近畿文化会「旧大和川を歩く(5)」(大阪府大東市、東大阪市)

 令和4年4月10日(日)、近畿文化会「旧大和川を歩く(5)」に参加しました。講師は、大和川研究の第一人者で柏原市立歴史資料館長の安村俊史氏です。


 現在の大和川は大阪市と堺市の間で大阪湾に注いでいますが、古代は難波津・柏原・飛鳥を結んでいました。
 しかし、洪水を繰り返すことから江戸時代、柏原市より下流が付け替えられました。

 

 今回は、旧大和川の痕跡を訪ねて、深野池(ふこのいけ、大阪府大東市)・新開池(しんかいいけ、東大阪市)周辺を歩きます。


 河内平野は、かつては河内湖(←河内潟←河内湾)でした。河内平野の北に位置する深野池・新開池は、河内湖の名残の池です。
 大和川が付け替えられた後、川跡だと幅の狭い新田しか確保できませんが、池跡だとまとまった面積が確保できるので新田が拓かれました。
 ただし、低地なので排水が大変で、悪水井路(あくすいいじ)が重要な役割を果たします。

 大東市立歴史民俗資料館に展示されている踏車(ふみぐるま)は、泥水の排水にも対応できるよう頑丈に作られており、全国的にもシェアを広げていたそうです。

 

 深野池跡の深野南新田と河内屋南新田を管理・運営するために平野屋新田会所が作られてましたが、宅地開発に伴い、2008(平成20)年、取り壊されてしまいました。


 午後は東大阪市立市民会館で安村館長の講演を聞きます。次の二点が印象に残りました。
(1)大和川付け替えの功労者として中甚兵衛の名が上がるが、彼の付け替え運動は衰退。その後、大坂の堤奉行に就任した万年長十郎の働きで幕府は付け替えを決定。
(2)鴻池新田開発を落札したのは土木請負人・大和屋六兵衛と庄屋・長兵衛だが、鴻池善右衞門・善治郎に転売。資料の裏付けがないので文章には書けないが、落札者二人は鴻池のダミーと推定。

 講演後、鴻池新田を歩きます。悪水井路「六郷井路」は鴻池新田開発の前からあったのですが、鴻池新田の悪水井路としては使わせてもらえないので、すぐ北に「五箇井路」が作られました。奈良の水争いは取水ですが、この地域では排水であることが新たな発見でした。


 最後に、鴻池新田会所を見学します。こちらは東大阪市が管理しており、立派な建物が残っています。


 残念ながら北を流れていた水路は埋め立てられていますが、船着場跡は残っています。

 

 また、井路川舟(いじかわぶね)も展示されており、大和川を運行していた剣先船と同形でサイズを小さくしたものです。


 (1)大和川付け替えに伴い川の水が流れ込んでいた池に新田が開かれたこと(2)この新田では取水でなく排水が課題であったことを知ったのが新鮮でした。

2022年04月10日|歴史:近世・近代