近畿文化会「大寺の展開-百済大寺・大官大寺・大安寺を訪ねて-」(奈良県桜井市、明日香村、奈良市ほか)

 令和5年6月17日(土)、近畿文化会の臨地講座「大寺の展開-百済大寺・大官大寺・大安寺を訪ねて-」に参加しました、講師は、奈良県立橿原考古学研究所共同研究員の森下惠介先生です。
 ここで言う「大寺(おおでら)」とは、“大きな寺”ではなく“天皇の寺”を意味します。最初の大寺は639年に舒明天皇が創建した百済大寺(くだらのおおでら)で、高市大寺(たけちのおおでら)・大官大寺(だいかんだいじ、天武朝)を経て大安寺になりますが、その跡を訪ねるのが講座の趣旨です。


1 百済大寺跡
 一時は百済寺(広陵町)が有力でしたが、平成8(1996)年~12(2000)年の発掘調査の結果、吉備池廃寺(桜井市)が有力となりました。
 吉備池の東南に東西37m・南北25mの金堂基壇、西南に一辺32mの塔基壇が見つかったのです。『日本書紀』の記述から、塔は九層だったと考えられます。
 講堂跡は見つかっていませんが、法隆寺式伽藍配置だと考えられています。


 

 また、森下先生は、大寺と大宮はセットだったされます。百済大宮は吉備池廃寺の西にあったと考えられますが、発掘調査は行われていません。 

2 高市大寺跡・大官大寺跡(天武朝)
 天武天皇は、673年、百済大寺を移転させて高市大寺としました。
 その理由について、森下先生は、天武天皇が即位した飛鳥浄御原を擁護する大寺として高市の地に移転させたと説明されます。
 高市大寺の候補地は三つあります。
(1)木之本廃寺(畝尾都多本神社)
 ①高市郡でなく十市郡の属していること、②寺の伽藍が見つかっていないことが弱点です。吉備池廃寺や大官大寺の瓦が出土したことが有力な根拠ですが、森下先生は“単なる瓦置き場”だとされます。


(2)小山廃寺
 藤原京で本薬師寺と対称的な位置にあるのが有力な根拠です。
 しかし、①高市大寺の着工後に藤原京の位置が決まっていること、②規模が小さいことが弱点です。


(3)ギヲ山西遺跡
 ①大官大寺(文武朝)の軒丸瓦が出土したこと、②大安寺と同じ凸面布目瓦が出土することを根拠として、森下先生は有力な候補地とされます。ただし、寺院遺構は未発見です。


 天武天皇は、677年、高市大寺の法号を「大官大寺」と改めました

3 大官大寺跡(文武朝)
 明日香村に残る大官大寺跡は、701年、文武天皇が藤原宮に対応するものとして造営に着手したものです。昭和49(1974)年~54(1979)年の発掘調査で、東西54.6m・南北30.1mと同規模の塔と金堂の基壇が見つかりました。これらは当時としては最大級の建物ですが、完成前に焼失したことも判明しました。ここから500m西方に、ギオ西山遺跡があります。

 


4 大安寺
 平城遷都後の716年、大官大寺(天武朝)を平城宮に対応するものとして移転させることが決まり、745年には寺号が「大安寺」に改められました。
 現在の南門は興福寺の旧一乗院から移設したものですが、往時は平城宮の朱雀門と同規模の南大門が建っていました。

 


 森下先生の案内で現地を訪ねることで、“百済大寺→高市大寺→大官大寺(天武朝)→大安寺”の変遷を体感することができました。

2023年06月17日|建造物:寺院|歴史:古代|奈良県:その他, 奈良市