比叡山延暦寺(京都市・大津市)

 令和3年9月21日(火)、JR西日本「秋の関西1デイパス」(3,600円)を使って天台宗総本山「比叡山延暦寺」に参拝しました。電車・ケーブル・ロープウェイ・シャトルバスに乗れる京阪「比叡山チケット」が選べるので随分とお得です。因みに、JR姫路・京都間の往復運賃だけで4,620円かかります。

 

 延暦寺は、東塔(とうどう)西塔(さいとう)横川(よかわ)の三地区に分かれています。叡山電車の八瀬比叡山口からケーブル・ロープウェイを乗り継ぎ、比叡山頂駅から歩いて東塔地区に向かいます。

 

 最初に、東塔地区だけでなく全山の中心でもある仏堂「根本中堂」に参拝します。

 国宝「本堂」を三方から重文「回廊」が取り囲む構造です。

 

 今は、2016年から十年間の予定で大改修が行われているため、素屋根で覆われています。

 

 千二百年以上も灯し続けられる「不滅の法燈」や本尊「薬師如来立像は大日如来」は、素屋根の中で拝見します。最澄が唐から持ち帰ったと言われる二株の叢竹「石欄杆の竹」は、別の場所に移植されているそうです。
 ただ、中庭に「修学ステージ」が設けられており、修理現場を近くで見ることができ、写真撮影も可能です。瓦が外されたお堂や回廊を見ることができるのは、貴重な機会です。

 

 次は、重文「大講堂」です。元の建物は1956年に焼失したため、山麓の讃仏堂を移築しました。本尊は胎蔵界の大日如来坐像です。裏に回ると、金剛界の大日如来坐像が描かれています。

 

 戒壇院とは僧が受戒する場所で、当時は東大寺・筑前の観世音寺・下野の薬師寺の三寺にしかなかったため、最澄は東大寺で受戒を受けました。
 延暦寺に戒壇院が創建されたのは、最澄が入滅してから5年後です。今の重文「戒壇院」は江戸時代に再建されたものです。 
 今年は「伝教大師 最澄 千二百年大遠忌」なので、初めて内部が公開されます。説明役のお坊さんがおられて、いろいろと興味深いお話を伺えました。例えば、最澄の二百年前に亡くなった聖徳太子と最澄は、ともに唐の高層の生まれ変わりとの伝承があることなどです。
 戒壇院は全山でも特別な場所であり、次に公開されるのはいつか分からないとのことです。

 

 1986年再建の「法華総持院」も特別公開されていました。
 堂内正面には胎蔵界大日如来五仏がおられます。


 「国宝殿」は、最澄が“道心ある者こそ国の宝”と述べたことに因んで、延暦寺で育った優位な人材「国宝」との関わりの中で生まれた文化財を収めています。文化財保護法の「国宝」を収めるものではありません。
 たくさんの仏様がおられますが、小振りの重文「千手観音菩薩立像」が印象に残りました。

 

 ここから樹林に囲まれた参道を歩いて西塔地区に向かいます。
 浄土院には最澄の御廟があり、最も神聖な領域です。

 

 常行堂法華堂は廊下で結ばれており、その廊下を天秤棒にして弁慶が担いだとの伝承から、「にない堂」とも呼ばれています。向かって右にある法華堂では修行が行われていました。

 

 中堂の役割を担う重文「釈迦堂」には、最澄が彫ったと伝えられる秘仏の重文「釈迦如来立像」が祀られています。
 この建物は、園城寺(大津市)の弥勒堂を移築したものですが、戒壇院におられたお坊さんによると、“建物を守るために豊臣秀吉が園城寺から延暦寺に強制的に移築させた”とのことでした。

 

 少し足を延ばして、相輪を幢柱(とうちゅう)に取り付けた重文「相輪橖(そうりんとう)」と、高さ2mの石仏「弥勒菩薩坐像」を拝見しました。

 

 

 ここからシャトルバスに乗り、横川地区に向かいます。円仁(えんにん)が創建した「横川中堂」(よかわちゅうどう)は、織田信長の比叡山焼き打ちで焼損しており、1971年に一部懸造りで復元されました。本尊は円仁が彫ったとされる重文「聖観音菩薩立像」で、来春の京博「最澄と天台宗」に出陳される予定です。

 

 元三大師(がんさんだいし)良源の住居跡と伝えられる「四季講堂」(元三大師堂)はおみくじ発祥の地とされ、魔除けの護符として角大師(つのだいし)が授与されます。

 

 恵心(えしん)堂は、良源の高弟で『往生要集』を著した恵心僧都の住坊跡です。

 
 帰りは、シャトルバスなどを利用して下山しましたが、八瀬比叡山口駅に着いた時は暗くなり始めていました。

 

 やはり、延暦寺は一日で回るには広すぎました

2021年09月21日|建造物:寺院|歴史:中世, 古代|仏像:木彫像