奈良ファン倶楽部「三輪山麓の神宮寺をめぐる」(奈良県桜井市)
令和4年11月13日(日)午後、奈良ファン倶楽部「三輪山麓の神宮寺をめぐる」(桜井市)に参加しました。講師は、桜井市文化財課長の橋本輝彦先生です。
神宮寺とは神社の境内に建てられた寺院のことで、大神神社には平等寺・大御輪寺・浄願寺と三つの神宮寺がありました。いずれも明治時代初期の神仏分離政策で廃寺となり、その跡をめぐります。
大神神社の祭神「大物主神」と神宮寺の本尊「大日如来」を同一視するのが三輪神道です。
建立の経緯から、神宮寺は神社の下に位置すると思い込んでいたのですが、橋本先生から“神宮寺には別当が置かれ、神社を支配下に置いていた”と説明がありました。
◎平等寺跡
三つの神宮寺のうちで別当寺の役割を担っていたのは、鎌倉時代に創建された「平等寺」です。東西490m・南北330mと広大な敷地には本堂・楼門・鐘楼堂・護摩堂などが建ち、その下には12の塔頭がありました。
本堂などが建っていた場所は空き地となり、本堂跡と思しき場所の前には小さな祠「春日社」が建っているだけです。
塔頭跡にも、石垣が残るだけです。
なお、山の辺の道沿いにある三輪山平等寺は明治時代に創建された曹洞宗の寺院で、平等寺との関係はありません。
◎大御輪寺跡
聖林寺の国宝「十一面観音立像」がおられたことで有名な「大御輪寺(だいごりんじ、おおみわでら)」ですが、この名称になったのは鎌倉時代のことで、奈良時代に創建された時は「大神寺(おおみわでら)」と呼ばれていました。
今は、若宮社(大直禰子(おおたたねこ)神社)となっています。
創建時期が最も古いにも関わらず別当寺とならなかった理由について、橋本先生は“寺院より神社としての性格が強くなったから”だと説明されます。
確かに、江戸時代の『大和名所図会』を見ても、「大三輪寺 若宮」と並列で書かれています。
なお、境内を発掘調査した結果、7世紀に三輪氏が築いたと思われる居館跡が発見されました。
◎浄願寺跡
鎌倉時代に創建された尼寺で、今は山門に向かう石段や土塀が残るだけです。
なお、土塀の一部は「ネコカベ」と言う珍しいものだそうです。
雨の中の廃寺跡めぐりでしたが、①平等寺跡と浄願寺跡に初めて行ったこと、②神宮寺の平等寺は別当寺として大神神社を支配していたと知ったことが大きな成果でした。