行って知ったのですが、間人(たいざ)の地名は、聖徳太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女(夫は用明天皇)に関連したものでした。伝承では、大和政権の争乱(崇峻天皇の暗殺?)を避けてこの地へ来た皇女は、手厚いもてなしのお礼に「間人」の地名を与えたが、地元の人々は「はしひと」と読むのは恐れ多いとして皇女の退座に因んで「たいざ」と読むことにしたそうです。海岸には、穴穂部間人皇女と聖徳太子(この地には来られていませんが)の像が建っています。聖徳太子信仰の広がりを感じました。

 

 最初に木製のアーチ橋「てんきてんき橋」から、立岩(たていわ)を見ます。

 

 海に聳える立岩は、高さが20mもある一枚岩です。火成岩が冷却して収縮する時にできた節理が柱状(柱状節理)になっていて、荒々しい印象です。
 今回は天気が良く、青空に映える青い海と岩を見ることができました。

 

 間人漁港まで、海沿いの道を歩きます。

 

 間人漁港で水揚げされる間人ガニは「幻のカニ」と言われています。漁獲するのは5隻1団の底曳網漁船だけで、しかも船自体が小さいので、漁獲量が少ないからだそうです。大部分は京都や大阪の料亭に運ばれるので、地元の人が食べる機会はほとんどないとのことでした。シーズンでない今は、イカ釣り船が浮かんでいます。シロイカ(ケンサキイカ)を「活けイカ」として流通させる取り組みが始まっているそうです。

 


 海岸沿いに歩いて城嶋(しろしま)に行きます。1573(天正元)年に荒川武蔵守が城を構えたことから、この名称が付けられました。小規模な石垣が残っています。海岸には、地層が盛り上がったドーム状構造」があります。

 

 

 古間(こま)港を経て、目的地の三津漁港に向かいます。


 

 ここからバスで、津茂川温泉「静の里」に移動して、入浴します。露天風呂の目の前には海が広がっており、絶景です。
 風呂上がりの生ビールは格別の味でした。 


2021年07月01日

毎日新聞旅行「八経ヶ岳と弥山」(奈良県天川村)

 令和3年6月29日(火)、毎日新聞旅行「大峰山_弥山(奈良県天川村)」に参加しました。
 日帰りで大峰山(おおみねさん)系の弥山(みせん、1,895m)と奈良県最高峰のハ経ヶ岳(はっきょうがたけ、1,915m)に登るという強行日程です。 

 
 午前7時にJR大阪駅前をバスで出発すると、午前10時に行者還林道トンネル西口に着きます。登山口は、すぐ近くです。

 

 そこから南に1時間10分ほど尾根沿いの急坂を登ると、大峯奥駈道に出ます。
 大峯奥駈道とは、8世紀の初めに役行者が開いたとされる修験者の修業の道で、奈良県吉野と和歌山県熊野を結んでいます。世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成しており、本来なら二日以上かけて歩くべき道なのですが、体力の関係で日帰りツアーに参加しました。

 


 奥駆道に出てからは、西に向かって穏やかな稜線を進みます。

 

 

 途中には、「石休みの宿跡」、「弁天の森」三角点(1,600.5m)があります。

 


 さらに西に進めば「聖宝ノ宿(しょうぼうのしゅく)跡」で、理源大師(りげんだいし)聖宝上人の坐像があります。

 

 理源大師は平安初期の真言宗の僧で、京都・醍醐寺の開祖です。近鉄奈良駅の南にある「もちいどの(餅飯殿)センター街」の名称は、大師が大峯山で大蛇退治をした伝承に由来しており、センター街には大師堂があります。

 


 ここを過ぎ、行者泣かせと言われた聖宝八丁旧道の横にある階段道を乗ると、緑の苔が覆う台地に出ます。ここに弥山小屋があります。

 


 小屋から少し北に登れば弥山山頂で、天河大辯財天社「奥宮」が祀られています。

 

 南には、これから向かうハ経ヶ岳が見えます。

 
 弥山小屋に戻り、南にハ経ヶ岳をめざします。オオヤマレンゲは、鞍部を中心にフェンスで保護された道の両側に植わっていますが、まだ咲き始めです。

 

 

 露岩帯を登れば山頂です。晴れていれば360度の大展望が楽しめるのですが、霧が出ており、南に明星ヶ岳(1,894m)、北に弥山が見える程度でした。

 

 

 

 ここからは、来た道を登山口に向かって戻ります。
 昼食時間や休憩時間も含めて8時間に及ぶトレッキングでしたが、幸い、曇天なので直射日光が少いたまえにあまり暑くなく、無事に歩き通すことができました。

2021年06月29日歴史:古代奈良県:吉野郡トレッキング:トレッキング

法隆寺播磨国鵤荘(兵庫県太子町)

 令和3年6月23日(水)、兵庫県太子町にある「法隆寺播磨国鵤荘」関連の遺跡を訪ねました。
 一週間前の6月13日(水)に奈良国立博物館で行われた講演「法隆寺播磨国鵤荘における聖徳太子信仰」(講師は田村三千夫太子町文化推進課長)を聴講したので、実地での復習です。


 講演のポイントは、①『日本書紀』は聖徳太子が推古天皇から水田百町を賜って法隆寺に寄進した旨を記載、②斑鳩寺は聖徳太子創建でなく平安時代に法隆寺が鵤荘経営の中核存在として建立③鵤荘を武士から守るために法隆寺は太子信仰を利用して聖なる空間を演出、④太子信仰は牓示石(ぼうじいし)などの形で今に残る、の四点でした。
 今回の探訪は、④太子信仰の史跡を訪ねることです。

 

 「牓示石」とは荘園の境を示す石のことで、太子が檀特山(だんとくさん、165m)から投げたとの伝承があることから、「太子の投げ石」「太子のはじき石」とも呼ばれています。
 『鵤荘絵図』(鎌倉時代)には12個所の牓示石が描かれています。現在10個所に残っているとされていますが、絵図と同じ位置にあるのは1個所だけです。

 

 今回は、牓示石であるとして兵庫県史跡に指定されている4個所のうち3個所を訪ねました。荘園の境界を示す牓示石としてだけでなく、条里制(古代の土地管理システム)との関連でも重要なものだそうです。
 最初は、檀特山の北「東出」です。町立太田(おおだ)小学校の西北と分かりやすい場所にあります。

 

 次は、檀特山の西「東南」です。ここの牓示石は石堂に納められ、大切にされています。


 最後は、檀特山の北西・斑鳩寺の北にある「鵤北山根」です。田圃に中にあり、高いところから見下ろした後、移動して遠くから眺めました。


 太子町の南東・姫路市との境にある檀特山にも登りました。山頂には十畳程度の大きな岩があり、そこから四方を見渡すことができ、南には家島も見えます。

 


 山頂にある岩の窪みには太子の愛馬「黒駒蹄跡」との伝承があります。西には、徳道(とくどう)上人が奈良・長谷寺を開基したことなどに感動して転げ落ちたとされる「感動岩」があります。

 

 

 ここから西に進めば徳道上人の生誕地で、上人堂草庵跡(檀特山浄光寺)があります。

 

 

 ここから北に進めば、法隆寺の別院だった斑鳩寺(いかるがでら)です。往古は七堂伽藍を構え、数十の坊庵が並んでいましたが、1541(天文10)年の火災により灰燼に帰してしまいました。その後、講堂・三重塔・太子御堂・仁王門などが再建されました。1565(永禄8)年に再建された重文「三重塔」が唯一現存する再建後の建物です。

 


 最後は、稗田(ひえだ)神社です。当初の祭神は聖徳太子妃・膳大娘(かしわでのおおいらつめ)でしたが、今は古事記を誦習した稗田阿礼(ひえだのあれ)を祀っています。
 なお、この神社には「上宮稗田神社」の石柱が、斑鳩寺境内には「下宮稗田神社御旅所」の石柱が建っています。

 


 今日探訪したのは歴史的根拠のある遺跡ではありませんが、伝承遺跡の魅力を再認識した一日でした。

2021年06月23日兵庫県:播磨

金剛峯寺(和歌山県高野町)

 令和3年6月21日(月)、JR西日本「夏の関西1デイパス」(3,600円)の「高野山チケット」を使い、高野山真言宗総本 山金剛峯寺(こんごうぶじ、和歌山県高野町)を参拝しました。


 主な目的は高野山霊宝館の開館100周年記念宝蔵展高野山の名宝」を見ることです。霊宝館には、国宝21件・重要文化財148件を始め5万件以上の文化財が収蔵されています。

 

 中でも最も拝見したかったのは、快慶作の重文「孔雀明王像」です。展示室に入ると、奥で光り輝いておられるのが目に飛び込んできます。孔雀明王は仏画が多いのですが、立体像としての効果が十二分に発揮されています。快慶の高度で緻密な技量が冴えわたっているからでしょう。

 

 この展示室は快慶が中心で、孔雀明王像の向かって左には「執金剛神(しゅこんごうじん)立像」と「深沙大将(じんじゃだいしょう)立像」が、向かって右には「四天王立像」がおられます。いずれも重文ですが、孔雀明王と違って豊かな量感のたくましい造形で、その対比が興味深いです。
 国宝ではないので、素のまま拝見できます。
 この展示室だけでも、霊宝館に来る意味があったと感じました。

 

 次の展示室は、運慶が中心です。
 重文「不動明王座像」の眷属(けんぞく、従者)「八大童子」のうちで、運慶が率いる慶派仏師による六体(矜羯羅(こんがら)・制多迦(せいたか)の二童子+恵光・恵喜・烏倶婆誐・清浄比丘)が国宝です。六体全てが圧倒的な存在感も持っていますが、特に制多迦童子が印象に残りました。
 ただ、大きさに違いがあるだけでなく、ガラスケースに収められていることも影響しているのでしょうか、快慶の像と比べると、迫力に劣りました

 

 ほかにも、弘法大師ゆかりの三大秘宝、①24歳の時に書いた重文『聾瞽指帰(ろうこしいき)』(後に改訂して『三教指帰(さんごうしいき)』)、②唐から投げたと伝わる重文「金銅三鈷杵(さんこしょ)」(飛行(ひぎょう)三鈷杵)、③唐から請来したと伝わる国宝「諸尊仏龕(ぶつがん)」(木造)も展示されています。

 

 せっかく高野山まで来たので、霊宝館を拝見する前に、一の橋から奥之院参道を歩きました。両側に多くの五輪塔が並んでいます。
 徳川秀忠の妻・崇源院(すうげんいん、お江)の五輪塔が6.6mと一番大きいので一番石と呼ばれています。

 

 豊臣家の墓所も立派です。


 御廟橋を渡り燈籠堂や奥の大師御廟にお参りしました。御廟橋の先は霊域なので、写真撮影禁止です。

 

 霊宝館を拝観した後は、高野山真言宗の総本山「金剛峯寺」に参拝します。
 正門は1593(永禄2)年の再建で、金剛峯寺では最古の建物です。

 

 その後、曼荼羅世界の中核をなす壇上伽藍に行きます。大日如来を本尊として四仏を安置する根本大塔(こんぽんだいとう)、高村高雲の再刻による絶対秘仏「薬師如来」などを安置する金堂、守護神を祀る御社(おんやしろ)などへ参拝しました。
 ただ、霊宝館と奥之院で力を使い果たしていたので、外から拝見するだけです。

 


 最後に、西の総門「大門(だいもん)」まで歩き、そこからバスに乗って帰途につきました。

 

 いろいろと高野山上を歩き回りましたが、やはり当初からの仏像などを収蔵している霊宝館が一番だと感じました。
 もし、これらの霊宝が東京国立博物館で効果的に展示されれば、さぞや大きな反響を呼ぶことでしょう。

2021年06月21日

文全協「百舌鳥古墳群を歩く」

 令和3年6月19日(土)、文化財保存全国協議会(文全協)主催の遺跡見学会「百舌鳥古墳群を歩く」に参加しました。講師は、文全協常任理事で『百舌鳥古墳群を歩く』などの著作がある久世仁士(くぜ・ひとし)氏です。また、代表委員で滋賀県立大学名誉教授の小笠原好彦先生も特別参加しておられました。

 

 

 「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」は大阪府堺市・藤井寺市・羽曳野市にまたがる五世紀の巨大古墳群で、残されている90基の古墳のうち49基が2019(令和元)年に世界文化遺産に登録されました。
 佐紀盾列古墳群(奈良市)の後、河内・和泉地域では、百舌鳥古墳群と古市古墳群で交互に大王墓が築かれました。百舌鳥古墳群では大山古墳(仁徳天皇陵)に行った程度ないので、今回の見学会に参加しました。


 「御廟表塚(ごびょうおもてづか)古墳」は帆立貝型の前方後円墳ですが、西側の前方部は削平されており、墳丘長は84.8mと推定されています。戦国時代の武将・筒井順慶の子孫の所有で、堺市が無償で借り上げて公開しています。

 

 「定の山(じょうのやま)古墳」は墳丘長69mの前方後円墳で公園となっており、墳頂からは、自動車の看板越しにニサンザイ古墳が望めます。

 


 「ニサンザイ古墳」は墳丘長290mと全国第八位の前方後円墳で、大王権力が最高位に達した時に作られました。西向きの前方部北から眺める南東の姿は美しいです。


 「百舌鳥八幡宮」の東・光明院の境内に「鎮守山塚古墳」があります。墳丘の西半分は道路建設のために削平されていますが、直径34m・二段築成の円墳と推定されています。


 「御廟山古墳」は墳丘長203mと百舌鳥古墳群で第四位の前方後円墳で、墳丘部分は陵墓参考地に指定されています。ニサンザイ古墳ほど美しくはありません。


 「いたすけ古墳」は墳丘長146mと百舌鳥古墳群で第八位の前方後円墳で、文化財保護のシンボルとして有名です。1955(昭和30)年9月、土砂運搬用の架橋工事が行われ、11月には住宅用地として造成される予定になっていました。それを見た若い考古学研究者が保存運動に立ち上がり全市民的な運動を展開した結果、1956(昭和31)年3月に文化財保護委員会が史跡指定を決定し、堺市が史跡公園化の計画を出しました。南側くびれ部周辺には橋の残骸が残り、文化財保存運動の「原爆ドーム」だと言われています。

 

堺市により多くの樹木が伐採されており、墳丘の形がハッキリとわかります。ありがたいことです。

 

 午後2時前に、JR百舌鳥駅前の「長塚古墳」で解散しました。
 雨天のためか、参加者が十数人と少なく、スタッフとして堺市で発掘に携わった方もおられたので、詳しくお話を伺うことができました。
 久世先生・小笠原先生を始め、お世話いただいた文全協の皆さま、ありがとうございました。

2021年06月19日古墳:その他, 円墳, 前方後円墳歴史:古墳時代

奈良国立博物館「法隆寺播磨国鵤荘における聖徳太子信仰」

 令和3年6月16日(水)午後、奈良国立博物館で行われた特別講演会「法隆寺領播磨国鵤荘における聖徳太子信仰」を受講しました。
 講師は、兵庫県太子町文化推進課長の田村三千夫氏です。


 太子町は、私が住む姫路市に隣接しており、1951(昭和26)年4月、斑鳩町・石海村・太田村が合併して発足した人口3万5千人弱の町です。
 斑鳩寺(いかるがでら)は、現在は天台宗に属していますが、伝承では、604(推古12)年、飛鳥の豊浦宮(とゆらのみや)で聖徳太子は推古天皇に勝鬘経(しょうまんぎょう)を講じたところ大いに喜んだ天皇播磨国揖保郡の水田百町を太子に与えた太子はこの地を「鵤荘(いかるがのしょう)」と名付けて伽藍を建てたのが斑鳩寺の始め、とされています。


 この伝承を背景として、太子町における太子信仰を考えるのが講演会の内容です。
(1)法隆寺領播磨国鵤荘の誕生 
  『日本書紀』は、聖徳太子が水田百町を賜って法隆寺に寄進したと記載。
  飛鳥から鵤まで三泊四日の行程だったが、当時の鵤は①渡来人が住んでいて仏教など先進文化の地山陽道や瀬戸内海航路など交通の要衝と豊かな地だった。
  聖徳太子や斑鳩寺に関する古代の史料はない。
(2)中世の鵤庄と聖徳太子の信仰
  法隆寺は、鵤荘を武士から守るために太子信仰を利用して聖なる空間を演出
   斑鳩寺が初めて史料に登場するのは、11世紀の様子が描かれた『播磨国鵤庄絵図』(14世紀)で、同時期に成立した『峯相記(みねあいき)』は①水田三百町を賜った、②斑鳩寺と名付けたと記載。
  今に残る太子信仰は、①太子が檀特山(だんとくさん)から投げた石が鵤荘の境界を示す牓示石(ぼうじいし)、②檀特山頂には愛馬「黒駒」の蹄跡

 

 

 

 

 

  地域の豪族が太子信仰を持っていたので、守護の赤松氏も太子信仰を受け入れて支配に活用
  鵤荘がなくなった後も太子信仰により地域が安定。

(3)近世以降の鵤荘周辺の聖徳太子信仰
  斑鳩寺を聖徳太子ゆかりの寺と位置づけ。毎年2月22日(太子の祥月命日)~23日に縁日法要として太子春会式を、毎年8月21日~22日に施餓鬼法要として太子夏会式を開催。

  寺近くにある稗田(ひえだ)神社の祭神は聖徳太子妃・膳大娘(かしわでのおおいらつめ)。→ 現在は稗田阿礼。

 

  伝統芸能「お幡入れ・法伝哉(ほうでんや)」は、太子が物部守屋を討伐し凱旋する様子を伝えるもの。


  重文「三重塔」は16世紀に龍野城主・赤松政秀らの寄進を得て再建したもので残っている建物の内では最古。  


 近くに住んでいながら、斑鳩寺へ参拝したのは数十年前、檀特山には登ったことがなく、聖徳太子の投げ石「牓示石」は初めて耳にしたと言う状態です。
 この講演をきっかけに、近いうちにガイドマップを片手に訪問したいと思います。

2021年06月16日兵庫県:播磨

奈良国立博物館「達磨寺に息づく聖徳太子」

 令和3年6月16日(水)午前、奈良国立博物館で行われた奈良県特別講演会「達磨寺に息づく聖徳太子」を受講しました。


 講師は、奈良県王寺町文化資源活用係長の岡島永昌氏です。最近は、聖徳太子の愛犬「雪丸(ゆきまる)」を使って積極的に情報発信されています。


 片岡山 達磨寺(だるまじ)は、王寺町片岡に位置する臨済宗南禅寺派のお寺で、本尊は聖徳太子像と達磨大師像です。
 境内には、江戸時代に作られた雪丸の石像があります。雪丸は王寺町の「観光・広報大使」を務めており、JR王寺駅から達磨寺に向かう歩道「雪丸ロード」に足跡を付けて道案内をしています。

 


 達磨寺には、次の片岡尸解(しかい)仙説話(片岡飢人伝説)があります。
613(推古21)年12月、聖徳太子が、道に伏せっていた飢人を見つけて食料や衣類を与えたが、亡くなってしまった。
手厚く葬ったが、後で確認すると遺体が消え、棺の上には衣類だけが残っていた。
この飢人が達磨大師の化身であり、墳(達磨寺3号墳)の上に達磨寺が作られた。


 まず、この飢人伝説を題材として、達磨寺と聖徳太子に関して述べられます。
(1) 八世紀の『日本書紀』に書かれているのは①②で、達磨大師は登場しない。
(2) 十世紀の『聖徳太子伝暦』で、③達磨大師が初めて登場する。

 飢人伝説と達磨大師が結び付いた理由は、(ア)唐大和尚(鑑真)東征伝』で達磨大師が予言した慧思(えし)の生まれ変わりが聖徳太子、(イ)景徳伝灯録』で没後の達磨大師が草履の片方しか持っていなかったので墳を調べるともう片方が残っていたと書かれていること。
(3) 中世の當麻古道(太子葬送の道)は達磨寺の東を走っており、『片岡山御廟記』によると十二世紀には達磨大師の墓と認識されていた。
(4)太子伝玉林抄』によると、十二世紀に勝月上人が 墳の上に塔を建てて聖徳太子と達磨大師の二像を祀った。

 

 

 次に、雪丸について述べられます。
(1)達磨寺略記』では、雪丸に関して①聖徳太子の愛犬、②人間の言葉を話した、③達磨墳の丑寅(北東)に埋葬するよう遺言した、と書かれている(達磨寺1号墳)


(2)太子伝撰集抄別要』で、聖徳太子の愛犬「白雪丸」は法隆寺の北東に葬られたと書かれており(今も大和郡山市金魚池に犬塚が残る。)、これを換骨奪胎して雪丸伝説が生まれた可能性がある。
(3) 江戸時代の 『大和名所図会』には雪丸像が描かれている。


 達磨寺の飢人伝説や雪丸伝承に関して、豊富な史料や画像に基づき分かりやすく説明いただき、達磨寺に関する理解を深めることができました。

2021年06月16日古墳:円墳奈良県:その他

お坊さんの案内で巡る西大寺のみ仏たち(奈良市)

 令和3年6月13日(日)午後、真言律宗大本山 西大寺(奈良市)に行き、「お坊さんの案内で巡る西大寺のみ仏たち」に参加しました。案内いただくのは、午前中に拝観した般若寺の住職・工藤良任師です。


 西大寺は、奈良時代後半、称徳天皇(孝謙天皇が重祚)の勅願により創建されました。父の聖武天皇が東大寺を創建したことに対応するものです。
 南都七大寺の一つとして48haの敷地の中に、二つの金堂・東西両塔など壮麗な大伽藍を構えていました。
 平安遷都に伴って荒廃しましたが、鎌倉時代、興正菩薩叡尊上人が真言律宗の根本道場として再興しました。1haの寺域には、本堂・愛染堂・四王堂などの堂舎が立ち並びますが、いずれも江戸時代中期以降の再興です。

 
 最初に、本堂で真言称名などを唱えます。
 その後、工藤師から、(1)西大寺の概要、(2)本堂におられる本尊の重文「釈迦如来立像」(叡尊一門の釈迦信仰の根本像)・東脇壇におられる丈六「弥勒菩薩像」・西脇壇におられる重文「文殊菩薩騎獅像ならびに四侍者像」(獅子に乗る文殊菩薩を中心に、左前に善財童子、右前に獅子の手綱を執る優塡王(うてんのう)、左後に仏陀波利(ぶっだばり)三蔵、右後に最勝老人を従える、いわゆる中国の五台山の文殊信仰に基づく文殊五尊像)の説明があります。

 


 

 

 これらの仏様に参拝した後、参拝特典として、普段は立ち入り禁止の東塔跡の基壇に登ります。
 かつて、西大寺には東西に四角五重塔がありました。1956(昭和31)年の発掘調査で八角形に掘込地業が施されていることが判明して、当初は八角七重塔が計画されていたことがわかりました。現在は、基壇の周りを板石で囲んで八角形を示しています。


 基壇上には17の礎石全てが残されています。心礎は大きな石で、内陣を囲む礎石には出枘(でほぞ)が加工されています。
 工藤師によると、心礎の下は発掘調査をしておらず、国宝級の遺物が残されている可能性もあるそうです。

 


 東塔跡を見学した後は自由拝観です。
 愛染堂には、本尊の重文「愛染明王坐像」がおられますが、秘仏なので今の時期は模造の御前立ちです。
 西の間には国宝「興正菩薩寿像」がおられるのですが、係の人に尋ねると、気づいて参拝する人は少ないとのことです。もったいないことです。

 

 

 

 愛染堂の裏の蓮園にはほとんど花が咲いていませんが、ここが西塔跡です。

 
 四王堂には、客仏本尊の重文「十一面観音立像」と重文「四天王像ならびに邪鬼」がおられます。
 称徳天皇により金堂製四天王像が造立されましたが、たびたびの罹災で損傷しており、現在の像は室町時代の補作です。ただ、踏みつけられている邪鬼は、ほぼ創建時のままなので、須弥壇から見えるようになっています。
 このように踏みつけられていた邪鬼だけが残っている状況は皮肉で、會津八一は《まがつみは いまのうつつに ありこせど ふみしほとけの ゆくへしらずも》と詠んでいます。ぜひ、西大寺に奈良県で第22番目となる八一の歌碑を建立して欲しいものです。

 

 

 

2021年06月13日奈良県:奈良市

般若寺、薬師寺(奈良市)

 令和3年6月13日(日)午前、法性山 般若寺(奈良市)に参拝しました。
 735(天平7)年、聖武天皇が平城京の鬼門(北東)を守るため、『大般若経』を基壇に収めた卒塔婆を建てたのが寺名の起こりとされています。
 学問寺として栄えていましたが、平安時代後期に平重盛の南都焼打により建物が灰塵に帰しました。
 しかし、鎌倉時代に、興正菩薩叡尊上人が再興し、その時の西門が国宝「楼門」として残っています。以前は扉が開いていましたが、老朽化が激しいからか、今は閉じられています。

 

 

 鎌倉時代後期には南朝側に与したので、後醍醐天皇の勅願により、本尊の重文「八字文殊菩薩像」が作られました。

 

 また、笠置城が落城した際、後醍醐天皇の皇子・護良親王が般若寺に逃げ込んで身を隠したと伝えられています。こうしたことから、供養塔が建てられています。

 

 鎌倉時代の遺物としては、重文「十三重石宝塔」「笠塔婆」「一切経蔵」があります。

 

 

 

 近年は「コスモス寺」としても有名で、今は、初夏咲きコスモスだけでなくヤマアジサイも見頃を迎えています。
 小雨がそぼ降っているにも関わらず、たくさんの人がいました。午後、コスモスを植えることを発案された工藤良仁師とお会いしたので話したところ、土曜日にテレビとラジオで報じられたので多くの人が来て大変だ、と言っておられました。

 

 

 般若寺の横を走る「奈良坂」には「夕日地蔵」が建っており、會津八一は《ならざかの いしほとけの おとがひに こさめながるる はるはきにけり》と詠んでいます。歌碑が般若寺にあり、ちゃんと周囲の草が刈られていました。

 

 

 

 その後、法相宗大本山 薬師寺に行きました。
 国宝「東塔」は2009(平成21)年7月から全面的な解体大修理事業が行われ、2020(令和2)年に落慶しました。コロナ禍により落慶法要は行われていませんが、2021(令和3)年3月から初層東面の特別開扉が行われているのです。立派な心礎でした。

 

 1300年間、塔の上にあった水煙は、その役目を終えて地上へ降ろされて、再建された西僧坊で公開されています。
 この水煙を會津八一は《すゐえんの あまつをとめが ころもでの ひまにもすめる あきのそらかな》と詠んでおり、その24体(3体×4面)の飛天も拝見することができました。

 

 

 再建された西塔の北側には、この歌を彫った石碑があります。

 

 かつて東塔の北にあった佐佐木信綱の歌碑は、工事に際して西塔の北に移されて八一の歌碑と並んでいますが、今後どうなるのか気になります。

 


 この後、歩いて垂仁天皇陵を経て西大寺へ向かう予定でしたが、時間がなくなってしまい、西ノ京駅から近鉄に乗りました。

2021年06月13日奈良県:奈良市

辻井廃寺跡(姫路市)

 辻井廃寺跡(姫路市辻井)は、姫路城の西北西2kmの場所にあります。北側を辻井バイパスが走っており、その築造工事に先立って1982(昭和57)年から発掘調査が行われました。


 発掘調査の結果、寺域は南北200m・東西120~200mと想定されています。塔跡の心礎は元位置を保っていましたが、基壇の痕跡は見つかりませんでした。
 この塔心礎は、小冊子『姫路の古代寺院をたずねて』の表紙写真となっています。
 出土した瓦が川原寺(奈良県明日香村)式系列であることから、創建は7世紀末~8世紀初頭と考えられています。


 塔心礎の石材は流紋岩質凝灰岩で中央に二段彫りの枘穴があります。V字溝は心礎の解体を図ったと思われる矢穴痕ですが、付けられた時期は不明です。


 また、塔跡の北東では礎石建物跡が見つかり、講堂跡と考えられています。講堂跡の北と西には、僧坊跡と考えられる建物跡が確認されましたが、今は、辻井バイパス沿いに石柱が建っているだけです。
 出土した礎石は、名古山霊苑の一角に置かれています。

 


 

 塔跡の東には土壇が存在していたことから、ここが金堂跡で、法隆寺式伽藍配置である可能性が高いと考えられています。ただし、発掘調査の結果では金堂基壇の痕跡は見つかっていません。

 

 塔跡と金堂跡と覚しき場所は田圃でしたが、宅地化が進んでいることから、どうなるのか危惧していました。

 

 そうした中、2020(令和2)年12月に現地に行ってみたところ、宅地開発事業が計画されていました。

 

 2021(令和3)年3月には宅地造開発事業が進んでいたので、姫路市文化財課に尋ねたところ、事業者の協力で現地保存して、姫路市が保護顕彰するとの返事がありました。

 

 2021(令和3)年5月に現地を確認したところ、塔心礎がある一角は区切られていました。 周囲に住宅が建てば、一方向からしか見ることができなくなりますが、現地での保存は喜ばしいことです。

 

 一方、見野廃寺跡(姫路市四郷町)の塔心礎は、個人の別邸(現在は姫路文学館「望景邸」、姫路市山野井町)に移されたうえ、枘穴を大きく削って手水鉢として使われているのですから、残念なことです。

 

 

2021年06月10日兵庫県:姫路市

鶴林寺(兵庫県加古川市)

 令和3年6月8日(火)、加古川市の刀田山 鶴林寺(とたさん かくりんじ)へ行きました。6月2日(水)に行ったばかりですが、その時には咲き始めだった菩提樹の花が満開だと聞いたからです。
 お寺のリーフレットは《聖徳太子御創立》と明記し、(1)「刀田山四天王寺聖霊院」と名付けられたのが寺の始まりで、(2)1112(天永3)年に鳥羽天皇から「鶴林寺」の勅額を与えられて寺号を改めた、と説明しています。しかし、安時代前期を遡って寺の存在を裏付ける資料はなく、江戸時代に書かれた『鶴林寺縁起』は後世の太子信仰に基づいたものであると考えられています。 


 現在は天台宗に属しており、国宝「本堂」には本尊の秘仏「薬師三尊像」がおられます。
 本堂の向かって左に菩提樹が、右に沙羅双樹が植えられています。

 

 

 菩提樹は、釈尊がその下で悟りを開いたと伝えられる落葉高木です。本来はインド産ですが日本では育たないため、古来、中国産の木が植えられています。6月に淡黄色の小花を下向きに付けます。先週は咲き始めでしたが、一気に開花していました。

 

 

 本堂の横には国宝「太子堂」(赤外線で発見された壁画で有名)があり、その近くに植えられている大きな菩提樹も満開です。

 

 また、沙羅双樹も咲き始めています。本来は釈尊が涅槃に入った臥床の四方に二本ずつ(双樹)あったと伝えられるインド原産の常緑高木のことです。しかし、日本にはなかったために、落葉高木の夏椿を沙羅双樹と呼んでおり、6月頃に花を付けるのですが、平開せずすぐに散ってしまいます。
 『平家物語』の冒頭で《沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。》と書かれている沙羅双樹も夏椿のことです。先週は蕾でしたが、ちらほら開花していました。

 


 自由な身なので盛りの花を見ることができ、その幸せを実感した一日でした。

2021年06月08日兵庫県:播磨

いぶし清明塚宝篋印塔、道満塚宝篋印塔(兵庫県佐用町)

 令和3年6月7日(月)、兵庫県西端にある佐用町(さようちょう)へ行き、いぶし清明塚宝篋印塔(ほうきょういんとう、石で造られた仏塔の一種)と道満塚宝篋印塔を拝見しました。公共交通機関でのアクセスは困難ですが、今日は家内が運転する自動車なので自宅から一時間余りと楽ちんです。

 

 佐用町江川地区は「陰陽師(おんみょうじ)の里」と称しており、安倍晴明(あべのせいめい)と蘆屋道満(あしやどうまん)の宝篋印塔があります。

 

 二つの宝篋印塔は直線距離で数百メートルの近さにありますが、互いに見通すことはできません


 陰陽師とは、本来は古代律令制において中務(なかつかさ)省陰陽師寮に属して公的占術を任務とした技能官僚のことですが、後には民間の陰陽師も含められました。
 安倍晴明は平安中期の代表的陰陽師で、摂関家を始め貴族の間で重用されました。京都市上京区にある清明神社は邸宅跡とされています。
 一方、播磨国は、古代から朝廷に仕えていない民間陰陽師の一大拠点でした。しかし、竹田出雲が浄瑠璃『蘆屋道満大内鑑(おおうちかがみ)』で、法術比べで安倍晴明に負けた蘆屋道満は出身地の佐用に流されて死んだと書いたことにより、播磨国でも評判が悪くなりました。その結果、他の地域と同様、この地にも清明伝説が残り清明塚と称されるようになったと考えられます。
 甲大木谷にある いぶし清明塚宝篋印塔は、花崗岩製・高さ120.4cmでほぼ完全な形で残っています。様式や手法から、室町時代前期に造られたと推定されています。

 

 笠は六段式で、塔身には金剛界四仏の種子(しゅじ、梵字)が彫られています。


 西には、棚田の風景が広がります。


 南西に移動して乙大木谷に行けば、道満塚宝篋印塔があります。この地と蘆屋道満の関係についても、南北朝時代に書かれた『峰相(みねあい)記』に書かれているだけで、歴史的確証はありません。
 塔の基礎には「清明塚」と彫られ、造立銘には寛政9(1797)年と彫られています。

 


 南西には、日本棚田百選に選ばれた乙大木谷の棚田が広がります。


 なぜ、佐用町の大木谷に清明と道満の宝篋印塔があるのかと言う根本的な疑問は解決できませんでしたが、気になっていた宝篋印塔を見ることができた一日でした。

2021年06月07日歴史:中世兵庫県:播磨

やまとびとツアーズ「仏師と行く!“城下町”大和郡山のかくれ仏を訪ねて」(奈良県大和郡山市)

 令和3年6月5日(土)午後、やまとびとツアーズ「仏師と行く!“城下町”大和郡山のかくれ仏を訪ねてに参加しました。仏師・折上稔史さん(奈良県平群町)の案内で、あまり知られていない仏像を拝見すると言うマニアックなツアーです。確かに、訪問した三寺院とも『奈良まほろばソムリエ検定公式ガイドブック』や『奈良百寺巡礼』(奈良まほろばソムリエの会)に掲載されていない「隠れ寺」です。さらに、三寺とも浄土宗知恩院派で本尊は阿弥陀如来(三尊)様なので、造形の違いを比較することができました。

 

 

 

 最初に訪問するのは、浄慶寺です。奈良市に創建されましたが、1637(寛永14)年に現在地に移転しました。本尊の重文「阿弥陀如来坐像」は平安中期の一木造り(両脚部は別材)で、肉厚で温和な顔をされています。寺伝では、1820年代(文政年間)に當麻寺から迎えられたとされています。
 若いご住職によると、これまでは檀家さんしか拝見できなかったが、重文であることから公開を考えていたところ、やまとびとツアーズの岡下さんから連絡があり、拝観できることになったそうです。

 

 門前にある木造三階建町屋物語館」は遊郭だった建物です。

 

 次は、洞泉寺(とうせんじ)です。このお寺も愛知県豊田市に創建されましたが、1585(天正13)年に現在地に移転しました。本尊の重文「阿弥陀三尊像」は鎌倉時代の寄木造りです。
 折上さんによると、仏師から見た寄木造りの利点は、(1)木が小さくても良い、(2)分業できる、(3)内剥りがしやすい、の三点です。快慶作との言い伝えがある点に関しては、仏師の目では快慶作でほぼ間違いないとのことです。なお、快慶の仏像は調和のとれた仏像様式「安阿弥様(あんなみよう)」なので、仏師にとって参考になるそうです。
 横から拝見すると、阿弥陀如来様は前傾姿勢、脇侍の観音菩薩様と勢至菩薩様は腰を屈めたうえで上半身を前傾されています。 

 

 本尊の向かって左には、小さな五劫思惟阿弥陀如来坐像がおられます。気の遠くなるほど長時間考え続けた結果、螺髪がアフロヘアーのようになっています。

 

 中庭には、光明皇后の願により造られたと伝えられる金黒石の垢かき浴槽があります。


 洞泉寺に隣接して源九郎稲荷神社が鎮座しています。「源九郎」の名は、源義経が吉野に落ちのびた時、白狐が側室の静御前を送り届けたことへの謝意として与えられたと伝えられています。元々は洞泉寺の鎮守社だったのかもしれません。

 

 最後は、實相寺です。慶長年間(1596年~1615年)の創建です。本尊の「阿弥陀三尊像」は鎌倉時代初期に造られたものですが、洞泉寺の三尊像に比べると少し迫力に欠けます。
 折上さんによると、(1)奥行きが薄い、(2)衣の彫りが浅い、(3)ほんわかとした雰囲気の点で、仏像が量産された平安時代後期の特徴を備えているそうです。
 本堂内陣の扁額は、柳沢吉里の四男・信鴻(のぶとき)の筆によるもので、木彫の天狗像もあります。


 せっかくの機会なので、折上さんにいろいろと質問して、実作者ならではの考えを聞きました。
(1)一番難しいのは筋肉が露出している金剛力士像。デフォルメするにしても基本の筋肉の形を知っておかなければならないので、解剖学の知識が必要。昔の仏師は筋骨隆々とした人にモデルになってもらったのではないか。
(2) 江戸時代の仏像は部材の下処理をキチンとしていないので、古い時代のものより劣化しやすい。修理も釘を打つなどとんでもないものがある。その点、同じ江戸時代でも寶山寺(ほうざんじ、奈良県生駒市)を中興開山した湛海(たんかい)律師が彫った仏像は優れている

 これまで参加した仏像拝観ツアーは講師が研究者でしたが、今回は実作者としての視点による解説が新鮮で、多面的な考察の必要性を実感しました。

2021年06月05日歴史:中世, 古代奈良県:その他

郡山城跡(奈良県大和郡山市)

 令和3年6月5日(土)午前、大和郡山市「郡山城跡」へ行きました。整備工事を見学したのが平成28年1月ですから、五年半ぶりになります。


 初代の城主は筒井順慶ですが、豊臣秀吉の弟・秀長が百万石で入城したことにより大規模な城郭に改築されました。南北に長い西ノ京丘陵の南端部分に城郭主要部分を置いて、守りを固めています。また、内部は内濠で巧みに区画されています。
 大天守を始めとする建物は、残念ながら、1873(明治6)年、競売にかけられ解体されました。
 北東にある追手門から城内に入ります。ここは城郭中枢部への正面玄関で、建物が復元されています。

 

 追手門を入って北の玄武郭には、旧奈良県立図書館(1908(明治41年))が移設されています。

 

 西に進んだ毘沙門郭からは、内濠の向こうに本丸が見えます。

 

 毘沙門郭から橋を渡って本丸に行くのが正式の登城ルートでしたが、明治初期に橋が失われました。しかし、2021(令和3)年3月に極楽橋が再建されました。伝統工法で再現された木橋で、往時を偲ばせます。


 本丸の北端には天守台、南には小天守台があります。天守台展望施設からは、北には薬師寺や平城宮跡東には東大寺や興福寺を見ることができます。

 


 


 さらに、発掘調査で出土した天守礎石の実物も見ることができます。

 

 城跡の整備と言うと天守など建物の復元が思い浮かびますが、いい加減なものもあるようです。こうやって石垣や眺望の魅力を前面に出すのも一つの方法だと感じました。
 午後から仏像拝観に行く三つのお寺は近接しており、実質的には寺町です。また、外濠跡が遊歩道として整備されています。次回は、城下町散策を楽しみたいと思います。  

2021年06月05日城郭:織豊系山城歴史:中世奈良県:その他

鶴林寺(兵庫県加古川市)、工楽松右衛門旧宅(兵庫県高砂市)、五色塚古墳・須磨山上遊園(神戸市)

 令和3年6月2日(水)、山陽電車「三宮・姫路1dayチケット」(1,590円)使い、近隣を散策しました。
 最初は、尾上の松駅まで行き、そこから国鉄高砂線跡を歩いて「刀田山鶴林寺(とたさんかくりんじ)」(加古川市)に向かいます。

 5月9日(日)に秘仏「韋駄天」(室町時代)を拝観したばかりですが、今日の目的は本堂の左に植えられている菩提樹の花を見るためです。この木の下で釈迦が座禅を組んでいる時に悟りを開いたと伝えられ仏教に因縁のある木です。残念ながら咲始めでしたが、お寺の方に聞くと、咲き始めると一気に満開になるとのことでした。

 


 次に高砂市に移動して国鉄高砂線跡を南西に歩きます。以前、山陽高砂駅の前までは歩いたことがあるのですが、その先が未踏だったのです。
 線路跡が歩道として整備されているので、迷うことはありません。三叉路には、モニュメントとして転轍機や腕木信号機が置かれています。

 

 さらに進むと高砂駅跡で、モニュメントとして車輪が置かれています。


 近くには現役の銭湯「梅ケ枝湯」があります。表は普通のモルタル建築ですが、裏に回ると煉瓦造りの煙突などがあり「ハウルの動く城」のようです。

 


 東に進んで工楽松右衛門(くらくまつえもん)旧宅へ向かいます。松右衛門は江戸時代に海運業や港湾改修などを行った事業家です。また、丈夫で耐久性のある「松右衛門帆」を発明し、先に訪問した丸子船の館(滋賀県長浜市)でも展示されていました。

 

 

 

 旧宅の南は、火事から家を守る意味合いからでしょうか、廃船の船板を用いた舟板塀となっています。

 

 なお、建物と土地は2016(平成28)年、高砂市に寄贈され、1年4ヵ月をかけて全面改修工事が行われました。崩れそうな建物が、よくぞここまで復元されたものだと感心します。

 

 

 次に、五色塚古墳(神戸市垂水区)に向かいます。全長194mの前方後円墳で、兵庫県内では最大の大きさです。四世紀後半の築造なので後円部が高くなっており、被葬者は淡路海峡周辺を支配した豪族だと考えられています。

 
 ここも5月9日(日)に来たのですが、黄砂の影響で景色が楽しめなかったので、リベンジです。今回は、南に友ヶ島(和歌山市)などの紀淡海峡が、東にこれから行く旗振山が見えました。

 


 須磨浦公園駅からロープウェイに乗ったところ、乗客は私一人でした。
 山上の展望台からは、西南には五色塚古墳淡路島・明石海峡大橋が見えます。

 


 少し歩いて、堂島米会所の相場を西国に知らせる旗振り通信の中継地だった旗振山(252.6m)に向かいます。三角点は標石の四分の一程度が地表に出ているのが通例ですが、旗振茶屋の敷地内だからでしょうか、地中にあり周囲がコンクリートで固められていました。神戸空港の向こうには大阪コスモスクエアも見えました。さらに南には関西国際空港も見えたのですが、写真にはうまく写せませんでした。

 


 この後、神戸三宮に出て神戸市立博物館「東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展」を観覧する予定でしたが、好天の下で歩き回ったため、ここで力尽きました。

2021年06月02日古墳:前方後円墳兵庫県:その他, 播磨

かぎろひ歴史探訪「平城京、京北条里を歩く」(奈良県奈良市)

 令和3年5月31日(月)、かぎろひ歴史探訪「平城京、京北条里を歩く」に参加しました。前回の参加が令和2年3月なので、一年以上振りの参加です。

 

 近鉄京都線「高の原駅」に集合し、奈良県と京都府を隔てる奈良山丘陵に沿って西に移動して「石のカラト古墳」に行きます。
 標高112mの丘陵傾斜地に作られた上円下方墳で、上円は直径9.2m・下方は一辺13.7mです。高松塚古墳と同様に凝灰岩切石を組み合わせた「組合せ式棺室(石槨)」を持っていたことから、「カラト(唐櫃、脚の付いた櫃)」古墳と呼ばれています。残念ながら埋め戻されているので棺室を見ることはできません

 

 奈良山丘陵に沿って奈良山瓦窯(がよう)群が連なります。これは、粘土・砂・槙が豊富にあり瓦を焼くのに適していたからです。
 窯は、西側斜面に並列して六基、丘陵裾に離れて一基ありました。平城遷都後の八世紀前半から後半にかけて軒平瓦や軒丸瓦を焼成し、秋篠川に沿って平城京右京に運んだと考えられています。その一つが「押熊(おしくま)瓦窯」で、東から西にのびる尾根先端の台地の上に造られています。

 

 

 「押熊」に関しては、「大熊」と同義で、(1)「大」は美称、(2)「熊」=「隈」で奈良市西北部の極地を表わす方位地名と言われています。
 歴史講話と昼食の後、「忍熊(おしくま)王子・麛坂(かごさか)王子舊蹟地」を訪れます。ここは、誉田別尊(ほんたわけのみこと)(後の応神天皇)が即位するのを恐れて戦ったものの敗れ去った二人の皇子の墓との伝承があります。さらに、平城ニュータウン建設に伴って「忍熊皇子社」が移転して来ています。

 

 一方、すぐ側にある「忍熊八幡神社」の祭神は、二人の皇子の敵だった応神天皇(八幡神)ですから、おおらかなものです。

 

 

 さらに南下すると、「中山八幡神社」があります。周辺の宅地化が進むまでは農村地域であり、今でも祭祀組織「宮座」が残っています。当番で神主を務めている住民の方が、6月1日の月次祭を控えて準備をされていました。

 

 

 秋篠の地まで下ると、円墳の上に「堅牢地(けんろうじ)神社」があります。祭神の「堅牢地神(けんろうじじん)」は、仏教では大地を堅固に保つ大地の神とされています。

 

 

 重文「伎藝天立像」で有名な「秋篠寺」は、八世紀後半に光仁天皇の勅願により「内経寺(ないきょうじ)」として創建されました。七堂伽藍を有していた大きな寺でしたが、十二世紀前半に講堂(現本堂)を除く全ての建物が焼失しました。東塔跡の礎石が往時を偲ばせます。礎石の中央部には、耐震性を向上させる出枘(でほぞ)があります。

 


 南門の西には、會津八一の歌碑あきしのの みてらをいでで かへりみる いこまがたけに ひはおちむとす」が建っています。石材は御影石ですが、表面が光って読みに難いのが問題です。八一が訪れた時、伎藝天立像など仏像は奈良帝室博物館に寄託されていたため、拝観できませんでした。そこで「たかむらに さしるかげも うらさびし ほとけいまさぬ あきしののさと」とも詠んでいます。

 

 南門を出た西に、かつては秋篠寺の鎮守社だった「八所御霊神社」があります。その名のとおり八柱を祀っていますが、主祭神は「崇道天皇」です。光仁天皇の皇子で桓武天皇の同母弟だった早良(さわら)親王は淡路に流される途中で死去しましたが、その怨霊が祟ったとして「崇道天皇」の尊号が追贈されました。強い力を持つ神霊によって災厄を鎮める御霊信仰から生まれた神社です。


 最後は、近鉄大和西大寺駅北西にある「十五所神社」です。西大寺の鎮守社として近隣にあった小さな神社をまとめたものと言われ、現在は十六柱を祀っています。


 和気藹々とした雰囲気の中、奈良市の遺跡探訪とウォーキングを楽しむことができました。

2021年05月31日古墳:その他, 円墳奈良県:奈良市トレッキング:トレッキング

やまとびとツアーズ「名物ガイドと宇陀の古墳に入ろう!」(奈良県宇陀市)

 令和3年5月29日(土)、やまとびとツアーズの「名物ガイドと宇陀の古墳に入ろう!」に参加しました。ちなみに、「名物ガイド」とは雜賀耕三郎さんのことです。

 宇陀地方は、奈良県北東部に位置して三重県と接しており、奈良盆地とは異なる独自の文化圏を形成していました。榛原に本格的な古墳が出現したのは四世紀後半であることから、東国への交通路を確保するため、この時期に大和王権の傘下に組み込まれたと考えられています。その後、五世紀末から六世紀にかけて各地に小型の前方後円墳が出現しましたが、100mを超える前方後円墳を営むような勢力は現れませんでした

 

 近鉄榛原駅から路線バスで大宇陀まで移動します。最初に訪れる「香久山古墳」は全長42mの前方後円墳です。横穴式石室は宇陀の首長層が初めて採用したもので、全長9.6m、玄室は長さ3.8m・幅2.5mと宇陀最大規模の大きさです。

 

 

 南には、飛鳥時代に柿本人麻呂が萬葉歌「ひむがしの のにかぎろひの」(巻1―48)で詠んだ阿騎野が広がります。下から見上げると、さぞ威容を誇っていたことでしょう。


 各自で昼食を食べた後(私は奥大和ビール醸造所でスパイスカレー+地ビール)、タクシーで東の菟田野(うたの)に移動し、北東に向かって稜線を登ります。最初に全長50mと宇陀では最大規模の前方後円墳「不動塚1号墳」が出現しますが、残念ながら石室入口が崩落しています。 



 さらに東に進んで「不動塚2号墳」に向かいます。直径17mの円墳で、1号墳より3m高い稜線山頂部を占めていることから、こちらの方が古い可能性があります。石室は全長5.5m、右片袖式の玄室は長さ4.6m・幅1.4mとこぢんまりしています。

 

 

 路線バスで近鉄榛原駅に戻り、北東部に進んで、南北に伸びる「榛原ひのき坂」に向かいます。住宅街にある「奥ノ芝1号墳」「奥ノ芝2号墳」はともに直径10mの円墳で、南に開口する横穴式石室を持っています。いずれも榛原石(溶結凝灰岩)の板石を小口積みした磚積石室です。
 普段、二つの石室は施錠されているのですが、やまとびとツアーズの岡下さんが宇陀市文化財課から鍵を借りてくれていたので、入ることができました。さらに、宇陀市の方が2号墳の草刈りをされていたので、墳丘の形を確認することができました。
 両古墳の石室を比べると、(1)全長は1号墳が6.3m・2号墳が7.0m、(2)側壁は1号墳が直線的・2号墳が曲線的、と微妙に異なっています。
 なお、1号墳は宅地開発業者に破壊されたものを再構築したものですが、名石工・左野勝司が担当されたそうで違和感がありません。側壁と奥壁の接合部分にL字型の磚を使うなど凝った造りです。


 

 2号墳の石室には板石を組み合わせた箱型石棺が残っています。 

 

 

 

 榛原石の磚積石室と聞いて連想するのは「花山西塚古墳」(桜井市)ですが、時代的に新しい花山西塚古墳には(1)玄室の奥に横口式石槨がある、(2)側壁が上部できつく内傾している等の特長があります。

 


 絶妙なコース設定で、大宇陀・菟田野・榛原の代表的な古墳を探訪することができました。
 時間の都合で寄れなかった大宇陀の円墳「谷脇古墳」にも、ぜひ行きたいと思います。

2021年05月29日古墳:円墳, 前方後円墳歴史:古墳時代

長浜市観光協会「深坂古道と まわし工場見学」(滋賀県長浜市)

 令和3年5月26日(水)、滋賀県長浜市観光協会主催の北びわこエスコートツアー「深坂古道と まわし工場見学」に参加しました。

 

 

 集合場所のJR長浜駅から湖国バスに乗り、沓掛まで移動します。ここから歩き始める「深坂(ふかさか)古道」は、「塩津街道」の一部です。古来、福井県の敦賀で陸揚げされた物資は、琵琶湖畔まで陸路で、そこから船積みされて大津などへ運ばれました。この陸路の一つが塩津街道です。

 

 沓掛から深坂峠(標高370m)に向かって歩きます。この深坂越えは標高差250mの険しい峠道で、街道最大の難所でした。このため、織豊時代、東側に傾斜の緩い「新道越え」が拓かれ、衰退した深坂越えは「深坂古道」として残りました。

 途中にある「深坂問屋跡」には、往時を偲ばせる石垣が残っています。

 


 深坂峠の手前に「深坂地蔵」がおられます。平清盛の長男・重盛は敦賀と琵琶湖を結ぶ運河を作ろうとこの地を試掘しましたが、大きな岩に突き当たったために断念しました。そこで、この地蔵は「掘止め地蔵」とも呼ばれていました。ここから北に進んで深坂峠を越えればJR疋田に行きつけるので、ぜひ歩き通したいものです。

 

 昼食後、自由時間があったので「北淡海・丸子船の館」に寄りました。丸子船とは丸太を二つ割りにして胴の両端に付けた帆船で、琵琶湖特有のものです。展示されている本物の船に、本物の松右衛門帆が張られていたので驚きました。松右衛門帆とは江戸時代の実業家・工楽(くらく)松右衛門が発明した近代的帆布のことで、私が住む姫路市に隣接する高砂では旧邸が整備・公開されています。


 


 その後、今回の目玉である「おび弘(おびひろ) 山門(やまかど)工場」に向かいます。「おび弘」は京都西陣に本社を置く帯の製造会社で、1965年に工場を京都市から長浜市山門(やまかど)に移しました。適度な湿気がある気候が絹織物の製造に向いているそうです。
工場内には手織り用の織機が17台並んでおり、ベテランの女性職人が高級帯を織っておられます。

 

 奥にあるひときわ大きな織機が、大相撲の締め込み(まわし)を織る機械です。締め込みを作る会社は日本には三社しかなく、そのうち手織りで作るのは「おび弘」だけです。

 

 担当するのは、工場長と若い人の男性二人です。締め込みは、番付発表後に注文が入るので一か月で織り上げなければなりません。しかも、20分ごとに交替しないと体力が続かない重労働です。
 若い方は“重労働だが、相撲ファンなので遣り甲斐がある”と言っておられました。ただ、工場長さんは“五十年以上経つ織機がいつまで保つかだ”と言っておられました。いつまでも、古きよき伝統を伝えて欲しいものです。 


 最後は、琵琶湖の最北端に突き出た葛籠尾(つづらお)半島を南北に走る18.8kmの「奥びわこパークウェイ」です。展望台からは、東は小谷城跡や伊吹山、西には海津大崎や比良山系など琵琶湖の四分の一以上の景観が楽しめます。ここは、4月の海津大崎クルーズで琵琶湖から眺めたばかりで、こんなに早く来る機会があるとは思いませんでした。

 

 

 

 


 また、展望台には、「鉄穴(じんつぼ)」と言う墳丘があり、淳仁天皇の生母(当麻山背(たいまのやましろ)?)と皇后(粟田諸姉(あわたのもろあね))の墓と伝えられています。ちなみに、北西の菅浦(すがうら)集落には、淳仁天皇陵と伝えられる「船形型御陵」があります。

 


 念のために付け加えると、宮内庁が治定する「淳仁天皇陵 淡路陵」は兵庫県・南あわじ市にあります。


 「北びわこエスコートツアー」は、安い値段でディープな長浜市の魅力を紹介してくれるので、目が離せません。


2021年05月26日古墳:その他歴史:古代トレッキング:トレッキング

榮山寺ほか(奈良県五條市)

 令和3年5月22日(土)、JR西日本「休日ぶらり旅きっぷ」(2,500円)を利用して、奈良県五條市へ行きました。姫路駅から五条駅までの片道運賃が2,600円なので随分とお得です。
 駅前の観光案内所でレンタサイクルを借りて、移動を開始します。前のカップルが普通車を借りてしまったので、やむなくパワーアシスト自転車にしましたが、結果的に行動範囲が広がりました。

 

 まず、真言宗豊山派「学晶山榮山寺(がくしょうざん えいさんじ)に向かいます。午前11時から行われる住職による案内に参加するのが目的です。
 榮山寺は、719年に藤原不比等の長男・武智麻呂(むちまろ)が創建し、国宝「八角堂」は武智麻呂の菩提を弔うために仲麻呂(惠美押勝)が建立したと伝えられています。古くは前山寺(さきやまでら)と称し、鎌倉時代になるまでは藤原南家の菩提寺として栄えていましたが、戦国時代末期に八角堂を除く堂宇が焼失しました。
 当初から残る唯一の建物・国宝「八角堂」の扉は普段は閉じられているのですが、4月末~5月末は、本堂におられる本尊・重文「薬師如来坐像」とともに特別拝観できるのです。

 

 

 八角堂は、外から見ると本瓦葺の八角形ですが、中に入ると須弥壇周辺に八角柱が四本建っています。内陣に描かれた装飾画は重要文化財に指定されています。薄くなっていますが、現地で住職から教えていただき、音声菩薩像などを確認できました。

 

 
 本堂におられる薬師如来坐像は、建物の外から拝観します。両手を膝の上で組んだ法界定印を結び、その上に薬壺を載せておられます。一般的に薬師如来様は与願印を結んだ左手の上に薬壺を載せておられるのに比べて、珍しい印相です。

 

 

 本堂の前に建つ重要文化財「石燈籠」は、高さ243cmで弘安7(1284)年の銘があります。  

 

 国宝「梵鐘」は、山城国の道澄寺(どうちょうじ)から移されたもので、銘文には、鋳成は延喜17(917)年で書は小野道風と書かれています。特に上部の龍頭の造作が素晴らしいです。

 

 境内には、井上(いのえ)内親王(聖武天皇の皇女で、光仁天皇の元皇后)を祀る御霊(ごりょう)神社があります。元々は、お寺が興福寺系だったので鎮守社も春日神社でしたが、1238年にご祭神が変わったそうです。

 

 参加者が私を含めて三人だけだったので、住職に質問するなど濃密な30分を過ごせました。
 その後、一人で再度、拝観した後、裏山の「藤原武智麻呂墓」にお参りします。平城宮北方の佐保山で火葬された後、ここに改葬されたとされます。東西5.8m・南北6.4mの方形で、緑泥結晶の石積み基壇の上に墓碑が建っています。墓がある小島山(標高234m)には良継(よしつぐ)の墓もあり、藤原南家の墓域と考えられています。

 


 次に、宇智川(うちがわ)右岸にある国史跡「宇智川磨崖碑」に向かいます。道から少し下っただけで、深山幽谷の雰囲気がする場所です。摩崖碑は奈良時代のもので、現存するものとしては最古です。大般若経の経文が彫られた金石文で、末尾に観音菩薩と思われる立像が線彫されているそうですが、川の流れて薄くなっており、よくわかりません。榮山寺に近い場所にあることから、榮山寺との関係も想定する見方もあります。

 


 吉野川を南に越えて、真言宗高野山派「小松山 金剛寺」に向かいます。平安時代に平清盛の長男・重盛が創建したと伝えられていますが、安土桃山時代に戦火により全焼しました。江戸時代の初めに復興して、その後、井上内親王・他戸(おさべ)親王(井上内親王と光仁天皇との間に生まれた皇子。皇太子だったが廃絶され五條で逝去)を祀る神社に附属する神宮寺となりました。

 

 江戸~大正時代は唐招提寺長老の隠居寺で、茅葺きの庫裡が、かつての隠居之間です。

 

  また、明治時代に建てられた観音堂唐招提寺の金堂を模した造りです。

 

 時間に余裕があったので、井上内親王と他戸親王を祀る御霊神社本宮にも参拝します。

 

 さらに、井上内親王宇智陵他戸親王墓にも行きます。いずれも柿山の中で高い場所にあるので、パワーアシスト自転車でないと寄る気になりませんでした。

 

 

 五條市には、他にも明治維新の魁「天誅組」関係の遺跡もたくさんあるのですが、寄っていると時間がかかるので今回はパスして、幻の「五新鉄道」の終着点跡を確認した後、帰路に向かいました。

 

 パワーアシスト自転車を借りたおかげで予定外の場所まで訪問できて、充実した一日でした。


2021年05月22日奈良県:その他

NHK歴史講座「比曾寺と古代山林寺院」(奈良県大淀町)

 令和3年5月16日(日)午後、奈良県・大淀町文化会館で開かれたNHK歴史講座「比曾寺と古代山林寺院」を聴講しました。講師の奈文研都城発掘調査部長の箱崎和久氏は、古建築の専門家です。


 比曾寺(比蘇寺、ひそでら)は六世紀中頃の創建で、日本で最も古い仏像「放光樟像(木造阿弥陀如来坐像)」を有する「吉野寺」であると伝えられています。平安時代には「現光寺(げんこうじ)」とも呼ばれました。
 現在は、曹洞宗の「世尊寺(せそんじ)」となっています。


 薬師寺式伽藍配置で、東西に三重の塔を有していました。東塔は1594(文禄3)年に豊臣秀吉が伏見城に移築し、1601(慶長6)年には徳川家康が園城寺(三井寺、大津市)に寄進しました。

 

 

 講演会場の大淀町文化会館では、ミニ展示「現光寺縁起絵巻の世界」が開催されています。江戸時代初期に制作された絵巻で、上巻には蘇我氏が建てた吉野寺に放光樟仏が祀られるまで、下巻には香木に彫られた観音像や後醍醐天皇の行幸の様子などが描かれています。

 

講演「比曾寺と古代山林寺院」の概要です。
(1) 聖徳太子と比曾寺
 サブタイトルが「聖徳太子ゆかりの地で古代の魅力を語る」となっているので、最初に説明する。『聖徳太子傳歴』に太子との関係が初めて書かれ、『日本書紀』の二つの記事と結びついて太子創建と伝えられているが、史実としてみれば聖徳太子との関係はない
→ 実は私が一番気になっていた部分ですが、ハッキリと関係を否定されてスッキリしました。
(2) 比曾寺の歴史
・『日本書紀』にある「吉野寺」に該当し、当時の吉野では唯一の寺。
・7世紀中頃に古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)、7世紀後半に大海人皇子(おおあまのみこ)が個人として出家した寺。
・平安時代には、宇多上皇や藤原道長などが参拝。
・18世紀後期に、曹洞宗「世尊寺」として復興。
(3) 山林寺院として描かれた比曾寺
・平地寺院と異なり、僧が修行する寺
・貴族が参詣。
(4) 古代の山林寺院
・平地寺院は、周囲を囲う・回廊を持つなど定型の伽藍配置。
・山林寺院は、水のある里山にあるので地形の影響を受けた伽藍配置
・平地寺院とのネットワーク(国分寺と共通した出土瓦など)
(5) 比曾寺の伽藍と建物
ア 比曾寺「東塔跡」
東塔の礎石「円柱座」+「地覆座」(じふくざ、横材を受ける座)だが、西塔の礎石は円柱座のみ

 


本薬師寺跡(7世紀後期半、橿原市)や、山城国分寺跡(8世紀前期、京都府木津川市)の塔礎石には「出枘(でほぞ)」があるが、比曾寺跡の塔礎石にはないのでそれより古い時代。

 


・塔跡の礎石を見ると柱間寸法が薬師寺「東塔」と同じ等間隔。奈良時代以降は中央部が広い。


イ 園城寺「三重塔」
室町時代の建物だが、柱間寸法が等間隔なので古代の平面を踏襲
・①中央に心礎がなく心柱は初重天井の上、②初重の柱が二重の柱を支える構造(中世の特徴)。
ウ まとめ
・①考古学では「平地寺院」、②文献史学では「山林寺院」(僧の修行場所)と食い違い。
・古人兄皇子や大海人皇子が個人として出家した寺であることを考慮すると、②山林寺院が妥当か
・東塔の建立に際しては、天武天皇(大海人皇子)・持統天皇が関与したか。そうすると、本薬師寺と関係があるか。

 全体を通じては、ご専門の「(5) 比曾寺の伽藍と建物」が圧巻でした。
 今後、比曾寺跡の発掘調査が進み、創建当初の伽藍配置や寺が平地寺院・山林寺院のいずれだったかなどが明らかになることを期待しています。

2021年05月16日奈良県:吉野郡

龍田古道「龍田山の信仰体感ルート」(奈良県三郷町、大阪府柏原市)

 令和3年5月16日(日)午前、龍田古道(奈良県三郷町(さんごうちょう)・大阪府柏原市(かしわらし))の「龍田山の信仰体感ルート」を歩きました。5月3日(祝)に「古代行幸路ノスタルジックルート」を歩いたので、その続きです。
 天気予報は雨でしたが、午後から大淀町で講演会を聴講するので、決行しました。


 前回に参拝した龍田大社には寄らず、JR三郷駅から三室(みむろ)遊歩道をめざします。
 遊歩道を少し歩いた右手に、大伴家持の萬葉歌碑「龍田山 見つつ越え来し」(巻20・4395)が建っています。揮毫は、龍田大社と同じく坂本信幸先生です。


 歌碑の右手を奥に進んで、三室山2・3号墳を見学します。すぐ近くなのですが、少し道がややこしく、私も少し迷いました。


 この古墳は、三室山中腹に東面して並ぶ長方墳は、同一規格(南北21.5m・東西17.5m)で築造された双墓(ならびはか)で、南北60m、東西43m以上の共通した墓域を持っているそうです。現地ではっきりと確認したかったのですが、草が生い茂っていたため何となくしか分かりませんでした。

 

 

 この二つの古墳は、それぞれが一墳丘に二つの横穴式石室を持つ双室墳です(石室は計4つ)。道に近い石室(2号墳の南石室)が開口しているので入ってみました。
 無袖式のこぢんまりとした玄室です。後期古墳らしく、切石が使われています。

 

 

 
 山道を進んだ先には展望台がありますが、前の木が育ちすぎていて展望を妨げています。

 

 

 険しい道を進めば、右手に「龍田大社本宮跡」があります。龍田山とは信貴山から南に延びて大和と河内を隔てる山々の総称で、その中の三室山(137m)は龍田大社の神域「神奈備」とされています。したがって、石碑より奥へは立ち入り禁止です。


 さらに進んで車道に出れば、龍田古道里山公園です。


 公園を過ぎて少し西に戻れば、眼下に河内平野が広がります。


 北に進めば展望が開け、ブドウ畑の向こうに奈良盆地の展望が広がります。大和三山も一望できます。

 

 来た道を少し戻り、御座峯(ござがみね)に行きます。風の神が降臨したとされている場所で石碑「龍田山 伝承の地」が立っています。ここも奥は神域なので立ち入り禁止です。

 


 ここから、JR河内堅上駅に向かって下ります。
 途中には、雁多尾畑の氏神「金山媛神社」や青谷の氏神「金山彦神社」があり、いずれも式内社で、製鉄技術集団が祖神を祀ったものとされています。この辺りから雨が降り始めました。

 


 ルートマップでは標準時間が1時間30分となっていますが、見所が多くて3時間以上かかりました。
 前回もそうですが、柏原市に比べて三郷町では道案内の看板が充実していると感じました。
 次は、天気が良い日を選んで「龍虎をめぐる!パワーチャージルート」に挑戦したいと思っています。

2021年05月16日古墳:その他歴史:古代奈良県:その他トレッキング:トレッキング

奈良シニア大学・霊山寺・璉珹寺(奈良市)

 令和3年5月13日(木)午後、奈良シニア大学「奈良歴史部」の「人物でつなぐ奈良のすべて」シリーズで「阪本仙次(せんじ)」の話をしました。吉野町龍門に生まれ、近鉄吉野線の前身である「吉野(軽便)鉄道」の社長・南都銀行の前身である四銀行の一つ「吉野(材木)銀行」の頭取などを勤めた実業家ですが、ほとんどられていません。


 実は私も、数年前に参加した吉野町スマイルバスツアーで初めて知りました。今、吉野町では阪本仙次顕彰会「チームサカセン」が結成されています。3月20日(土)に開催された第一回報告会を聴講しましたが、大いに勉強になりました。


 阪本仙次に直接関係する話だけだと広がりがないので、別荘「白雲荘」を設計した奈良を代表する建築家・岩崎平太郎の業績「吉野神宮駅」、古代寺院「龍門寺跡」、江戸時代農民一揆「龍門騒動」などについて触れました。

 


 この話をきっかけに、桜だけでない吉野の幅広く奥深い魅力を感じる人が出てくれば嬉しいです。

 午前中は、近鉄富雄駅で途中下車して、霊山寺(りょうせんじ)「バラ園」へ行きました。1957(昭和32)年、世界平和を祈って本堂の北東に開かれ、200種2,000本の薔薇が植えられています。今年は全体的に花の開花が早いので4月中旬に行ったのですが、バラは開花時期が調整できるそうで、空振りでした。今日は、外から見ても分かるほど花が咲いています。少し盛りを過ぎていますがほぼ満開の状態で、平日の午前中なので人も少なく、ゆっくりと豪華なバラの花を観賞できました。

 


 奈良シニア大学で話をした後は、璉珹寺(れんじょうじ)を参拝しました。本尊の阿弥陀如来立像が五月だけ特別公開されているのです。十年振りですが、印相が気になりました。左手は指の間に縵網相(まんもうそう)があるだけでなく、親指と人指し指がくっついており阿弥陀様の手です。一方、右手は親指と他の指がくっついておらずお釈迦様の手です。前住職の説明テープを聞くと、釈迦と阿弥陀の両方を備えた唯一の仏様だそうです。コロナ禍で昨年は拝観中止、今年は再開したのですが、特に関東地方からの参拝者が少ないそうです。確かに、私がいた30分間に他の参拝者はいませんでした。おかげで、ナント・なら応援団のフレンドリーな女性Wさんと親しく話すことができました。
 普段は公開されていない境内も、花が咲いてきれいでした。

 

2021年05月13日歴史:中世, 古代, 近世・近代奈良県:奈良市

須磨浦公園・須磨寺(神戸市須磨区)

 令和3年5月9日(日)午後、鶴林寺(加古川市)を拝観した後、須磨浦公園まで移動して源平の遺跡を訪ねます。


 まず、ロープウエイに乗り、須磨浦山上遊園に向かいます。山電「三宮・姫路1dayチケット」(1,560円)で、ロープウェイ(往復920円)とカーレーター(往復350円)にも乗れるので、ずいぶんとお得です。ロープウェイの窓からは、海と山と空と神戸の街並みが楽しめます。


 ロープウェイを降りてからは、「乗り心地の悪さ」(「いもむし」に乗った感じ)が謳い文句カーレーターを利用してみます。


 終点の鉢伏山から少し歩いて旗振山(252.6m)に向かいます。旗振山の名前は、堂島米会所の相場を西国に知らせる旗振り通信の中継地だったことに由来しています。したがって、本来なら東は大阪・南は和歌山・西には小豆島まで見えるのですが、残念なことに黄砂のために霞んでいます。

 


 帰りは、リフトを利用してみました。旗振山は播磨国・鉢伏山は摂津国に属していたので、途中に国境の表示があります。私の子どもの頃から変わらない光景です。

 

 その後、ロープウェイで下り、須磨浦公園を探訪します。
 最初は、清盛の甥の「敦盛塚」です。一の谷の戦の際に熊谷直実(なおざね)に首を刎ねられた場面は、『平家物語』で有名です。高さ5mの大きな五輪塔で、1286(弘安9)年に北条貞時が平家一門を供養するために建立しました。

 

 松林を東に進めば石碑「源平史跡 戦の濱」があります。この碑の裏手にある鉄拐山の東南斜面を「鵯越の逆落とし」だとする説があります。


 途中、平家の滅亡とともに入水した「安徳帝内裡趾傳説地」に寄ります。
 急坂の上にあるので、「逆落とし」を体感できます。

 

 最後は、真言宗須磨寺派本山「須磨寺」(正式には「上野山福祥寺(じょうやさんふくしょうじ)」)に参拝します。
 秘仏・本尊の重文「聖観世音菩薩坐像」は、1169(嘉応元)年に源頼政が寄進したと伝えられています。

 

 境内には、たくさんの源平史跡があります。
 本堂に向かう道の途中にある「源平の庭」では、平敦盛・熊谷直実の一騎打ちの場年が再現されています。庭の手前には与謝蕪村の句碑「笛の音に 波もよりくる 須磨の秋」が立っています。

 

 本堂にお参りした後、少し西に向かうと、義経が敦盛の首と笛を実検した際に座った義経腰掛けの松」と、首実検の前に敦盛の首を洗い清めた敦盛公首洗いの池」があります。

 

 

 さらに西に向かうと、敦盛の菩提を弔う五輪塔が建てられています。解説板には、こちらは「首塚」で、須磨浦公園の「敦盛塚」には胴体が埋められているそうです。五輪塔の大きさだけを比べれば納得できる説明です(笑)

 

 須磨浦公園駅から月見山駅まで二駅分を歩き、途中で急坂を上り下りしたので、さすがに疲れました。 

2021年05月09日歴史:中世兵庫県:その他

鶴林寺(兵庫県加古川市)

 令和3年5月9日(日)午前、刀田山鶴林寺(とたさんかくりんじ、加古川市)に参拝しました。
 山電「尾上の松」駅で下車して、40年近く前に廃線になった国鉄高砂線線路跡の道路を歩きます。


 『鶴林寺聖霊院縁起』(江戸時代)には、惠辨僧正の勧めで聖徳太子が建立した四天王寺聖霊院が前身と書かれています。
 しかし、(1)建物は平安時代以降の建立、(2)仏像から明らかなのは平安時代前期からの存在、(3)鎌倉時代の鶴林寺文書に聖徳太子との関係が書かれていない、(4)室町時代の『峰相記(みねあいき)』に記載がないこと等から、(a)創建は平安時代中期以降で、(b)天王寺領賀古荘(かこのしょう)にある関係から後世に四天王寺系の太子信仰と結びついたと推測されています。
 現在は天台宗に属しており、国宝「本堂」には本尊の秘仏「薬師三尊」が安置されています。

 

 

 今回の目的は、秘仏「韋駄天」(室町時代)を拝見することです。本来は60年に1回しか開帳されないのですが、加古川市内のオリンピック聖火リレー終着点となったことから特別公開されています。ただし、聖火リレーが中止されれば公開も中止するとのことなので慌てて行ったのです((追記)聖火リレーの中止に伴い公開も中止されたので、5月9日が最後となりました。)。
 韋駄天は四天王「増長天」の八将の一尊で、釈尊の遺骨の歯を奪って逃げた悪魔を追いかけて取り戻した俊足で有名です。しかし、この像は実は韋駄天ではなく四天王「持国天」です。韋駄天とされたのは、『播州名所巡覧図会』(江戸時代)でそう紹介されているからなのですが、理由は明確ではありません。持国天より韋駄天の方が有名だったからだ”とする説もあります。
 台が用意されており、その上にあがると足元の邪鬼が見えます。踏みつけられながら上を向いて笑っている顔が何ともユーモラスです。ただ、この仏像は内陣の南西に安置されているのですが、そこは増長天の定位置です。ボランティア・ガイドの方に尋ねると“仏像の配置に関して鶴林寺はおおらか”と言っておられました。確かに、宝物館にある釈迦三尊の脇侍も配置が逆でした。


 

 国宝「太子堂」には重文「板絵著色聖徳太子像」が安置されていますが、これも秘仏です。

 


 宝物館の重文「銅造聖観音立像」(白鳳時代)には、盗人がこの観音像を盗み溶かして一儲けを企んだが「あいたた」と言う観音の声に驚き像を返し改心したと言う伝説があり、「あいたた観音」とも呼ばれています。
 像高83cmと小さいことから他の寺から移された可能性が高いと考えられています。奈良のお寺で拝見する白鳳仏に比べると、いささか繊細さに欠けます。


 本堂の前には、菩提樹と沙羅双樹が植えられており、6月には開花を迎えます。
 その時期に、再度、訪問したい古刹です。

2021年05月09日兵庫県:播磨

明石城跡・船上城跡(兵庫県明石市)

 令和3年5月6日(木)、明石城跡などを巡りました。城跡がある明石公園へは何度も行っているのですが、城跡探訪の目的で行くのは初めてです。


 明石城は、第二代将軍・秀忠の命により小笠原忠真が1619(元和5)年に築いた平山城です。東から西に向かって、東ノ丸・二の丸・本丸・稲荷曲輪と続きます。本丸の西南には天守台がありますが、天守は築かれませんでした。これに関しては『なぜ、天守は建てられなかったのか』(神戸新聞総合出版センター)と言う本まで出ています。


 本丸の四つの櫓を始め全体で20の櫓・27の楼門が築かれましたが、現在は国重要文化財の巽櫓(たつみやぐら、南東)・坤櫓(ひつじさるやぐら、南西)が残るだけです。坤櫓は伏見城から移され、巽櫓は、近くの船上城(ふなげじょう)から移されましたが1631(寛永8)年に焼失したために再建です。
 JR明石駅のホームからは本丸がよく見えます。逆に、本丸からは明石海峡大橋などの展望が広がります。

 


 天守台は本丸の南西・坤櫓の北に位置しています。ここに黄金御殿は築かれましたが、天守は建てられず坤櫓が天守の役割を果たしました。天守台は予想外に小さく、建てられたとしても目立たなかったでしょう。

 建てられなかった理由について、先の本は次のように推測しています。
(1) 当初に天守台を作りながら天守を建てなかった理由は不明。
(2) 幕府の一国一城令に従い小倉藩主の細川氏は廃城することとし、小笠原氏との間で小倉城の天守を移築する約束が結ばれた。
(3) しかし、移築する前に治世が安定して軍事面で天守が不要になった。


 濠の南には、ただ一つの武家屋敷遺構「織田家長屋門」が残されています。これも船上城から移築されたものです。残念ながら、門の内側に建っているのは民家です。

 

 明石城跡から1.5kmほど東に進んだ丘に月照寺(げっしょうじ)があります。山門明石城の追手門が移築されたもので、元々は伏見城の薬王門でした。この寺は明石城築城に伴い現在地に移されたのですから、皮肉なものです。境内には、柿本人麻呂の歌碑「ほのぼのと 明石の浦の」(古今和歌集)があります。

 


 東に隣接して、柿本人麻呂を祀る柿本(かきもと)神社があります。境内には人麻呂の萬葉歌碑が二基立っています(「大君は 神にしませば」(巻3・235)・「天離る 鄙の長道ゆ」(巻3・255))。


 

 ここには東経135度の子午線が走っているので、明石市立天文科学館が建てられ、トンボの標識もあります。

 

 明石城跡から1.9mほど南西に進めば船上城跡です。1585(天正13)年にキリシタン大名・高山右近が築きました。右近は、城の西側に城下町を整備し、南側には堀を経て海へとつながる港を建設しました。しかし、城の建物は江戸時代初期に焼失しました。周辺は宅地化が進み、今は船上西公園にイラストマップの看板が残るだけです。公園の南・田圃の中には「伝本丸跡」とされる場所がありますが、私有地のために立ち入ることはできません。



 明石城跡は、公園としてだけでなく、史跡としてもっと大切にされるべきだと感じた歴史探訪でした。

2021年05月06日城郭:その他歴史:近世・近代兵庫県:その他

龍田古道「古代行幸路ノスタルジックルート」(大阪府柏原市・奈良県三郷町)

 令和3年5月3日(祝)、龍田古道(奈良県三郷町(さんごうちょう)・大阪府柏原市(かしわらし))の一部を歩きました。
 龍田古道とは、奈良県から大阪府へ流れる大和川に沿った山越えの道で、特に右手に龍田山・左手に大和川が迫る「亀の瀬」は地滑りが繰り返して起こる難所です。令和2年6月、「もう、滑らせない!! 龍田古道の心臓部『亀の瀬』を越えてゆけ」として日本遺産に認定され、ウォーキングマップが作られました。このマップをTさんから送っていただいたので、これまではJR大和路線の車窓から眺めて楽しんでいた風景を歩くことにしました。

 

 JR高井田駅で下りて、国史跡「高井田横穴群」に行きます。生駒山地最南西端に位置する凝灰岩の崖面に掘られた墓穴群です。入ることはできませんが、中を覗くと高い完成度です。頂上には、横穴式石室を持つ円墳「高井田古墳」があります。

 


 国豊橋を南に渡って東に進めば、全長130mの前方後円墳「松岳山(まつおかやま)古墳」です。組合式長持型石棺が露出しており、その南北には謎の立石があります。


 七重塔跡が残る河内国分寺跡に寄った後、「夏目の渡し跡」にかかる吊り橋を渡りますが、そこそこ迫力があります。

 

 

 亀の瀬には、地滑り歴史資料室や旧大阪鉄道亀瀬隧道などがあるのですが、残念ながらコロナ禍で閉まっていました。


 江戸時代、大坂市中と河内・大和は大和川を利用した剣先船によって結ばれていたことから、亀の瀬の龍王社には剣先船仲間奉納の石燈籠が残っています。
 なお、地名の由来となった亀岩は意外と小さかく感じました。

 

 

 峠八幡神社を過ぎて少し進めば奈良県の三郷町です。日本四関の一つ「龍田の関」の近くに立つ関地蔵や、萬葉集に詠まれた「磐瀬の杜(いわせのもり)」(巻8・1419)を経て、官幣大社「龍田大社」に参拝します。主祭神は天御柱大神・国御柱大神の二柱で、風の神様です。

 

 

 龍田大社の 境内には高橋虫麻呂の万葉歌碑(長歌、巻9・1751、揮毫は坂本信幸先生)があります。高橋虫麻呂の歌碑はJR三郷駅の西にもあります(巻9・1748、揮毫は犬養孝先生)。

 

 

 その後、JR三郷駅から帰りの列車に乗ります。車窓から、歩いたばかりの道を眺める気分は格別でした。

 
 今回歩いたのは「古代行幸路ノスタルジックルート」の一部でしたが、「龍田山の信仰体感ルート」も歩きたくなりました。

2021年05月03日トレッキング:トレッキング

奈良国立博物館「記念講演会『聖徳太子-史実から信仰へ-』」

 令和3年5月1日(土)、奈良国立博物館に行き、午前中に特別展「聖徳太子と法隆寺」を観覧し、午後は記念講演会「聖徳太子ー史実から信仰へ」を聴講しました。受付開始後5分で満席になった人気講座です。


 講師の東野(とうの)治之先生(奈良大学・大阪大学名誉教授)は古代史研究の第一人者で、『聖徳太子』(岩波ジュニア新書)の著書もあります。
 コロナ禍で東博や京博が休館するなか、本当に開催されるのか不安に思っており、東野先生も冒頭でそのようなことを言われていましたが、無事に開催されました。


 講演のタイトルは「史実から信仰へ」ですが、内容は古代から近代にかけて聖徳太子は世の中にどのように受け入れられて来たか、です。

(1) 江戸時代まで
 『聖徳太子伝暦』(10世紀)を核に、①観音菩薩の生まれ変わり、②予知能力を備えた超人などと増幅されていた。『聖徳太子絵伝』(11世紀)も、黒駒に乗って富士山に行く姿などを描いている。


(2) 明治時代~敗戦前
 新たな太子信仰が創出されるとともに、戦意高揚に利用された。具体的には、『聖徳太子伝暦』の権威が失墜する反面、『上宮聖徳法王帝説』(成立は10世紀だが7世紀の伝えを含む。)が再発見されて、①天皇中心の政治、②随との国交、③中国文化の積極的摂取などが評価され、近代的な聖徳太子像が喧伝された。
 その結果、①聖徳太子(622年に死去)の理念が「大化の改新」(645年~)で実現、②大化の改新は明治維新の先駆け、とする史観が確立した。
 なお、前回の一千三百年御遠忌に関して、私が敬愛する會津八一の歌碑「うまやどの みこのまつりも」(法隆寺iセンター)が紹介されたのは嬉しかったです。

 
(3) 敗戦後
 敗戦後も皇族出身の「偉人」として生き延びて、平和国家・文化国家の象徴となった。これは、昭和天皇の変化と相似している。しかし、「以和為貴」(和を以て貴しとなし)は朝廷内の目標に過ぎず、世界平和を謳ったものではない

(2)に関しては、万葉学者の品田悦一先生が“万葉集は、近代国民国家の形成過程において国民の一体感を演出するための文化装置として機能してきた”と捉えておられる(『万葉集の発明』(笠間書院))のと同じ趣旨だと興味深く感じました。 

 

 聴講していた時には感じなかったのですが、このように整理してみると、結構、大胆なことを話しておられました。

 コロナ禍のなかで無理をして参加した甲斐がある充実した講演内容でした。

2021年05月01日

奈良国立博物館「聖徳太子と法隆寺」

 令和3年5月1日(土)午前、奈良国立博物館で開催されている特別展「聖徳太子と法隆寺」を観覧しました。聖徳太子が亡くなられてから1,400年目に当たることを記念してのもので、4~6月に奈良博で開催された後、7~9月に東博に会場を移して開催されます。

 

 混雑を予測して事前予約優先制が採用されていますが、予想以上に空いています。午前9時30分の開館時刻に合わせて行ったのですが、ほとんど待たずに入館できました。内部も空いていて、ゆっくりと観覧できます。大阪府や兵庫県などに新型コロナウイルス感染症の緊急事態宣言が出されていることが影響しているのでしょうが、やはり関西人にとって法隆寺は修学旅行で行くお寺なので、博物館で観覧すると言うメージが薄いことも影響していると思います。

 

 さすがに、釈迦三尊像・救世観音像・百済観音像は出陳されませんが、それでも国宝が目白押しです。チラシの表紙は「聖徳太子坐像」と「薬師如来坐像」ですから、このニ体が目玉なのでしょう。
 聖徳太子坐像(平安時代、木造)は、聖霊院のご本尊で、3月22日のお会式(ご命日法要)など特別の日にだけ公開される秘仏です。厨子を出ておられるので、背面まで見ることができます。威厳があり、かつ優しいお顔です。胎内に観音菩薩像を収めておられることを初めて知りました。

 
 薬師如来坐像(飛鳥時代、金銅鍍金)は、普段は金堂「東の間」に本尊として鎮座しておられます。口元の微笑みなど「中の間」の本尊の釈迦三尊像と似ていますが、鋳造技術に進歩が見られることから、こちらの方が新しいそうです。明るい照明の下でじっくりと拝見すると、ずいぶんと優しいお顔でした。台座も合わせて出陳されており、構造がよく分かりました。

 

 最近は「伝聖徳太子像」とされているようですが、私が中学生の頃の教科書には「太子を描いた最古の肖像画」として掲載されていた聖徳太子二王子像は、4月27日~5月16日限定で宮内庁蔵の原本が展示されていす。明治初期、法隆寺から皇室にたくさんの宝物が献納され、その大半は東博の法隆寺宝物館に収められていますが、この肖像画は宮内庁蔵です。

 

 五重塔初層には塔本坐像が置かれていますが、普段は網越しでしか見ることができません。今回はじっくりと拝見することができ、特に北面の羅漢坐像が釈尊の入滅を嘆く表現が真に迫っているのには驚きました。

 

 また、金堂の四方を守る四天王像は現存する日本最古の四天王像で、奥におられるので普段は見にくい西の広目天像・北の多聞天像を拝見できたのは、予想外の喜びでした。

 


 この他、夢違(ゆめちがい)観音として知られて観音菩薩立像(飛鳥時代、銅像)、玉虫厨子などの名品が目白押しですが、これらは法隆寺「大宝蔵殿」でいつでも見ることができるので、軽く流しました。東博会場では、人気を集めることでしょう。

 

 

 充実した内容の素晴らしい展覧会でした。

 ただ、スペースの問題もあるのでしょうが、不満を感じた点もあります。。
(1) 薬師如来坐像と台座が合わせて出陳されているので構造が分かりやすいが、両者が並んでいない
(2) 薬師如来坐像の光背銘文が読めるのは良いが、そのまま回り込むのでなく少し移動する必要がある。

(3)広目天像と多聞天像の二体が離れて展示されているので、一目で鑑賞できない
(4)ガラス原板から復元された金堂壁画の写真が展示されているが、薬師如来坐像や広目天像・多聞天像との位置関係が明確でない
 
 展示スペースが広く、かつ展示方法が洗練されている東博では、私が不満に感じた点などが解消されることでしょう。場合によっては、上京して東博でも観覧したいと思います。

2021年05月01日

毎日新聞旅行「伊吹山北尾根」(滋賀県米原市)

 令和3年4月23日(金)、毎日新聞旅行の「花の伊吹山北尾根を歩く」に参加しました。
 伊吹山は日本百名山に選ばれており、滋賀県の最高峰(1,377m)です。日本書紀は、日本武尊は伊吹山の神を討ちに向かったが草薙剣を持って行かなかったため毒気に当てられて病んで死に至ったと書いています。
 伊吹山ドライブウェイ(8.6km)を利用して山頂近くのスカイテラス(1,260m)まで行きます。午前中は、足慣らしとして、ここから1時間程度かけて山頂まで往復しました。


 往路は西尾根登山コースを利用したので、琵琶湖に浮かぶ竹生島や小谷城跡が見えます。 

 

 山頂付近には、日本武尊像や弥勒菩薩像などがあります。

 

 スカイテラスに戻って昼食を済ませた後、少しバスで北に戻り、静馬ヶ原(1,149m)から北尾根を歩き始めます。
 前には、これから向かう御座峰・禿山・国見山などが見えます。

 

 痩尾根でおもしろくないと思っていたところ、ニリンソウ、カタクリ、シャクヤクなどが目に入り、心が和みます。 

 

 御座峰(1,070m)の山頂から振り返れば、歩いてきた道の眺望が開けます。

 

 草原のように気持ちの良い尾根道を通り、禿山(はげやま、1,083m)をめざします。

 

 禿山の頂上には、その名のとおり石がごろごろしていますが、展望はすばらしく、これから向かう国見山(1,126m)がよく見えます。


 国見山から国見峠に向かう道に難所がありました。急な坂の一部に雪が残っているのです。滑り落ちると大変なので、慎重に歩きました。

 

 国見峠(846m)に降りれば、バスが待っています。この峠を通る道は、近江と美濃とを結ぶ間道として重要だったそうです。
 ここから、午前中に登った伊吹山がクッキリと見えます


 マスクを外して自然のなかをゆっくりと歩けた一日でした。

2021年04月23日トレッキング:トレッキング

靈山寺など(奈良市)

 令和3年4月22日(木)午前、奈良市南西部にある「登美山鼻高 霊山寺((とみやまびこう りょうせんじ)」へ行きました。以前から気になっていたお寺で、午後に奈良市中心部で用事ができたので、早い目に家を出て参拝することにしたのです。
 このお寺は奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が創建し、菩提僊那(ぼだいせんな)が名付けたと伝えられる名刹ですが、明治の神仏分離の際に伽藍の規模が半減されるとともに200体以上の仏像が焼却されました。神仏分離令に対する過剰な反応でもったいないことです。

 

 ご本尊は、国宝「本堂」の重文「薬師三尊像」ですが秘仏であり、普段は重文「薬師三尊懸仏」がおられます。


 本堂周辺を掃除しておられた女性に“お疲れさまです”と声を掛けたところ、“本堂だけでなく奥之院にもお参りください”と言っていただきました。そこで、予定していなかったのですが、本堂から20分程歩いて奥之院に行きました。
 奥之院では、弘法大師が感得した大龍神を大辯財天を祀っています。訪れる人も少なく、凛とした雰囲気が漂っています。

 

 その後、重文「三重塔」「菩提僊那供養塔」を参拝しました。

 

 

 大辯天堂に向かう石段の下には、東大寺の方を向いて行基菩薩像が立っています。1970(昭和45)年に三体造られた赤膚焼きの内の一体です。他の二体は近鉄奈良駅、九品寺(葛城市)に置かれました。


 霊山寺は薔薇園でも有名です。1957(昭和32)年、世界平和を祈って本堂の北東に開かれ、200種2,000本の薔薇が植えられています。
 今年は全般的に花の開花が2週間ほど早いので、薔薇も咲いているかと期待していたのですが、まだ蕾でした。お寺の方に尋ねたところ、開花時期がゴールデンウイーク前後になるように調整されているとのことでした。

 

 午後は、用事を済ませた後、興福寺春日大社を参拝して、満開の藤の花を楽しみました。藤原氏ゆかりの社寺なのでは、古くから自生していたこともあり、藤が大切にされているのです。
 若宮神社は二十年に一度の造替が行われることとなっており、ご遷座の準備作業が進められていました。

 

 

2021年04月22日

奈良交通「巣山古墳・牧野古墳(広陵町)、平野塚穴山古墳・平野第1号墳(香芝市)」

 令和3年4月20日(火)、奈良交通「香芝の古墳と馬見丘陵古墳群」に参加しました。案内役は「名物ガイド」(by岡下さん)の雑賀耕三郎さんです。雜賀さんは別の会社「やまとびとツアーズ」の古墳探訪ツアーも案内されています。非公開など社会的要因で入りにくい古墳に行くのが奈良交通、場所が分かりにくい・石室入口が狭いなど物理的要因では入りにくい古墳に行くのが やまとびとツアーズ と使い分けておられるようです。
 午前9時に近鉄奈良駅前をバスで出発して大阪府と隣接する香芝市に向かいます。

 

 飛鳥時代の尼寺廃寺跡に寄った後、「平野塚穴山古墳」に向かいます。この古墳は明神山(奈良県王寺町)から東に延びる尾根の南斜面に七世紀後半に作られました。一辺21mの方墳で、凝灰岩の切石を組み合わせた全長4.47mの端正な口式石槨を持ちます。普段は扉が閉じられており、入ることができません。

 

 次に、東に向かい、同じく普段は非公開の「平野第1号墳」に行きます。一辺が20m・高さ30mの方墳です。全長9.2mの横穴式石室を持ち、両袖式の玄室は全長3.5m・幅2.85m・高さ3.5mの両袖式です。巨石が積み上げられており、塚穴山古墳とは違って荒々しい印象を受けます。

 

 昼食を済ませてから香芝市二上山博物館を見学し、その後、東に隣接する広陵町にある「牧野(ばくや)古墳」に向かいます。直径60m・高さ12mの三段築成の円墳で、二段目に全長17.1mと奈良県内最大級の大きな横穴式石室があります。真の崇俊天皇陵とされる赤坂天王三古墳(桜井市)と似ており、森下恵介先生は、同じ工人集団によるものとされています。

 


 その後、4~5世紀に築かれた250基を超える大古墳群「馬見古墳群」に向かい、今回の目玉である「巣山(すやま)古墳」に入ります。
 墳丘長22mと馬見古墳群の中で最大規模を持つ前方後円墳で、築造時期は四世紀後半~五世紀前半とされています。周囲を盾型の広い濠が囲み、その外には幅30mの堤が築かれています。通常は立ち入り禁止なのですが、特別に広陵町教育委員会の許可を得て入ることができました。
 三段築成ですが、実際に歩いてみると三段目が特に高いことが実感できます。北を向いた前方部の頂上には大きな長方形壇が設けられており、後円部だけでなく前方部にも竪穴式石室があった名残か大きく窪んでいます。後円部に二つの竪穴式石室があっただけでなく、前方部にも竪穴式石室があったらしく窪んでいます。参加者の一人が、その窪みにシートを敷き仰向けに寝転んで雰囲気?を味わっていました。別の女性も喜んで体験しておられました。雜賀さんも勧められて体験されました。マニアックなツアーにはディープな客が集まるものです(笑)

 

 

 

 時間に余裕があったので、馬見丘陵公園で咲き誇るチューリップ群も見ることができました。最後に、広陵町文化財保存センターに寄り、牧野古墳や巣山古墳から出土した埴輪などを見るとともに、学芸員の方からいろいろと教えていただきました。

 

 参加者が17人と少なく、かつディープな古墳ファンが多かったため、和気藹々とした雰囲気のなか、充実した非公開の古墳探訪ツアーを楽しむことができました。
 案内いただいた雜賀さん、奈良交通の藤原さん、そして事前準備に尽力いただいた藤山さん、ありがとうございました。

2021年04月20日

長谷寺(奈良県桜井市)、室生寺・室生龍穴神社(奈良県宇陀市)

 令和3年4月19日(月)、JR西日本「春の関西1デイパス」(3,600円)を使って、長谷寺と室生寺・室生龍穴神社に行きました。近鉄+と奈良交通の乗車券が選べるのです。


 桜井市の長谷寺は牡丹で、宇陀市の室生寺は石南花で有名です。例年はゴールデンウィークが見頃なのですが、今年は全ての花の開花が早いので、慌てて参拝することにしたのです。
 間違って早く起きてしまったのでJR姫路駅を午前5時45分に出る始発の新快速に乗ることができ、長谷寺に着いたのは拝観開始直後の午前8時40分でした。
 長谷寺は、奈良時代に徳道上人が創建したと伝えられています。徳道上人は鎌倉の長谷寺を開山したとも伝えられており、私が住む姫路市に隣接する揖保郡太子町の出身です。

 

 長谷寺手前の法起院には供養塔があります。


 長谷寺の仁王門を入って国宝「本堂」に向かうには、長い登廊の石段を登ります。その右側を中心に牡丹が植えらているのです。数人の人が作業をされていたので尋ねたところ“昨日の雨水が貯まって花弁が下を向いているので、添え木をして上を向かせている”とのことでした。一本ずつの作業なので大変ですね、と言ったところ、“楽しみです”との答えが返ってきました。丹念に手入れいただくことにより満開の牡丹を見られることへの感謝を忘れてはなりません。
 牡丹だけでなく石南花も満開でしたが、そこまではなかなか手が回らない、とのことでした。

 

  

 次に、近鉄電車と奈良交通バスを乗り継いで、宇陀市の室生寺に向かいます。真言宗室生寺派総本山で、近年まで女人結界を定めていた高野山に対して、女性にも参拝を認めていたことから、「女人高野」と呼ばれています。

 

 室生寺の石南花も満開でした。平日だからなのか人が少なく、撮影スポットの五重塔前の石段と、仁王門を入ってすぐの所にある鎧坂の石段で、人が写り込まない写真が撮影できました。

 

 

 室生寺は、隆光僧正の口添えで、五代将軍・綱吉の母・桂昌院の命により興福寺から分離独立しました。そこで、境内には桂昌院を供養する五輪塔と 隆光僧正の石碑があります。
 桂昌院塔は案内板に記載されているのですが、隆光の石碑は記載がありません。受付の人に尋ねたところ、お二人とも隆光僧正と言う僧をご存じありませんでした。いくら生類憐れみの令で理不尽な批判を受けた隆光であっても、この扱いは寂しい限りです。探した結果、石碑は五重塔の横にある石段を上がって右に回る手前にありました。

【桂昌院を供養する五輪塔】

 

【隆光僧正の石碑】

 

 室生寺の拝観を終えた後、次のバスまで時間があったので、東に1kmほど室生川を遡ったところにある室生龍穴神社に参拝しました。

 


 この神社の奥に吉祥龍穴があるのですが、神社の奥は神域なので行けないものと思い込んでいました。しかし、室生口大野駅前にある観光案内所の方に尋ねたところ、林道を歩けば行けることが分かったので、龍穴にも向かいました。林道が通行止めになる手前で左に降りれば良いのです。古代から龍神が住む神聖な「磐境」とされて来ただけあり、厳かな気分になります。林道では、練馬ナンバーと品川ナンバーの自動車がすれ違っていました。帰りに観光案内所の人に尋ねたところ、“パワースポットとして有名で、室生寺には参拝せず龍穴にだけ寄る人もいる”とのことでした。
 この龍穴については、興福寺・猿沢池とつながっており猿沢池のケガレを嫌った龍が移ってきたとの伝説もあります。

 

 天候にも恵まれ、最高の状態で長谷寺の牡丹・室生寺の石南花を堪能できました。

2021年04月19日

神姫観光「京丹後縦断トレイル「経ヶ岬→宇川」」(京都府京丹後市)

 令和3年4月14日(水)、神姫観光のバスツアー「京丹後縦断トレイル」の第一回「近畿最北端・経ヶ岬~宇川温泉」に参加しました。
 このツアーは、神姫観光と京丹後市観光公社がコラボレートしたものです。京都府京丹後市内の山陰海岸ユネスコ世界ジオパークを中心としたウォーキングコースを八回に分けて、まちづくりサポートセンターに所属する地元ガイドさんの案内で歩きます。

 毎回、地元の食材を使った手作り弁当が付き、ウォーキングの後には地元の温泉に入浴できます。

 

 第1回は、近畿最北端にある経ヶ岬から宇川温泉まで歩きます。姫路市から出発地点の経ヶ岬まで4時間弱かかりました。 

 

 小雨が降る中、経ヶ岬を一周します。海から見た柱状節理が経巻を立てたように見えることから、こう名付けられたそうです。奈良県曽爾村だと鎧(よろい)に見立てて鎧岳・兜岳ですから、海と山とでの違いが興味深いです。

 


 経ヶ岬灯台は近畿の最北端に位置しており、1898(明治31)年に設置された全国で6基しかない第一級灯台です。かつては灯台守の人がいましたが、今は無人です。

 

 経ヶ岬を一周してから昼食を済ませて、西の宇川をめざします。


 最初は、日本の棚田百選に選定された袖志(そでし)の棚田です。400枚の棚田が広がっており、棚田・集落・海が調和しているのが特徴です。田圃に水が張られた時に海に沈む夕陽を眺めると絶景だそうです。


 穴文殊(清涼山九品寺)で休憩します。立派な参道ですが、周囲を在日米軍経ヶ岬通信所と航空自衛隊経ヶ岬分屯基地に囲まれており、今は山門と小さなお堂が残るだけです。


 中浜は中浜漁港にある港町で、酒屋と一体化した旧郵便局や共同水場などレトロな建物が遺されています。

 

 中浜海岸の西には、黒っぽい石がゴツゴツと飛び出した崖や島があります。熱い溶岩が海水で急に冷やされてできたものだそうです。


 最後は、宇川(吉野川)沿いにある宇川温泉 よし野の里 で入浴です。2021(令和3)年4月にリニューアルオープンしたばかりです。低張性アルカリ性高温泉の源泉掛け流しです。露天風呂の傍らには八重桜が咲いており、小雨の中を歩いて冷えた体を温めることができました。

 

 小雨が降り続く中でしたが、自然を楽しみながら海岸線を歩くことができました。
 ガイドの方が言われていたように、晴れていれば、さぞ青い空と紺碧の海が見事なことでしょう。5月の第2回では宇川から大成(おおなる)古墳群まで歩く予定で、五月晴れを期待しています。

2021年04月14日トレッキング:トレッキング

ヤマサ蒲鉾「芝桜の小道」、姫路城「千姫ぼたん園」(姫路市)

 令和3年4月12日(月)午前、姫路市の自宅近くで、芝桜と牡丹を楽しみました。

 最初に、姫路市夢前町にあるヤマサ蒲鉾「芝桜の小道に行きました。開園時間は午前9時~午後5時で、入園料・駐車料とも無料です。
 入口周辺は満開です。これほど大規模な芝桜を見るのは初めてなので、その見事さに驚きました。上の方には看板娘「さっちゃん」もいます。午前9時の開園直後だったからでしょうか、関係者の方が草引きをしておられました。

【入口周辺】

 


【芝桜と さっちゃん】

 


【草引きをされている人】


 入口周辺だけでも充分に満喫できたのですが、奥にある芝桜広場にも行きました。
 こちらは、さらに大規模に植えられています。五分咲きとのことですが、満開に近いように見えました。さっちゃん の芝桜もありましたが、こちらは咲始めでした。

【芝桜広場】

 

【さっちゃん の芝桜】 


 なお、「芝桜の小道」は工場の南にありますが、北には12,000㎡の「蓮の花苑」があり、7月には蓮の花を楽しむことができます。

【蓮の花苑】

 

 夢鮮館で買い物を済ませた後、姫路城「千姫ぼたん園」に向かいます。
 三の丸広場の西にある高台で、藩主が家臣との面談や政務を行った御居城(御本城)があった場所です。かつては、長屋・多門櫓が巡り、大広間・書院・御居間が続いていたそうです。西側の堀端には、その名残が残っています。
 例年なら4月下旬に「千姫ぼたん祭り」が開催されるのですが、コロナ禍のために今年は中止です。
 赤・白・紫など様々な色の牡丹が咲き始めています。ボランティアガイドの方に聞くと、例年より開花が2週間ほど早いそうです。
 なお、ここは「城外」なので、登城料は要りませんし、いつでも見ることができます。

【千姫ぼたん園】

 

 

 令和3年は、花の開花が例年より早いので全体的に慌ただしいのですが、一足早く芝桜と牡丹の花を楽しむことができました

2021年04月12日

京都大学阿武山地震観測所・阿武山古墳(大阪府高槻市)

 令和3年4月10日(土)、京都大学・阿武山観測所の一般見学会に参加しました。この観測所は1930(昭和5)年、「阿武山地震観測所」として高槻市北方の阿武山(あぶやま、218m)の山頂から南の延びる尾根の上に創設されました。土曜日と日曜日に事前予約制で見学会が行われていることを知り、申し込んだのです。

【案内リーフレット】

 

 JR摂津富田駅前から15分ほど路線バスに乗り、停留所から30分ほど歩けば観測所です。観測所としての役割は終えており解体の話もあったのですが、大阪府の「注目すべき近代化遺産」であることから保存されることとなり、2014(平成26)年に耐震工事・施設改修を行ったうえでサイエンスミュージアムに生まれ変わりました。
 
【観測所の建物】

 

 一般見学会の運営は、全てボランティアの方により行われています。
 最初に「地震学の歩み講座」で地震に関する基礎的な知識を学びます。かつての大阪平野は全てが平地でしたが、地震により100万年かけて1,000mの段差が生じました(1,000年に1m、六甲山は932m)。現在の平地は川の土砂などが集積した結果だそうです。
 次に地下の歴代地震計展示室に移動します。1898(明治31)年の大森式、1934(昭和9)年の佐々木式など貴重な地震計が並んでいます。

【大森式地震計】

 

【佐々木式地震計】

 

 その後、屋上に上がります。すばらしい眺望で、南には生駒山や葛城山、金剛山、西には六甲山や淡路島が見えます。

【生駒山、葛城山、金剛山】


【六甲山・淡路島】

 

 建物の説明はありませんが、吹き抜けになった塔や階段、タイルを貼った玄関の丸柱など趣があります。

【塔】

 

【玄関】


 最後は、ミニプログラムです。テーマは建物、古墳、植物などその日によって違いますが、今日のテーマは阿武山古墳でした。
 この古墳は、1934(昭和9)年4月、観測所の北に位置しており、地震観測用のトンネルを掘削している際に発見されました。横口式石槨の中央には、黒漆塗りの夾紵棺(きょうちょかん、何枚もの布を漆で塗り固めて作られた棺)が安置され、棺の中には遺骸や大量の金糸などがあったそうです。
 しかし、発見した理学部の志田順教授と考古学教室の濱田耕作教授との間で調整がつかず、9月には夾紵棺や遺骸などは白木の外箱に入れられ、埋め戻されてしまいました。
 ただ、志田教授は秘密裏にエックス線写真を撮影しており、それが1982(昭和57)年に発見されたことから、京都大学考古学研究室は阿武山古墳エックス線写真研究会を発足させて研究を続けた結果、(1)大織冠と推定される冠帽の存在、(2)被葬者は40~60歳で身長164.6cm、(3)高所からの転落が死因であることなどが判明しました。
 こうしたことから、藤原鎌足の墓である可能性が高いとされています。

【石槨内の夾紵棺】

 

【夾紵棺の内部】


 阿武山古墳は盛り土を持たず、尾根の先端部に溝をめぐらせて直径82mの範囲が墓域として区切られており、墓室がある中心部はウバメガシで囲まれています。

【現在の阿武山古墳】

 

 今回の一般見学会では、地震の勉強をするだけでなく、レトロな建物の内部を見学し、さらに阿武山古墳に関する知識を深めることができました。

2021年04月10日

毎日新聞旅行「屏風岩から住塚山・国見岳」(奈良県曽爾村)

 令和3年4月8日(木)、毎日新聞旅行「屏風岩から住塚山・国見岳(奈良県曽爾村)」に参加しました。毎日新聞旅行には一般の旅行部門とは別に山岳専門の添乗員による「毎日山の旅」があり、いろいろな山に行けるのです。
 姫路市から公共交通機関を使って日帰りで奈良県の山に行くのは難しいのですが、「毎日山の旅」だとJR大阪駅近くからバスが発着するので便利です。今回は姫路駅を午前6時12分に出る新快速を利用しました。
 曽爾村(そにむら)は奈良県の北東部に位置しており、三重県と隣接しています。ススキで有名な曽爾高原の他、鎧岳・兜岳、古光山(こごやま)・後(うしろ)古光山などがあります。

【コース】


 マイクロバスで屏風岩公苑に向かいます。屏風岩直下の窪地では古木の山桜が花を咲かせています。七分咲きですが、それでも例年より十日ほど早いそうです。NHKのテレビカメラも取材に来ていました。目的地である住塚山・国見山は屏風岩の北にあるので、ここからは見えません。

【山桜と屏風岩】


 杉の植林の間を縫う急な登山道を登ります。

【登山道】

 

 坂道を登り切ると一ノ峰の鞍部で、ここから尾根道を進むと住塚山(すみずかやま、1,009m)山頂に着きます。

【住塚山(国見山から)】


 山頂は展望が開けており、北には国見山(1,016m)、屏風岩の南には高見山(東吉野村、1,248m)が見えます。

【国見山】

 

【高見山】


 尾根道を北に下るとゼニヤタワで、ここから露岩を急登してやせ尾根を進めば国見山山頂です。ススキが生い茂っていて眺望が良く、鎧岳・兜岳や古光山・後古光山・曽爾高原が見えます。

【国見山山頂近くの露岩】


【古光山・後古光山・曽爾高原】


 ここから急な階段道を北に下ってクマタワに向かいます。クマタワからは林道となり、近くまでマイクロバスが来てくれていたので、1時間ほどの林道歩きが不要となりました。

【マイクロバス】


 下山後は曽爾高原温泉「お亀の湯」に向かいます。ナトリウムー炭酸水素塩温泉で登山の疲れを癒します。露天風呂からは山桜越しに鎧岳などが望め、鶯の鳴き声も聞こえて来て、いつまでも入浴していたい気分です。

【お亀の湯】


 天候にも恵まれ、初春の山歩きを楽しめた一日でした。 

2021年04月08日

令和3年の桜

 桜は早くに散ってしまいましたが、今年ほどいろいろな場所で桜を見た年はありませんでした。整理してみると、次のようになります。
 
 3月20日(土)に吉野山へ行き、如意輪寺の満開の枝垂桜に驚きました。

 

 その後、金峯山寺に参詣しましたが、妙宝殿を望む山桜は咲き始めでした。


 3月23日(月)に福井県敦賀市の金ヶ崎で見た桜は、咲始めでした。


 3月25日(木)の姫路市安富町「奥播磨かかしの里」では咲き始めでした。

 

 その後に行った姫路城の西「千姫の小径」は三分咲きでした。

 

 3月26日(金)の姫路城では、五分咲きになりました。


 3月27日(土)の奈良公園「荒池」は、満開間近でした。


 3月29日(月)の兵庫県佐用町「光福寺」の樹齢300年近い枝垂れ桜は、散り始めていました。


 3月31日(水)の滋賀県長浜市「小谷城跡」は、五分咲きでした。


 4月1日(木)の滋賀県高島市「海津大崎」は、満開でした。


 その後に行った彦根市「佐和山城跡」も、満開でした。


 4月2日(金)の滋賀県大津市「琵琶湖疎水」も、満開でした。


 4月3日(土)の姫路城は散り始めており、三国堀には花筏が浮かんでいました。


 4月3日(土)夜の姫路城夜桜会の枝垂れ桜は、満開でした。


 4月4日(日)の奈良市「西大寺」では、御衣黄(ぎょいこう)が満開でした。


 4月4日(日)の平城宮跡では、ソメイヨシノが散り始めていました。


 4月5日(月)の兵庫県丹波市青垣町「さくらづつみ回廊」では、散り始めていました。

2021年04月07日

近畿文化会「光明皇后・孝謙(称徳)天皇 女性二代」(奈良市)

 令和3年4月4日(日)、コロナ禍で中止が続き、久しぶりに再開された近畿文化会の臨地講座「光明皇后・孝謙(称徳)天皇 女性二代」に参加しました。講師は帝塚山大学教授の鷺森浩幸先生で、2020年に『藤原仲麻呂と道鏡』(吉川弘文館)を出版されたほか、『姫路市史 第二巻』に「大和王権時代の播磨」を書いておられます。


 孝謙天皇は、聖武天皇と光明皇后の間の女子で、聖武天皇が出家したのを受けて即位しました。その後、淳仁天皇に譲位しましたが、惠美押勝の乱の後に重祚して称徳天皇となりました。宮内庁が治定する陵は高野陵(奈良市山陵町)ですが、前方後円墳なので時代が合いません。西大寺に伝わる伝承では、鷹塚山地蔵尊がある丘陵(奈良市西大寺高塚町)が称徳天皇陵となっているそうです。近鉄菖蒲池駅から東に向かって歩いていた時には気づかなかったのですが、ここから東を見ると素晴らしい眺望が広がり、称徳天皇が開いた西大寺や聖武天皇が開いた東大寺も見えます。位置的には、ここが称徳天皇陵でもいいと思います。

 

 ここから鋳物師(いもじ)池跡に行きます。西大寺にあった金堂四天王像が鋳造された場所とされています。

 

 次は西大寺です。孝謙太上天皇は惠美押勝の乱の平定を祈願して四天王像の造立を発願し、四王堂に安置されました。現在、四天王像は失われて足元の邪鬼だけが残っています。この状況を、會津八一は「まがつみは いまのうつつに ありこせど ふみしほとけの ゆくへしらずも」と詠んでいます。


 昼食後は、称徳天皇高野陵、平城宮大極殿・東院庭園を経て、法華寺「阿弥陀浄土院跡」に向かいます。正倉院文書には法華寺の金堂の造営に関わる記載があり、この金堂が法華寺・阿弥陀浄土院のいずれか議論があります。鷺森先生は、光明皇太后の生前に遡る阿弥陀浄土院説に立たれます。


 その後、光明皇后の発願による法華寺に参拝します。光明皇后の父・藤原不比等邸→光明皇后宮→宮寺→法華寺 と変遷しています。本尊「十一面観音立像」は明治時代には奈良時代作と考えられていましたが、今では平安時代初期だとされています。ただ、お寺では今でも、生前の光明皇后の姿を写した仏像だとしておられ、写真家・入江泰吉夫妻建立による會津八一の歌碑も「ふぢはらの おほききさきを うつしみに あひみるごとく あかきくちびる」となっています。春の特別開扉時期だったので、赤い唇を確認することができました。また、ひな会式の期間でもあり、十一面観音様の前に並ぶ55体の善財童子も拝観することができました。


 最後は、海龍王寺です。平城遷都に際して藤原不比等は土師氏から土地を譲り受けて邸宅を構えましたが、北東隅にあった寺院は残しました。この寺院が海龍王寺の前身であり、「隅寺」とも呼ばれる所以です。なお、平城京には条坊制が採用されているのですが、南北の大路(坊)が海龍王寺を避けて手前で右(東)に曲がっており、藤原不比等の権力を感じます。ここでも、本尊「十一面観音立像」(光明皇后が自ら刻まれた十一面観音像をもとに、鎌倉時代に慶派の仏師により造立)が特別開帳されており拝観できました。


 雨の中ですが、久しぶりに奈良市の中心部をゆっくりと楽しむことができました。

2021年04月04日

神姫観光「小谷城跡」(滋賀県長浜市)

 令和3年3月31日(水)、神姫観光のバスツアーで小谷城跡(滋賀県長浜市)に登りました。
 戦国ガイドステーションから番所跡までマイクロバス「小谷城バス」で行き本丸周辺を散策したことはあるのですが、麓から尾根を登り、屋敷跡がある清水谷(きよみずだに)を下りたかったのです。
 小谷城の初代城主は浅井亮政(あざい すけまさ)で、子の久政、孫の長政と浅井氏三代にわたる居城となりましたが、1573(天正元)年に織田信長の攻撃を受けて落城しました。


【小谷城のイラスト】


 最初に小谷城歴史資料館で概要の説明を受けた後、ボランティア・ガイドさんの案内で追手道を登ります。

 

【歴史資料館から望む小谷城跡】

 

 最初の番所跡は城郭主要部への入口にあります。


【番所】

 

 展望所からは、織田信長が陣を置いた虎御前山が目の前に見えます。


【虎御前山】

 

 さらに進めば主郭部最先端の曲輪跡・御茶屋跡で、庭もあったとされています。


【御茶屋】

 

 次は三方を高い土塁に囲まれた御馬屋跡で、中央には井戸もありました。ただし、実際に馬小屋があったかどうかは定かではありません。


【御馬屋】

 

【井戸】

 

 桜馬場跡は細長く削平された二段の曲輪からなり、素晴らしい眺望で琵琶湖が見えます。


【桜馬場】

 

【桜馬場跡から西の眺め】

 

 両袖に巨石群を構えた黒金御門(くろがねごもん)跡を過ぎると、大広間・本丸と大きな曲輪が連なります。


【黒金御門】

 

【大広間・本丸】


 大堀切を越えると、さらに中丸・京極丸・山王丸と続きます。小谷城にあった石垣の大部分は、豊臣秀吉により破壊されましたが、山王丸の東斜面には大石垣が残ります。


【大堀切】

 

【中丸・京極丸】

 

【山王丸の大石垣】


 ここから六つの寺の出張所があった六坊まで下った後、大獄(おおずく)城跡をめざして登ります。小谷山で最も高い場所にあることから、ここが初期の主郭だったと考えられています。


【山王丸から見た大嶽城跡】

 

【大嶽城跡】

 

 帰りは六坊まで戻り、清水谷を下ります。家臣団の屋敷跡が続き、三田村屋敷の主は俳優・三田村邦彦の先祖だと言われています。


 【三田村屋敷】

 

 長政・お市が住んでいたとされる御屋敷跡を経て、歴史資料館に戻ります。


【御屋敷】

 

 清水谷の西にある尾根に築かれた福寿丸跡や山崎丸跡には行けませんでしたが、日本屈指の山城・小谷城の雄大さを実感できた一日でした。

2021年03月31日

日本遺産認定記念シンポジウム「葛城修験(大阪会場)」(大阪府泉佐野市)

 令和3年2月27日(土)午後、大阪府泉佐野市で開催された日本遺産認定記念シンポジウム「葛城修験」を聴講しました。2月13日(土)に奈良会場で開催された同じタイトルのシンポジウムに参加したのですが、基調講演講師の人選ミスなどで消化不良だったので、パネリストが豪華なこのシンポジウムにも参加することにしたのです。


 「日本遺産」とはストーリーを評価するもので、文化遺産の価値づけを行う「世界遺産」とは違った趣旨のものです。修験道とは山岳信仰に仏教などが集合した宗教のことで、役行者が開祖と仮託されています。修験道と聞いて最初に思い浮かぶのは世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の「吉野・大峰」ですが、その前に役行者が開いたのが「葛城修験」です。

 

 最初に犬鳴山 七宝龍寺(いぬなきさん しっぽうりゅうじ)の東條仁哲(とうじょう にんてつ)貫主が挨拶を兼ねて葛城修験の概要を説明されます。
 豪華な講師やパネラーは東條猊下の人脈で集められたようです。基調講演の講師である金峯山寺長臈の田中利典(たなか りてん)師に対して、“日本で一番修験道を勉強しているが、葛城修験の勉強だけが足りない”と苦言を呈されました。それだけ期待されているのでしょう。
 その田中師は、(1)修験道には①大自然が道場、②宗派を超えた実践仏教、③民衆の宗教、④神仏習合と四つの要諦がある、(2)葛城修験の日本遺産登録を機会に信仰や歴史・風土・文化を知ることで未来を創造することが大切など、分かりやすく説明されます。動画による修験の紹介、田中師と参加者が「六根清浄・懺悔懺悔」を唱和するなど40分では短すぎる多彩な内容でした。


 次の講師は、三井寺(園城寺)長吏の福家俊彦(ふけ しゅんげん)師です。
 豊富な画像を示しながら講演され、大峰修験と比べて葛城修験には(1)大峰の「密の峰(金剛界・胎蔵界)」に対して法華経による「顕の峰」、(2)参加しやすい巡峰修業、(3)里と山を結ぶ修行道場の特色があると説明されました。


 続くパネルディスカッションは、基調講演の講師二人に、作家・僧侶の家田荘子(いえだ しょうこ)さん(『極道の妻たち』の作者)、郷土史家の樋野修司さんが加わります。
 樋野さんが“前々から葛城修験は村の中を通る仕組みになっていると感じており、福家師の講演を聞いて意を強くした”と発言されます。
 これを受けて、福家師は“山伏は常民だけでなく被差別者を受け入れていた”と話を発展されます。
 さらに、田中師が、(1)「山の行より里の行」と言うように山の行だけを行うのは単なる仙人で里の行も行うのが山伏、(2)私は「紀伊山地の霊場と参詣道」を世界遺産にするために尽力したが当初は地元の人が吉野の価値に気づいていなかった、(3)葛城修験の日本遺産登録は地域が変わる大きな機会だ、と敷衍されます。
 家田さんは、僧侶として修業や布教をされるとともに、社会的に虐げられている女性の支援活動もされています。これに関して福家氏は“家田さんの活動は山伏の活動そのものだ”と評価されます。また、田中師は“家田さんは役行者が生きていると信じている「変わった人」(後で「特別な人」と訂正(笑))”と発言され、家田さんは“修業していると役行者様が次はあそこで一緒に修業しようと言われる”と見事に受け止められます。このようにパネラーの発言が有機的にかみ合っています。


 最後に、田中師が、(1)世界遺産登録の際にイコモスの人が「門番」の役割が重要だと言っていた、(2)日本遺産登録を契機に地域の人がクリエーターとして葛城修験のことを考えることが重要、ときれいにまとめられました。


 修験道一般や葛城修験への理解が深まっただけでなく、日本遺産登録を契機とした地域のあるべき姿についても考えることができた充実した一日でした。

2021年02月28日

ブログ始めました。

これまではFacebookに投稿していましたが長文になりがちで、キチンと読んでもらえているかどうか、不安に思っていました。こうしたなか、奈良に関する情報発信で有名なブログ「鹿鳴人のつぶやき」を運営しておられる松森重博氏から、ブログで発言すればどうか、とのアドバイスをいただきました。そこで、ウェブサイト「やいちの歴史探訪」を開設することにしました。

令和3年1月1日

 

2021年01月01日