文全協歴史講座「奈良市菅原遺跡を考える」

 令和3年9月25日(土)午後、奈良県教育会館で行われた文化財保存全国協議会の歴史講座「行基の供養堂か ―奈良市菅原(すがわら)遺跡を考える―」を聴講しました。 この歴史講座は、住宅開発により菅原遺跡が破壊されようとしていることに對應して行われたものです。

 

☆菅原遺跡
 令和3年5月、奈良県から、奈良市菅原遺跡で大規模な回廊に囲まれた円形建物遺構が出土した旨が発表されました。

 

 

 この遺跡は、①東に平城宮大極殿や東大寺、②南に唐招提寺や薬師寺、③麓に喜光寺(菅原寺)などが見える、平城京の西側の高台にありす。

 

 

 発見された遺構は、①中心建物は柱穴が円形に取り巻くもので、②その周囲を大規模な回廊が取り囲んでいます。


 創建年代については、出土した軒平瓦や土師器杯から8世紀中頃と推定されています。一方、溜池の構築など社会事業に貢献した行基が亡くなったのは749年です。
 さらに、昭和56年に南側隣接地で行われた調査で瓦葺・風鐸を持つ建物基壇が発見されていることから、一帯は行基が創建した「長岡院(ながおかいん)」である可能性が高いとされています。
 こうしたことから、発掘された円形遺構は行基の供養堂であったと推定されています。

☆「天平の20年と行基」(寺崎保広先生)
 奈良大学名誉教授の寺崎保広先生は、文献史学の立場から時代背景を語られます。

 

(1)行基は藤原不比等の時代以降、弾圧を受けており、長屋王首班時代も変わらなかった。
(2) 長屋王は官僚として優秀だったが、聖武天皇・光明皇后の間に生まれた某王が乳児で立太子することに反対したため、失脚した。長屋王邸跡は光明皇后宮となった。
(3) 聖武天皇が宮都を転々とさせた「彷徨の五年」は、長屋王の怨霊で天然痘が流行するなど平城宮が汚れてしまったと考えたから。
(4) 聖武天皇は仏教に帰依し(天皇と仏教の関係が逆転)、大仏造立を計画した。行基が協力したのは従来から行っている社会活動と一致したためであり、庶民を裏切り権力側に付いたという批判は当たらない。

☆「行基の活動と供養堂」小笠原好彦氏)
 滋賀大学名誉教授の小笠原好彦先生は、考古学の立場から大胆に自説を展開されます。


(1)聖武天皇は、河内・知識寺の毘盧遮那仏を見て行基集団の力量を知った
(2) 聖武天皇が行基を大僧正に抜擢して大仏造立の中心にした理由は、①力量を認めた、②既存仏教勢力の協力が得にくいの二点。
(3) 行基が大仏造立に協力したのは、聖武天皇から、没後の行基集団保護が約束されたから。
(4) 最初は甲賀寺で大仏造立を始めたが、地震で頭部が落下したので、縁起が悪いとして断念。
(5) 紫香楽宮では山火事が発生したので環都したが、その背後には元正皇太后。
(6) 東大寺での造立には良弁と菩提僊那が中心的な役割。非協力的な玄昉は太宰府・観世音寺に左遷。
(7) 菅原遺跡の供養堂を多宝塔と推定しているのは間違い。礎石でなく掘立柱にしたのは強風に耐えるため

 

(8)八角形の建物は、聖徳太子を祀る法隆寺「夢殿」、藤原不比等を祀る榮三寺「八角円堂」だけ。
 これに倣って、行基集団は八角円堂の行基供養堂を作った。

☆まとめ

 今回の講座を聞いて、菅原遺跡の重要性を再認識しました。
 しかしながら、住宅開発工事により、菅原遺跡は既に破壊されてしまっているそうです。
 文化財保護法では、開発に伴う発掘調査は破壊を前提として「記録保存」するために事業者の費用負担で行うものですから、業者を一方的に責めることはできません。
 今回の事件を教訓に、小笠原先生が提案されていたように、重要な遺跡は国の補助を受けて地方自治体が買い上げて保存する仕組みができることを期待します。 

2021年09月25日|建造物:寺院|歴史:古代|奈良県:奈良市