般若寺、薬師寺(奈良市)
令和3年6月13日(日)午前、法性山 般若寺(奈良市)に参拝しました。
735(天平7)年、聖武天皇が平城京の鬼門(北東)を守るため、『大般若経』を基壇に収めた卒塔婆を建てたのが寺名の起こりとされています。
学問寺として栄えていましたが、平安時代後期に平重盛の南都焼打により建物が灰塵に帰しました。
しかし、鎌倉時代に、興正菩薩叡尊上人が再興し、その時の西門が国宝「楼門」として残っています。以前は扉が開いていましたが、老朽化が激しいからか、今は閉じられています。
鎌倉時代後期には南朝側に与したので、後醍醐天皇の勅願により、本尊の重文「八字文殊菩薩像」が作られました。
また、笠置城が落城した際、後醍醐天皇の皇子・護良親王が般若寺に逃げ込んで身を隠したと伝えられています。こうしたことから、供養塔が建てられています。
鎌倉時代の遺物としては、重文「十三重石宝塔」「笠塔婆」「一切経蔵」があります。
近年は「コスモス寺」としても有名で、今は、初夏咲きコスモスだけでなくヤマアジサイも見頃を迎えています。
小雨がそぼ降っているにも関わらず、たくさんの人がいました。午後、コスモスを植えることを発案された工藤良仁師とお会いしたので話したところ、土曜日にテレビとラジオで報じられたので多くの人が来て大変だ、と言っておられました。
般若寺の横を走る「奈良坂」には「夕日地蔵」が建っており、會津八一は《ならざかの いしほとけの おとがひに こさめながるる はるはきにけり》と詠んでいます。歌碑が般若寺にあり、ちゃんと周囲の草が刈られていました。
その後、法相宗大本山 薬師寺に行きました。
国宝「東塔」は2009(平成21)年7月から全面的な解体大修理事業が行われ、2020(令和2)年に落慶しました。コロナ禍により落慶法要は行われていませんが、2021(令和3)年3月から初層東面の特別開扉が行われているのです。立派な心礎でした。
1300年間、塔の上にあった水煙は、その役目を終えて地上へ降ろされて、再建された西僧坊で公開されています。
この水煙を會津八一は《すゐえんの あまつをとめが ころもでの ひまにもすめる あきのそらかな》と詠んでおり、その24体(3体×4面)の飛天も拝見することができました。
再建された西塔の北側には、この歌を彫った石碑があります。
かつて東塔の北にあった佐佐木信綱の歌碑は、工事に際して西塔の北に移されて八一の歌碑と並んでいますが、今後どうなるのか気になります。
この後、歩いて垂仁天皇陵を経て西大寺へ向かう予定でしたが、時間がなくなってしまい、西ノ京駅から近鉄に乗りました。