近畿文化会「特別講演『法隆寺創建から見えるもの―考古学の視点で―』(田邊征夫先生)」

 令和3年8月29日(日)午後、大和文華館(奈良市)で近畿文化会の特別講演「法隆寺創建から見えるもの―考古学の視点で―」を聴講しました。
 講師の田邊征夫先生は、国立奈良文化財研究所の所長を務められた考古学者で、この講演は、考古学の視点から、創建法隆寺について考えると言う内容です。

 以下は、私が理解した範囲での講演概要です。


(1) 斑鳩宮・若草伽藍(創建法隆寺)
  601年、斑鳩宮の造営開始。
   605年、聖徳太子が居住。
  607年、創建法隆寺建立(金堂本尊「薬師如来」の光背銘文)。
  643年、斑鳩宮が焼失。
  670年、若草伽藍(創建法隆寺)が焼失(『日本書紀』)。


(2)若草伽藍(創建法隆寺)の解明

 

  『日本書紀』の記述の真偽をめぐって「法隆寺再建非再建論争」が勃発。この論争は、考古学だけでなく文献史学・建築史学・美術史・歴史地理学などよる学際的研究の発展に大きく寄与
  1939(昭和14)年の若草伽藍発掘調査
  (ア)門・塔・金堂が中軸線上に並ぶ「四天王寺式伽藍配置」であることが判明。 ただし、講堂跡や回廊跡は未発見。
  (イ) ①中軸線が西に20度傾いていること(今の西院伽藍の傾きは西に3度)、②若草伽藍と西院伽藍は同規模であることが判明。→ 再建説で決着


  (ウ)七世紀前半の瓦「単弁素弁蓮華文軒丸瓦、手彫り忍草(にんどう)文軒平瓦」を発見。→ 再建法隆寺(7世紀後半)の瓦は、「複弁蓮華文軒丸瓦、均整唐草文軒丸瓦」

 

  (エ)心礎は地上型(飛鳥寺は地中型)。
  (オ) 焼失の痕跡は未発見。
  1968~1969年の発掘調査
    ①若草伽藍建立時に流路を付け替え、②その流路を川を西院伽藍建立時に埋め立てたことが判明。

 

 

(3) 伽藍の立地と方位
  丘陵沿いに立地し、正方位をとらない
  (ア)斑鳩宮・斑鳩条里の方向と一致。
  (イ)西院伽藍は正方位に近い。

 

 

  飛鳥寺や四天王寺は正方位。

(4) 堂内の荘厳
 ア 平成の発掘調査で、南大門の南((2)ウで判明した川跡の延長)から、焼け土・焼け瓦・壁画片など若草伽藍焼失の明確な証拠が出土
  若草伽藍の金堂にも、再建法隆寺の金堂と同様に壁画(浄土変相図)が描かれていたと推測。

 

(5) 法隆寺造営の政治的背景
  大和川を遡って大和に入る交通の要所に立地(難波→亀の瀬→斑鳩→金屋(桜井市))。


  『日本書紀』によれば、608年、隋の使節・裴世清がこの経路を利用して飛鳥・小墾田宮へ到着。前年の607年に創建法隆寺が完成しているので、裴世清が船上から見た可能性あり。
  遣隋使にみる統一国家建設と倭国の思惑
  (ア) 最初の遣隋使が『隋書』には記載があるが『日本書紀』に記載がないのは、隋に説明した日本の風俗が恥ずかしかったからか。
  (イ) 第二回遣隋使が携えた国書にある《日出ずる処》《日没する処》は、対等の立場を示したものではなく、仏典『大智度論』に言い回しを借りただけ(東野説)。
  法隆寺造営の意図
  (ア)仏教的・文化的意図に加えて外交的意図

  (イ)都づくりと関連した伽藍造営を行った飛鳥寺や四天王寺とは違った役割。→太子の仏教に対する強い思いと人格を色濃く反映させた伽藍造営により、人びとの精神的支柱

(6) まとめ
  崇仏派が排仏派に勝利した背景には、仏教を国造りの基軸にした隋の影響
  天皇を中心とした中央集権的統一国家を作るうえで仏教は有効な思想政策
  寺院建築、特に壁画は仏教思想を視覚的に分かりやすく伝える役割
  仏教思想の下に国家体制を作っていることを隋に示す。
→ 法隆寺を始めとする初期寺院は、これらの重要な役割を担っていた。 

2021年08月29日|歴史:古代|奈良県:その他