大官大寺跡(奈良県明日香村)ほか
令和3年7月11日(日)午前、近鉄桜井駅で自転車を借り、橿原神宮前駅に向かって、大官大寺跡(だいかんだいじ、奈良県明日香村)などを探訪しました。
大官大寺は、飛鳥時代に藤原京に所在した最初の官寺です。平城遷都に伴い、716(霊亀2)年に平城京に移り、大安寺(「癌封じ笹酒祭り」で有名)となりました。
大官大寺の創建は聖徳太子が建立した熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)に遡るとの伝承がありますが、実際は、639(舒明11)年に舒明天皇が創建した百済大寺(くだらおおでら)が始まりです。
百済大寺の所在地については、諸説がありましたが、吉備池の堤改修工事で金堂と塔の跡が発掘されたことから、吉備池廃寺跡(きびいけはいじあと)だとされています。
伽藍配置は、東に金堂・西に塔・北に講堂があり、法隆寺と同じです。本当はこちらの方が古いのですが、法隆寺式伽藍配置と言われています。
池の周りの草が刈ってあったので、池を一周することができました。
百済大寺は、673(天武2)年に高市に移転して、高市大寺(たけちおおでら)になりました。
その所在地については、(1)藤原宮東の木之本廃寺跡(きのもとはいじあと)、(2)雷丘北のギオ山西方とする二つの有力説があります。
さらに、(1)木之本廃寺説は、大官大寺が完成前に焼失したことから、高市大寺が大官大寺の役割を果たしたとします。
具体的な場所としては、香具山西麓に鎮座する畝尾都多本(うねおつたもと)神社の北方が想定されていますが、金堂跡や講堂跡などと想定される場所には集会所や民家が建っていて、往時を偲ぶことはできません。
高市大寺は、677(天武6)年に藤原宮の南東に移転し、大官大寺となりました。発掘調査の結果、中門からめぐる回廊が金堂に取り付き、金堂の東南に九重塔、北に講堂がある伽藍配置だったことが判明しました。九重塔の基壇は一辺が35mと通常の3倍近い大きさでしたが、完成直前に焼失しました。
寺跡には礎石が残っていましたが、明治時代に橿原神宮が造営された際に、抜き取って石垣に使用されてしまいました。塔跡には「史蹟 大官大寺」の石碑が建っています。
金堂跡とされる場所は畑となっていて、所有者の方が農作業をされていました。“金堂跡の畑とは豪華ですね”と話したところ、笑っておられました。農作業小屋が講堂跡で、明日香村の北端だと教えてもらいました。
ルートの途中にある藤原宮跡の蓮や、本薬師寺金堂跡・塔跡の立派な礎石も見ることができました。
3時間ほど回っただけですが、最高気温が33度と高い日だったので、熱射病になりそうでした。