吉野スタイル企画・吉野ビジターズビューロー主催「大海人皇子が越えたもう一つの峠を歩く」(奈良県吉野町)
令和3年11月6日(土)、吉野スタイル企画・吉野ビジターズビューロー主催「大海人皇子が越えたもう一つの峠を歩く」に参加しました。平成24年から令和元年まで続けられた「スマイルバスで行くディープな吉野の旅」の復活第二弾です。
「もう一つの峠」とあるのは、令和2年の復活第一弾で、大海人皇子が吉野脱出の際に利用した「矢治(やじ)峠」を歩いたからです。
今回は、吉野宮の東に位置する国栖(くず)にある大海人皇子の伝承地を、国栖で生まれた育った今西一郎さんの案内で訪ねます。
吉野宮からこの地まで吉野川に沿って歩くと、川が二カ所で大きく湾曲しているため、随分と時間がかかります。
このため、昭和初期まで「うれし峠」を越える道が利用されていました。
「うれし峠」の名称は、浄見原(きよみはら)神社がある地で、大海人皇子が食して片腹になった魚を川に放り込んだところ泳いだので、吉兆なので「うれしい」と感じたことに由来します。
この道は荒れ果てていましたが、今西さんは地元の人たちの協力を得て整備されました。さらに、苦労して地権者の合意を得られているので、いつでも誰でも歩くことができます。
頂上とも言うべき「うれし峠辻」には地蔵堂が建っており、傍らには手作りの標識もあります。
ここから東に下れば国栖です。意外に短い距離で、そんなに急峻でもなく、実際に歩いてみると、“国栖の人々が大海人皇子のために用意した間道”とする今西さんの説にも説得力が感じられます。
昼食は、南国栖自治会館で中谷さんの弁当を頂きます。
毎年、旧暦正月14日に国栖奏が行われる浄見原(きよみはら)神社は、大友皇子から逃れた大海人皇子が隠れた場所に創建されたと伝えられます。
ここで、国栖奏保存会長の辻内さんから説明を聞きます。国栖奏は舞翁2人・笛翁4人・鼓翁1人・謡翁5人の12人で行うのが原則で、辻内さんは全て経験されています。写真は舞翁をされていた時のもので、向かって右の方です。
次は吉野川と高見川が合流する「ババ川原」です。能「国栖」で、大津皇子から逃れた大海人皇子を翁が伏せた舟の中に隠す場面の舞台となっています。
この後は、国栖小学校跡地に地域の方々が整備された「くにすの森」に行き、大西さんから話を聞きます。随分と整備されているので前回来たのは数年前だと思ったのですが、わずか一年前でした。
傍らには「犬塚」があります。地元では、舟の中に隠れた大海人皇子を見つけようとした犬を翁が殺して葬った場所だとされています。このため、地元の窪垣内(くぼがいと)では今も犬を飼う家がないそうです。
その後、大海人皇子が伝えたと伝承される「吉野手漉き和紙 宇陀紙(うだがみ)」の福西和紙本舗に行きます。ちょうど六代目当主の福西正行さんがおられて、お話が伺えました。
一代限りの人間国宝(重要無形文化財保持者)と違い、「表具用手漉和紙(宇陀紙)製作」選定保存技術保持者は、保存技術を伝えて行く必要があります。また、宇陀紙は表具裏打ち用ですが、巻物を巻くと表面と密着するので保存のためにも高品質が求められるそうです。
最後は、「くにす食堂」で珈琲をいただきます。愛知県から移住した糟谷(かすや)さんが古民家を改装して営む小さな店ですが、人気店です。糟谷さんは、これからの国栖を担うホープだそうです。
国栖に対して知識と熱意を持つ今西さんの案内で、大海人皇子をキーワードとしたディープな国栖の旅を楽しむことができました。