明石城跡・船上城跡(兵庫県明石市)
令和3年5月6日(木)、明石城跡などを巡りました。城跡がある明石公園へは何度も行っているのですが、城跡探訪の目的で行くのは初めてです。
明石城は、第二代将軍・秀忠の命により小笠原忠真が1619(元和5)年に築いた平山城です。東から西に向かって、東ノ丸・二の丸・本丸・稲荷曲輪と続きます。本丸の西南には天守台がありますが、天守は築かれませんでした。これに関しては『なぜ、天守は建てられなかったのか』(神戸新聞総合出版センター)と言う本まで出ています。
本丸の四つの櫓を始め全体で20の櫓・27の楼門が築かれましたが、現在は国重要文化財の巽櫓(たつみやぐら、南東)・坤櫓(ひつじさるやぐら、南西)が残るだけです。坤櫓は伏見城から移され、巽櫓は、近くの船上城(ふなげじょう)から移されましたが1631(寛永8)年に焼失したために再建です。
JR明石駅のホームからは本丸がよく見えます。逆に、本丸からは明石海峡大橋などの展望が広がります。
天守台は本丸の南西・坤櫓の北に位置しています。ここに黄金御殿は築かれましたが、天守は建てられず坤櫓が天守の役割を果たしました。天守台は予想外に小さく、建てられたとしても目立たなかったでしょう。
建てられなかった理由について、先の本は次のように推測しています。
(1) 当初に天守台を作りながら天守を建てなかった理由は不明。
(2) 幕府の一国一城令に従い小倉藩主の細川氏は廃城することとし、小笠原氏との間で小倉城の天守を移築する約束が結ばれた。
(3) しかし、移築する前に治世が安定して軍事面で天守が不要になった。
濠の南には、ただ一つの武家屋敷遺構「織田家長屋門」が残されています。これも船上城から移築されたものです。残念ながら、門の内側に建っているのは民家です。
明石城跡から1.5kmほど東に進んだ丘に月照寺(げっしょうじ)があります。山門は明石城の追手門が移築されたもので、元々は伏見城の薬王門でした。この寺は明石城築城に伴い現在地に移されたのですから、皮肉なものです。境内には、柿本人麻呂の歌碑「ほのぼのと 明石の浦の」(古今和歌集)があります。
東に隣接して、柿本人麻呂を祀る柿本(かきもと)神社があります。境内には人麻呂の萬葉歌碑が二基立っています(「大君は 神にしませば」(巻3・235)・「天離る 鄙の長道ゆ」(巻3・255))。
ここには東経135度の子午線が走っているので、明石市立天文科学館が建てられ、トンボの標識もあります。
明石城跡から1.9mほど南西に進めば船上城跡です。1585(天正13)年にキリシタン大名・高山右近が築きました。右近は、城の西側に城下町を整備し、南側には堀を経て海へとつながる港を建設しました。しかし、城の建物は江戸時代初期に焼失しました。周辺は宅地化が進み、今は船上西公園にイラストマップの看板が残るだけです。公園の南・田圃の中には「伝本丸跡」とされる場所がありますが、私有地のために立ち入ることはできません。
明石城跡は、公園としてだけでなく、史跡としてもっと大切にされるべきだと感じた歴史探訪でした。