近畿文化会「長岡宮の構造と造営実態」(京都府向日市、長岡京市)
令和3年12月19日(日)、近畿文化会「長岡宮の構造と造営実態」に参加しました。講師は、近畿大学文芸学部教授の網伸也先生で、長岡宮や平安京の発掘調査をされたこともある考古学者です。
午前中は、向日市(むこうし)文化資料館で展示を拝見した後、講演を聞きます。
長岡京は、桓武天皇が784(延暦3)年に平城京から山背国に遷都し、794(延暦13)年に平安京に遷都するまで10年間だけ存在した都城です。
(1)桓武(かんむ)天皇は、先に既成事実を作って反対派の動きを封じるため、通常だと5~6年かかる遷都をわずか5ヶ月で行った。
(2) 長岡の地を選んだ理由は、①淀川を通じて瀬戸内海とつながった水運の便、②山陽道と山陰道の結節点である陸路の便、③琵琶湖を通じた東国との交流。
(3) 前期造営は、淀川を利用して難波宮を解体移築して、向日丘陵の中央に大極殿院、西に内裏「西宮」を造営したが、地形的制約から西宮に皇后宮を置くことができなかった。
(4)そこで、後期造営として東宮を作ったが、朝堂から見下ろされる場所だった。
(5)すなわち、①長岡遷都は成功だったが、②京や宮(京の中枢部分)の造営は失敗。
(6)このため、失敗の教訓を生かして十分な準備をしたうえで、平安遷都を行った。
(7) 平安京の完成度の高さは、長岡京と比べるとよく理解できる。
午後は、長岡宮を実際に歩きます。
最初に行くのは3世紀前半の前方後方墳「元稲荷山古墳」です。ここは長岡宮の西端で、後方部に登って西を眺めると、切り立っていることがわかります。
向日神社を経て南西に進めば、前方に展望が広がります。
南東の削平された部分が前期内裏「西宮(にしみや)」で、今は市立向陽小学校となっています。展望が開けた一等地ですが、北側が傾斜地となっているので皇后宮を設置することができませんでした。
南に向かった傾斜地であることを実感しながら西国街道を歩き、東に曲がって進めば朝堂院公園で、少し高まった場所に西第四朝堂がありました。
北に少し歩けば、大極殿院の閤門で、奥には大極殿がありました。
阪急京都線をくぐって東に下れば内裏公園で、後期内裏「東宮(ひがしみや)」がありました。この場所だと、確かに朝堂院にいる役人から見下ろされます。
最後は、宮城東大垣跡(築地跡)を北から南に歩きます。東方が下がっているのが実感できます。
これまで歩いたことがある場所ばかりでしたが、長岡宮が様々な問題を問題を持った宮城であることが体感できた臨地講座でした。