姫路城
令和3年9月18日(土)、「ブラタモリひめじロケ地めぐりマップ」を手に姫路城に行きました。先日、飾磨津(しかまつ)を探訪したので、今回は姫路城です。
姫山にある本丸・大天守は、1601(慶長6)年から池田輝政が築城を始めました。飾磨津を外港・軍港として整備したのも輝政です。
一方、鷺山にある西の丸は、1618(元和4)年から本多忠政が造営を始めました。
豊臣秀頼の妻であった千姫(徳川秀忠の娘)は、忠政の嫡男・忠刻と再婚して、「西の丸」の御殿で暮らしました。
今は庭園となっており、ここから天守を見ると、(1)連立式天守(大天守と小天守)、(2)白漆喰、と江戸城に類似していることが確認できます。
西の丸がある鷺山を下り、姫山の坂を登って天守に向かいます。姫路城が平城ではなく平山城であることが体感できます。
この坂は、暴れん坊将軍など時代劇に江戸城として登場するので、「将軍坂」とも言われています。
池田輝政の時代、天守南の本丸「備前丸」には御殿が立ち並んでいました。
ここから天守を見上げると連立式天守が迫ってくるようで、さらに近寄ると、屋根の裏側まで白漆喰が塗られていることが確認できます。
大天守には登らず、「お菊井戸」に向かいます。かつては「瓶取(つるべとり)」と呼ばれており、曲輪内で茶を点てる時に利用されていました。怪談『播州皿屋敷』の「お菊井戸」と呼ばれるようになったのは、明治時代末期以降のことで、観光振興のためでした。
城郭考古学者・千田嘉博先生が最も絶体絶命感が強いお勧めスポットとされる「ぬの門」を通って「二の丸」に向かいます。
マップには二の丸を《秀吉時代の石垣(野面積み)が残るエリア》と書かれていますが、『姫路城石垣の魅力』(姫路市立城郭研究室)では池田輝政時代の石垣と書かれており不可解です。一般に、秀吉時代の古式石垣が残るのは、「上山里下段」とされています。
次に東の搦手(裏門)にある「喜斎門跡」に向かいます。内堀に鉤状の土橋が架けられています。
備前丸東にある太鼓櫓北方土塀の狭間(さま)から見下ろすことができます。
喜斎門の奥には「内堀の堀留」があり、ここから堀が左回りに螺旋状に回って内堀・中堀・外堀を構成しています。江戸城には右回りに螺旋状の堀がありますが、他に螺旋状の堀を持つ城はありません。
【桜門橋を渡って内曲輪から中曲輪に出て、内堀に沿い西に向かいます。コロナ禍前は、この内堀に和船が浮かんでいました。
内堀沿いの道を北西に進めば、「南勢隠門(せがくしもん)」があります。さらに進めば、「北勢隠門」です。
この辺り一帯は、秘密の勢力を隠す「勢隠曲輪」でした。今は、「姫山公園」としてソメイヨシノなどが植えられ、市民の憩いの場となっています。
ブラタモリの視点から観光客として姫路城を楽しみましたが、堀留から螺旋状に堀が延びていることなど勉強になりました。