近畿文化会「光明皇后・孝謙(称徳)天皇 女性二代」(奈良市)

 令和3年4月4日(日)、コロナ禍で中止が続き、久しぶりに再開された近畿文化会の臨地講座「光明皇后・孝謙(称徳)天皇 女性二代」に参加しました。講師は帝塚山大学教授の鷺森浩幸先生で、2020年に『藤原仲麻呂と道鏡』(吉川弘文館)を出版されたほか、『姫路市史 第二巻』に「大和王権時代の播磨」を書いておられます。


 孝謙天皇は、聖武天皇と光明皇后の間の女子で、聖武天皇が出家したのを受けて即位しました。その後、淳仁天皇に譲位しましたが、惠美押勝の乱の後に重祚して称徳天皇となりました。宮内庁が治定する陵は高野陵(奈良市山陵町)ですが、前方後円墳なので時代が合いません。西大寺に伝わる伝承では、鷹塚山地蔵尊がある丘陵(奈良市西大寺高塚町)が称徳天皇陵となっているそうです。近鉄菖蒲池駅から東に向かって歩いていた時には気づかなかったのですが、ここから東を見ると素晴らしい眺望が広がり、称徳天皇が開いた西大寺や聖武天皇が開いた東大寺も見えます。位置的には、ここが称徳天皇陵でもいいと思います。

 

 ここから鋳物師(いもじ)池跡に行きます。西大寺にあった金堂四天王像が鋳造された場所とされています。

 

 次は西大寺です。孝謙太上天皇は惠美押勝の乱の平定を祈願して四天王像の造立を発願し、四王堂に安置されました。現在、四天王像は失われて足元の邪鬼だけが残っています。この状況を、會津八一は「まがつみは いまのうつつに ありこせど ふみしほとけの ゆくへしらずも」と詠んでいます。


 昼食後は、称徳天皇高野陵、平城宮大極殿・東院庭園を経て、法華寺「阿弥陀浄土院跡」に向かいます。正倉院文書には法華寺の金堂の造営に関わる記載があり、この金堂が法華寺・阿弥陀浄土院のいずれか議論があります。鷺森先生は、光明皇太后の生前に遡る阿弥陀浄土院説に立たれます。


 その後、光明皇后の発願による法華寺に参拝します。光明皇后の父・藤原不比等邸→光明皇后宮→宮寺→法華寺 と変遷しています。本尊「十一面観音立像」は明治時代には奈良時代作と考えられていましたが、今では平安時代初期だとされています。ただ、お寺では今でも、生前の光明皇后の姿を写した仏像だとしておられ、写真家・入江泰吉夫妻建立による會津八一の歌碑も「ふぢはらの おほききさきを うつしみに あひみるごとく あかきくちびる」となっています。春の特別開扉時期だったので、赤い唇を確認することができました。また、ひな会式の期間でもあり、十一面観音様の前に並ぶ55体の善財童子も拝観することができました。


 最後は、海龍王寺です。平城遷都に際して藤原不比等は土師氏から土地を譲り受けて邸宅を構えましたが、北東隅にあった寺院は残しました。この寺院が海龍王寺の前身であり、「隅寺」とも呼ばれる所以です。なお、平城京には条坊制が採用されているのですが、南北の大路(坊)が海龍王寺を避けて手前で右(東)に曲がっており、藤原不比等の権力を感じます。ここでも、本尊「十一面観音立像」(光明皇后が自ら刻まれた十一面観音像をもとに、鎌倉時代に慶派の仏師により造立)が特別開帳されており拝観できました。


 雨の中ですが、久しぶりに奈良市の中心部をゆっくりと楽しむことができました。

2021年04月04日