近畿文化会「聖武天皇の生涯・治世」(奈良市)
令和4年11月26日(土)、近畿文化会「聖武天皇の生涯・治世」(奈良市)に参加しました。講師は帝塚山大学教授の鷺森浩幸先生です。
午前中は奈良市北部の陵を見学します。
最初に、聖武天皇の祖母・元明天皇の陵とされる「奈保山東陵」と、伯母・元正天皇陵とされる「奈保山西陵」に行きます。
江戸時代中期までは西の佐紀盾列古墳にあるウワナべ古墳・コナベ古墳とされていましたが、元明天皇陵碑が発見されたことから江戸時代末期の「文久の修復」で天皇陵と治定されました。
「皇太子那富山(なほやま)墓」は、聖武天皇と光明皇后との間に生まれた皇子で早世した某王(ぼうおう)の墓だと考えられています。
なお、「基王(もといおう)」とする説もありますが、鷺森先生は“皇太子なら王でなく親王と呼ぶはずだ”と否定されます。
午前中の最後は「聖武天皇佐保山南陵」と隣接する「皇后光明子安宿媛佐保山東陵」です。
一つの丘陵を切断して二つに分けられており、裏山にはかつて眉間寺や多聞山城がありました。
午後は奈良市の中心部を歩きます。
興福寺は藤原不比等が創建しましたが、国宝「北円堂」は不比等の一周忌に元明・天正天皇の命により長屋王が建てました。
長屋王は天武天皇の皇子・高市皇子の子で左大臣を務めましたが、「長屋王の変」で自殺に追い込まれました。①某王の立太子に反対し、②光明子の立后に反対したために仕組まれたと考えられています。
「頭塔(ずとう)」は東大寺の僧・実忠が造立した土塔ですが、藤原広嗣の怨霊により飛び散った玄昉の頭を治めた頭塔だと言い伝えられて来ました。
藤原広嗣は、不比等の三男・宇合の長子ですが、聖武天皇の信任が厚い玄昉などと対立して左遷されたので乱を起こし佐賀県で斬殺されました。
その広嗣を祀るのが鏡神社で、佐賀県唐津市の鏡神社から勧請されました。
最後は、聖武天皇の病気平癒を祈って光明皇后が創建した新薬師寺です。
金堂「七仏薬師堂」は南の奈良教育大学構内にあり、江戸時代再建の東大寺大仏殿と同規模でした。
現在の国宝「本堂」は、物品の管理なども行う食堂の役割を担っていたと考えられます。
何度も訪れたことのある場所ですが、聖武天皇と言う視点から見学するのは新鮮でした。