長谷寺(桜井市)・室生寺(宇陀市)

 令和5年5月5日(木、祝)午後、長谷寺(桜井市)に行き、やまとびとツアーズ「長谷寺尼僧が優しく教える、お寺のひみつ」に参加しました。


 案内は、修行中の尼僧の後(うしろ)さんです。
 本尊の重文「十一面観音菩薩立像」は、右手に錫杖を持っておられるのが特徴的で、長谷寺式観音と呼ばれています。
 10m余りの高さですが、間近で特別拝観できたので、頭部の菩薩面の表情がはっきりと確認できました


 国宝「本堂」におられる賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)や、本堂から五重塔の撮影スポットを教えてもらいました。

 


 その後、昭和寮に移動して講演「英岳僧正と将軍綱吉~狩野派をとおしてみるその関係~」を聴講します。講師は京都国立博物館名誉館員の狩野(かの)博幸先生ですが、狩野派とは関係ありません。
 英岳僧正の名前は初めて知ったのですが、長谷寺の第14世能化(のうけ)で、江戸に長くいたことから綱吉や母の桂昌院と交流があり、御用絵師である狩野派とも関係がありました。

 

 以下、講演で興味深かった内容です。
 なお、講演は狩野派の説明で時間切れとなり、演題にまでは話が及びませんでした
(1)専門は近世絵画で奈良県の大学に勤めたが、奈良県では安土・桃山時代以降は軽視されるので京博に転職。
(2)狩野派では二代目の元信が分業化・組織化を推進
(3)元信は孫の永徳の画力・統率力を認めて帝王教育
(4)宮内庁「唐獅子図屏風」は元来は大阪城の壁貼り付け紙で、秀吉が陣中屏風に仕立て直し、本能寺の変に際して講和の際に毛利家に贈呈したと推測。作者は永徳と孫の探幽。

 

(5)カリスマ的存在だった永徳が1590年に急死したことにより狩野派は大混乱。その間隙を縫って長谷川等伯が智積院の壁画作成を獲得。
(6)混乱を体験した永徳の末弟・長信は、木挽町狩野・鍛冶橋狩野(探幽)・中橋狩野の三奥家(将軍と対面できる旗本)を創設
(7)三面作戦として、それぞれ、豊臣家・徳川家・朝廷と密接な関係
(8)大名に仕える絵師の95%は狩野三奥家で修行。→画塾を通じて狩野派が浸透。
(9)江戸時代の始まりについて、東博は家康が征夷大将軍に就任した1608年・京博は大坂夏の陣で豊臣家が滅んだ1615年。

 その後、宗宝蔵に行き、学芸員(狩野先生の教え子)の案内で綱吉や英岳僧正の肖像画を拝見します。狩野先生がおられたので、いろいろと質問できました。 

 

 午前中は室生寺(宇陀市)に行きました。この時期は、室生寺と長谷寺を結ぶ奈良交通の臨時バスが出ているので便利です。

 


 目的は、国宝「金堂」の仏像を拝観することと、金堂から移された仏像を寶物殿(2020年9月オープン)で拝観することです。
 かつて金堂にはたくさんの仏像が所狭しと安置されており、それを廊下から拝見していました。

 

 

 今、金堂におられるのは国宝「釈迦如来立像」、重文「薬師如来立像」「文殊菩薩立像」「十二神将」の一部などで、外陣からゆっくりと拝見できます。
 金堂の本尊である釈迦如来は、本来は薬師如来であり蟇股には薬壺の絵が彫られています。

 

 かつて金堂におられた国宝「十一面観音立像」などは寶物殿に移されています。収蔵庫を兼ねておりガラス越しに拝見するので、少しありがたみに欠けます。


 一年ぶりに長谷寺・室生寺に行きましたが、牡丹や石楠花に気を取られることなく、じっくりと仏像を拝見できました。

2022年05月05日|建造物:寺院|歴史:中世, 古代, 近世・近代|奈良県:その他|仏像:木彫像