奈良国立博物館「法隆寺播磨国鵤荘における聖徳太子信仰」

 令和3年6月16日(水)午後、奈良国立博物館で行われた特別講演会「法隆寺領播磨国鵤荘における聖徳太子信仰」を受講しました。
 講師は、兵庫県太子町文化推進課長の田村三千夫氏です。


 太子町は、私が住む姫路市に隣接しており、1951(昭和26)年4月、斑鳩町・石海村・太田村が合併して発足した人口3万5千人弱の町です。
 斑鳩寺(いかるがでら)は、現在は天台宗に属していますが、伝承では、604(推古12)年、飛鳥の豊浦宮(とゆらのみや)で聖徳太子は推古天皇に勝鬘経(しょうまんぎょう)を講じたところ大いに喜んだ天皇播磨国揖保郡の水田百町を太子に与えた太子はこの地を「鵤荘(いかるがのしょう)」と名付けて伽藍を建てたのが斑鳩寺の始め、とされています。


 この伝承を背景として、太子町における太子信仰を考えるのが講演会の内容です。
(1)法隆寺領播磨国鵤荘の誕生 
  『日本書紀』は、聖徳太子が水田百町を賜って法隆寺に寄進したと記載。
  飛鳥から鵤まで三泊四日の行程だったが、当時の鵤は①渡来人が住んでいて仏教など先進文化の地山陽道や瀬戸内海航路など交通の要衝と豊かな地だった。
  聖徳太子や斑鳩寺に関する古代の史料はない。
(2)中世の鵤庄と聖徳太子の信仰
  法隆寺は、鵤荘を武士から守るために太子信仰を利用して聖なる空間を演出
   斑鳩寺が初めて史料に登場するのは、11世紀の様子が描かれた『播磨国鵤庄絵図』(14世紀)で、同時期に成立した『峯相記(みねあいき)』は①水田三百町を賜った、②斑鳩寺と名付けたと記載。
  今に残る太子信仰は、①太子が檀特山(だんとくさん)から投げた石が鵤荘の境界を示す牓示石(ぼうじいし)、②檀特山頂には愛馬「黒駒」の蹄跡

 

 

 

 

 

  地域の豪族が太子信仰を持っていたので、守護の赤松氏も太子信仰を受け入れて支配に活用
  鵤荘がなくなった後も太子信仰により地域が安定。

(3)近世以降の鵤荘周辺の聖徳太子信仰
  斑鳩寺を聖徳太子ゆかりの寺と位置づけ。毎年2月22日(太子の祥月命日)~23日に縁日法要として太子春会式を、毎年8月21日~22日に施餓鬼法要として太子夏会式を開催。

  寺近くにある稗田(ひえだ)神社の祭神は聖徳太子妃・膳大娘(かしわでのおおいらつめ)。→ 現在は稗田阿礼。

 

  伝統芸能「お幡入れ・法伝哉(ほうでんや)」は、太子が物部守屋を討伐し凱旋する様子を伝えるもの。


  重文「三重塔」は16世紀に龍野城主・赤松政秀らの寄進を得て再建したもので残っている建物の内では最古。  


 近くに住んでいながら、斑鳩寺へ参拝したのは数十年前、檀特山には登ったことがなく、聖徳太子の投げ石「牓示石」は初めて耳にしたと言う状態です。
 この講演をきっかけに、近いうちにガイドマップを片手に訪問したいと思います。

2021年06月16日|兵庫県:播磨