吉野ビジターズビューロー「吉野ゆかりの天皇陵を巡る」(奈良市→奈良県明日香村→吉野町)

 令和4年5月15日(日)、吉野ビジターズビューロー「吉野ゆかりの天皇陵を巡る」に参加しました。講師は、大淀町学芸員の松田度さんで、ライフワークが天皇陵古墳の研究です。
 北の奈良市を出発して明日香村を経て吉野町に向かいますが、巡るのが全て吉野宮に行幸した天皇陵と言うこだわりようです。


 最初に訪れるのは、元正天皇「奈保山西陵」です。元正天皇は平城遷都した元明天皇の娘で、夭折した文武天皇の姉に当たります。

 

 平城京では、京域内に葬地を設けることが認められませんでした。そこで、京域の北端に隣接する佐保山丘陵に天皇陵を設けました。
 したがって、当初の元正天皇陵は供養塔のようなものであり、墳丘ではなかったと考えられます。ちなみに、宮内庁のウエブサイトでは「山形」となっています。
 近くには、元明天皇「奈保山東陵」がありますが、吉野宮に行幸していないので寄りません。

 


 南に移動して、同じ佐保山丘陵に位置する聖武天皇「佐保山南陵」に行きます。
 ①この地が選ばれた理由、②墳丘でないことは、元正天皇陵と同じです。


 ここから、昼食会場の道の駅「レスティ唐古・鍵」(田原本町)に向かう車中で、松田さんが興味深い話をされました。
(1) 吉野宮造営に際して三輪山から勧請されたオオアナムチは「南山の九頭龍」とも呼ばれ、聖武天皇は疫病退散を願って宮滝で祭祀を行った。
(2) 日が昇る三輪山が龍の頭、日が沈む二上山が尾とされ、両者の中間に位置する田原本町には「蛇巻きの行事」が残っている。


 昼食後、明日香村に向かう車中でも、「飛鳥と吉野はコインの裏表」として興味深い話がありました。
(1) 飛鳥は大和川水系、吉野は吉野川水系に属する。
(2)飛鳥では両槻宮(ふたつきのみや、酒船石・亀形石造物)や飛鳥京苑池で水の祭祀が行われ、吉野では宮滝で水の祭祀が行われた(宮滝醤油の駐車場は苑池跡)。
(3)両槻宮と吉野離宮の両方を造ったのが斉明天皇

 飛鳥では最初に、斉明天皇陵であることがほぼ確実である八角墳「牽牛子塚古墳」に行きます。
 前面に凝灰岩切石を貼った復元方法に関して賛否両論ありますが、松田さんは「古墳を守るためのヘルメットだと思えば良い」と言われます。確かに、明日香村作成のリーフレットにも《復元した外観は墳丘を保護するためのシェルターの役割を果たしています。》と書かれています。
 墳頂が平らなことに関しては、ストゥーパ(塔)が建っていたからではないかと説明されます。

 

 次に、天武天皇の孫の文武天皇陵であることがほぼ確実である「中尾山古墳」に行きます。
 場所としては、壁画で有名な高松塚古墳より中心に近い位置にあります。

  今は荒れた状態ですが、発掘調査で八角墳であることが確実になり、今後、整備が進むそうです。

 

 

 飛鳥の最後は、天武・持統天皇陵です。周囲を回って八角形であることを確認します。

 

 ここで、松田さんは大胆な推論を示されます。
(1) 持統天皇は自らが完成させた藤原宮の高御座から八角墳を考えた。
(2) したがって最初の八角墳は天武・持統陵で、それ以前の舒明天皇陵や牽牛子塚古墳は遡って八角墳に改変された。

 最後は、吉野町の後醍醐天皇陵古墳です。
 後醍醐天皇が吉野に来られた理由について、吉野の持つ底力に魅かれたのではないかと説明されます。
 後醍醐天皇陵については、『太平記』に《魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ》とあることから、京都のある北を向いていると言われています。これに対して、私は、他にも敏達天皇陵のように北面している(遥拝所が南向き)天皇陵があることから疑問に思っていました。
 この疑問に関して、松田さんから明確な説明がありました。
(1) 後醍醐天皇は火葬されたので、骨壺を収める塔が如意輪寺の前身寺院にあった。
(2) 17世紀半ばの後醍醐天皇ブームの中で、新たに墳丘が築造された。
(3) その際に『太平記』に記述を受けて南向きの遥拝所を設けた


 松田さんの深い学識に基づく分かりやすい説明を聞きながら、吉野ゆかりの天皇陵を巡ることができました。
 松田さんは、吉野山に関して幾つもの引き出しを持っておられるようなので、次回は、如意輪寺・吉野水分神社などディープな吉野山を探訪するツアーを期待します。

2022年05月15日|古墳:その他|歴史:中世, 古代, 古墳時代|奈良県:その他, 吉野郡, 奈良市