ミニシンポジウム「聖徳太子の伝説と真実 王寺編」(奈良県王寺町)

 令和4年5月22日(日)午前、ミニシンポジウム「聖徳太子の伝説と真実 王寺編」を聴講しました。
 大阪府柏原市立歴史資料館が、奈良県王寺町・三郷町(さんごうちょう)と共同して企画展「聖徳太子の伝説と真実」を開催しており、その関連イベントとして実施されるものです。

 

 この三市町は、龍田道や大和川を通じて深い関係にあります。

 

 最初に王寺町学芸員の岡島永昌さんが、分かりやすく具体的に「見どころ解説」をされます。
 その後、安村俊史橿原市立歴史資料館長・三郷町の大塚慎也さんを加えた三人で座談会が行われ、安村館長から岡島さんに鋭い突っ込みがありました。

 充実した内容のミニシンポジウムを楽しむことができました。

1 聖徳太子の伝説
(1) 芦田池
 池を掘る相談をしていた翌朝(=「あした」(前夜に何か事のあった翌日の朝))に池ができていたので、聖徳太子の霊瑞として「あしたの池→芦田池」。
(2) 送迎(ひるめ)
 聖徳太子を送迎した道の途中にあり、昼食を食べられたので「ひるめし(昼飯)→ひるめ」と呼ぶようになった。
(3) 達磨寺(だるまじ)


 本尊は、聖徳太子坐像(1277(建治3)年)


 達磨会式が行われるのは聖徳太子の命日「4月11日」に因む。
 達磨寺の修理は法隆寺とセット(17世紀)。
 片岡飢人伝説(『聖徳太子伝略』(10世紀))。


2 西安寺跡(舟戸神社)


(1) 太子葬送の道
 東西に走る龍田道沿いに法隆寺(斑鳩町)や平隆寺(三郷町)などが位置するのに対して、王寺町では南北に走る道沿いに西安寺や片岡王寺などが位置する。
(2) 塔跡
  建立年代が近い(7世紀末~8世紀初)法隆寺「五重塔」と遜色のない規模
(3) 金堂跡
 規模は法隆寺「金堂」に劣る。 
 塔跡の北に金堂跡があり、東回廊跡も確認できたことから、南向きの「四天王寺式伽藍配置」か? 
 金堂の北は版築で丁寧に整地されているが、講堂基壇は未発見

 

 金堂北の中心部で、直径33cmの柱根と直径15cmの沿柱4本を発見。北を眺める大和川から金堂の仏像を拝むための木製灯籠か?
 金堂基壇北の発掘調査で階段跡は発見できず。

 

 法隆寺若草伽藍(7世紀初頭)と同笵(同じ型を使用)の軒丸瓦が出土。金堂も7世紀初頭の建立か?

 

←【安村館長】聖徳太子と関連付けるため、後世に古い瓦を載せることがある。軒丸瓦が少ないとなると、平瓦で比較できないか。

3 片岡王寺跡(旧王寺小学校)
 僧寺
← 【安村館長】古代の寺院は僧寺と尼寺がセット。片岡尼寺に関しては尼寺廃寺説と西安寺説があるが、尼寺廃寺の地は片岡と言えないので西安寺が尼寺か
 中世以降は「放光寺」。
 塔・金堂・講堂が南北方向に並ぶ四天王寺式伽藍配置
 エ 東側を南北に走る国道168号線拡幅工事で、石積溝と瓦葺掘立柱塀跡を確認。 → 東向きだった可能性?
 平城宮第一次大極殿と同笵の鬼瓦が出土。→ 皇族に近い寺なので「おうじ(皇寺→大寺)」か?


4 達磨寺
 達磨大師墓と伝えられる3号墳の上に本堂。 
 ①片岡王寺の創建者を敏達天皇の皇女「片岡姫」か聖徳太子の娘「片岡女王」とし、②『片岡山御廟記』(12世紀)に達磨大師墓の夢の話が出てくるのは、聖徳太子との関係性を強めるために作られた説話。
 片岡王寺は、鬼門(北東)に位置する古墳を取り込みながら拡大することを意図
 3号墳(6世紀)の調査で、①周溝が古墳の中心と合わないこと、②7~8世紀の土器や瓦が出土したことから、飢人伝説に基づく神聖な古墳として整備していた?
← 【安村館長】6世紀の古墳を7~8世紀に神聖化するのは時期が近すぎる。古墳を築山に見立て、庭園として整備したのではないか。

5 まとめ
 聖徳太子の時代(7世紀前半)、寺院は東西に走る竜田道に沿って整備。
 山背皇子の時代(7世紀中頃)、寺院は南北に走る道に沿って整備
 飛鳥時代の寺院を考察するうえで、創建が聖徳太子生前か没後かを考慮することが重要

2022年05月22日|古墳:円墳|建造物:寺院|歴史:古代|奈良県:その他