近畿文化会「古市古墳群を歩く②」(大阪府藤井寺市、羽曳野市)
令和5年2月11日(土・祝)、近畿文化会「古市古墳群を歩く②(藤井寺市、羽曳野市)」に参加しました。講師は、大阪府文化財センターの森本徹さんです。
古市古墳群とは、4世紀前半~6世紀前半に大阪府南部の藤井寺市・羽曳野市に築造された古墳群で、堺市の百舌鳥古墳群と合わせて世界文化遺産に指定されています。
この古市古墳群に関して、森本さんは斬新な考えを持っておられます。その考えを聞きながら、北の津堂城山古墳から南に古墳を探訪します。
(1)大王墓が奈良盆地から百舌鳥・古市に移動したことに関して、①大和王権内で権力が移動したのではなく、②奈良盆地東南部を本拠とする有力者の 墓域が移動 しただけ。百舌鳥と古市は交互に造営されているので、一体のものと考える。
(2)治定が正しいかどうかは別として、 大王墓(天皇陵)が存在 したことは確実。
(3)①前方後円墳など 古墳の形は「家柄」 を、②大きさは「権力」 を示す。
(4)前期の津堂城山古墳は前方後円墳(墳長210m)だが、 試験的に造営 したもので(二重の周濠、三段築成、龍山石の石棺)、成功したので本格的に墓域を移動。
(5)中期は、東側に応神天皇陵(墳長425m)など大型前方後円墳を造営。大王墓と匹敵する大きさの墓山古墳(225m)の存在から グループ指導体制 だったと推測。
(6)後期は、西側に仲哀天皇陵(245m)などを造営。墳丘を小さくする流れの中で小さくなっているが、 大きさは相対的なもの で、大王の権力が低下したのではない。
(7)鉢塚古墳は、仲哀天皇陵の中軸線上に90度回転した位置にあるので、陪塚と推定。
(8)後期は グループ指導体制から大王に権力が集中 したので大王墓に次ぐ古墳がなくなる。
仁賢天皇陵は、北東を向いた墳丘長122mの前方円墳です。
清寧天皇陵(白髪山古墳、115m)の同軸線上には、陪塚・小白髪山古墳(46m)があります。
安閑天皇陵は、墳丘長122mの全歩後円墳で、近鉄古市駅の方向から見上げると大きく見えます。
(8) 白鳥陵(200m)の被葬者は倭建命ではないが、 大王墓 と推定。
古市古墳群は十年ぶりですが、体系的な説明を受けながら歩いて理解が深まりました。