やまとびとツアーズ「聖徳太子ゆかりの太子道を歩く」(奈良県生駒郡・磯城郡)

 令和3年9月26日(日)、やまとびとツアーズ「やまとびと副編と行く! 聖徳太子ゆかりの太子道を歩く」に参加しました。案内は、季刊誌『やまとびと』の副編集長で八咫烏神社(やたがらすじんじゃ、宇陀市)宮司でもある栗野義典さんです。
 今回歩く「太子道」には、聖徳太子が住まいの斑鳩宮と飛鳥・小墾宮との間を往復するのに使ったという伝承があります。


 この地域には古代の都市計画「条理制地割」が残っており、南北に上ツ道・中ツ道・下ッ道が走っています。これに対して、太子道は西に20度傾いているので「筋違道(すじかいみち)」とも言われます。
 この20度の傾きは、斑鳩宮や斑鳩寺(太子が建てた「創建法隆寺」)と同じなのが興味深いところです。

 

 最初に訪問するのは、「飽波((あくなみ)神社」(安堵町)です。祭神は素戔嗚(すさのお、天照大神の弟)で、元は牛頭(ごず)天王社と呼ばれていました。中世以降、蘇民将来伝説とも結び付いて、牛頭天王と素戔嗚が習合されました。


 境内には「太子腰掛け石」があり、案山子が座っています。


 神宮寺だった「極楽寺」を拝観した後、案山子公園に向かいます。斑鳩の方向を向いた「ジャンボ聖徳太子MAX」を始めたくさんの案山子がいました。


 中窪田の「杵築(きづき)神社」に参拝します。平安時代の『延喜式』神名帳で出雲大社が杵築大社と記載されていることから、出雲大社との関係が考えられます。祭神は素戔嗚ですが、出雲大社も祭神が大国主でなく素戔嗚だった時代があるそうです。


 安堵町から川西町に入り杵築神社」に参拝します。先に参拝した安堵町中窪田の杵築神社は、この神社から分祀されたそうです。


 油掛地蔵を参拝した後、大和川の堤防に上がります。西には養蚕に関係した比売久波(ひめくわ)」神社が、東側には機織りに関係した「糸井神社」があります。
 この日は寄りませんでしたが、「比売久波神社」の踏石には島の山古墳の石室の天井石が使われています。


 昼食後、「糸井神社」に参拝します。
 たまたま宮司さんがおられ、拝殿に入れていただきました。「太鼓踊り絵馬」は、右下に描かれている西瓜売りで有名です。

 

 

 祭神は豊鍬入姫(とよすけいりひめ)ですが、本殿は春日若宮の本殿を移した「春日移し」です。宮司さんに“もともとは春日大社系列だったのでは”と尋ねたところ、“この辺りには春日大社系列の神社が多く、その可能性は高い”とのことでした。そう言えば、中窪田の杵築神社の本殿も、旧春日大社若宮本殿を移したものでした。

 

 面塚を経て三宅町に入り、「屏風杵築神社」に参拝します。手水舎の屋根が唐破風となっており、境内には太子「矢じりの井戸」があります。

 

 

 また、向かいに白山神社には「太子の腰掛石」があります。


 ここから「伴堂(ともんど)杵築神社」に向かいます。南南東に向かって斜めにまっすぐ進む道で、筋違道と呼ばれる意味が体感できます。
 神社の門前には「道路元標」があります。明治時代に距離測定の基準点として設置されたもので、当時から主要道であったことが分かります。


 拝殿前には、幕末の名石工・丹波佐吉による立派な獅子・狛犬が立っています。

 

 

 三宅町の花は「あざさ」なので、この花が詠まれた万葉歌の碑(巻13・3295,3296)が建っています。犬養孝先生揮毫による立派な歌碑なのですが、解説板が壊れたままなど少し寂しい状態です。

 

 オプションとして黒田大塚古墳(6世紀初頭の前方後円墳)を見学した後、解散場所の近鉄黒田駅に向かいます。
 斑鳩町からバスで安堵町に移動し、そこから川西町・三宅町・田原本町と五町を巡るマニアックで充実したツアーでした。

2021年09月26日|建造物:神社|歴史:中世, 古代|奈良県:その他