NHK歴史講座「比曾寺と古代山林寺院」(奈良県大淀町)

 令和3年5月16日(日)午後、奈良県・大淀町文化会館で開かれたNHK歴史講座「比曾寺と古代山林寺院」を聴講しました。講師の奈文研都城発掘調査部長の箱崎和久氏は、古建築の専門家です。


 比曾寺(比蘇寺、ひそでら)は六世紀中頃の創建で、日本で最も古い仏像「放光樟像(木造阿弥陀如来坐像)」を有する「吉野寺」であると伝えられています。平安時代には「現光寺(げんこうじ)」とも呼ばれました。
 現在は、曹洞宗の「世尊寺(せそんじ)」となっています。


 薬師寺式伽藍配置で、東西に三重の塔を有していました。東塔は1594(文禄3)年に豊臣秀吉が伏見城に移築し、1601(慶長6)年には徳川家康が園城寺(三井寺、大津市)に寄進しました。

 

 

 講演会場の大淀町文化会館では、ミニ展示「現光寺縁起絵巻の世界」が開催されています。江戸時代初期に制作された絵巻で、上巻には蘇我氏が建てた吉野寺に放光樟仏が祀られるまで、下巻には香木に彫られた観音像や後醍醐天皇の行幸の様子などが描かれています。

 

講演「比曾寺と古代山林寺院」の概要です。
(1) 聖徳太子と比曾寺
 サブタイトルが「聖徳太子ゆかりの地で古代の魅力を語る」となっているので、最初に説明する。『聖徳太子傳歴』に太子との関係が初めて書かれ、『日本書紀』の二つの記事と結びついて太子創建と伝えられているが、史実としてみれば聖徳太子との関係はない
→ 実は私が一番気になっていた部分ですが、ハッキリと関係を否定されてスッキリしました。
(2) 比曾寺の歴史
・『日本書紀』にある「吉野寺」に該当し、当時の吉野では唯一の寺。
・7世紀中頃に古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)、7世紀後半に大海人皇子(おおあまのみこ)が個人として出家した寺。
・平安時代には、宇多上皇や藤原道長などが参拝。
・18世紀後期に、曹洞宗「世尊寺」として復興。
(3) 山林寺院として描かれた比曾寺
・平地寺院と異なり、僧が修行する寺
・貴族が参詣。
(4) 古代の山林寺院
・平地寺院は、周囲を囲う・回廊を持つなど定型の伽藍配置。
・山林寺院は、水のある里山にあるので地形の影響を受けた伽藍配置
・平地寺院とのネットワーク(国分寺と共通した出土瓦など)
(5) 比曾寺の伽藍と建物
ア 比曾寺「東塔跡」
東塔の礎石「円柱座」+「地覆座」(じふくざ、横材を受ける座)だが、西塔の礎石は円柱座のみ

 


本薬師寺跡(7世紀後期半、橿原市)や、山城国分寺跡(8世紀前期、京都府木津川市)の塔礎石には「出枘(でほぞ)」があるが、比曾寺跡の塔礎石にはないのでそれより古い時代。

 


・塔跡の礎石を見ると柱間寸法が薬師寺「東塔」と同じ等間隔。奈良時代以降は中央部が広い。


イ 園城寺「三重塔」
室町時代の建物だが、柱間寸法が等間隔なので古代の平面を踏襲
・①中央に心礎がなく心柱は初重天井の上、②初重の柱が二重の柱を支える構造(中世の特徴)。
ウ まとめ
・①考古学では「平地寺院」、②文献史学では「山林寺院」(僧の修行場所)と食い違い。
・古人兄皇子や大海人皇子が個人として出家した寺であることを考慮すると、②山林寺院が妥当か
・東塔の建立に際しては、天武天皇(大海人皇子)・持統天皇が関与したか。そうすると、本薬師寺と関係があるか。

 全体を通じては、ご専門の「(5) 比曾寺の伽藍と建物」が圧巻でした。
 今後、比曾寺跡の発掘調査が進み、創建当初の伽藍配置や寺が平地寺院・山林寺院のいずれだったかなどが明らかになることを期待しています。

2021年05月16日|奈良県:吉野郡