邪馬台国の所在地に関しては、畿内ヤマト説と九州説が対立していますが、桜井市纒向学研究センター所長の寺沢薫先生が、『卑弥呼とヤマト王権』(中公選書、2023年)で新たな説を示されました。
①2世紀初め、北部九州を中心とする倭国(イト倭国)が誕生。
②3世紀初め、イト国連合・キビ国連合・イヅモ国連合等による新生倭国(ヤマト王権)が誕生。
③纒向に位置する邪馬台国は新生倭国の王都が置かれた場所に過ぎない(新生倭国≠邪馬台国)。
④卑弥呼は新生倭国の女王であり、邪馬台国の女王ではない。
③のヤマト王権を構成したキビ国連合の古墳を見たことがなかったので、令和5年7月4日(火)、造山(つくりやま)古墳群(岡山市、5世紀前半)などを訪ねました。JR総社駅から7.5km東方に位置するため、レンタサイクルを利用します。
古墳群の中心となる造山古墳は南を向いた前方後円墳で、墳長350mと日本で4番目の大きさです。
後円部には竪穴式石室があったと考えられますが、詳細は不明です。
後円部から東には、足守(あしもり)川流域に広がる平野が一望できます。この平野から古墳を見ると威容を誇っていたことでしょう。
北には古代山城「鬼ノ城」が見えます。
戦国時代には毛利方の砦として利用されました。土塁跡に上がれば、備中高松城が見えます。
前方部には荒神社が鎮座しており、一辺15~20mの高まりは、格式の高い「方形壇(ほうけいだん)」の可能性があります。
前方部にも埋葬施設があり、阿蘇ピンク石で作られた刳抜式石棺の身が置かれています。
小口には四角い突起が彫られており、畿内の長持型石棺の縄掛突起を真似たものと考えられています。
北側には、蓋の破片が残っています。
造山古墳の前方部の南には多くの陪塚(ばいちょう)が残っています。
墳長81mの帆立貝型古墳「千足古墳(第5古墳)」は令和5年度に復元整備され、埴輪が並んでいます。
後円部には二つの埋葬施設があり、南に開口した第一石室はガラス越しに見ることができます。
石棺の手前に、肥後の横穴式石室の特徴である石障があり、仕切り石には直弧文が彫られています。
せっかくの機会なので、JR総社駅から造山古墳群に向う途中、総社市にある作山(つくりやま)古墳と、こうもり塚古墳にも寄りました。
作山古墳(5世紀中頃)は、墳長280mの大きな前方後円墳ですが、丘陵を利用しているので①後円部が楕円形、②前方部がいびつなど、先にできた作山古墳に比べて完成度に劣ります。
こうもり塚古墳(6世紀)は、墳長100mの前方後円墳です。
全長19.4mの横穴石室は大きな石を使って築かれており、石棺は貝殻石灰岩(波形石)を使った吉備地方独特のものです。
真夏日と暑い一日でしたが、吉備地方の古墳の立派さを体感することができました。