近畿文化会「高槻市の史跡をめぐる」(大阪府高槻市)
令和4年3月19日(土)、近畿文化会「高槻市の史跡をめぐる」に参加しました。講師は、今城塚歴史資料館長の内田真雄氏です。
訪問する遺跡は、(1)弥生時代の安満(あま)遺跡、(2)古墳時代の今城塚(いましろづか)古墳、(3)戦国時代~江戸時代の高槻城跡です。
(1)安満遺跡
JR新快速で京都に向かう際、高槻駅を過ぎると右手に大きな公園が見えます。何だろうかと気になっていたのですが、国史跡に指定された弥生時代の集落遺跡跡「安満(あま)遺跡公園」だと初めて知りました。
都会の真ん中にあるのですが、京大農場があったので奇跡的に残りました。
居住域・水田域・墓域の三つが揃っているのが大きな特徴です。
中枢部の居住域は楕円形の環濠で守られており、発掘調査により、時期を追って拡大したことが判明しました。
生産域では、穏やかに傾斜する扇端部から淀川低地にかけて水田が広がっていました。
墓域では、100以上の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が発見されています。
また、北東に聳える安満山の中腹には三世紀中頃の安満宮山古墳があり、三角縁神獣鏡などが発見されました。
(2)今城塚古墳
宮内庁は西にある太田茶臼山古墳(茨木市、5世紀)を継体天皇(6世紀)の陵墓に治定していますが、今城塚古墳(6世紀)が真の継体天皇陵であることは定説となっています。
この古墳の最大の特徴は、北側の内堤張出(長さ65m・幅10m)に置かれた内容豊かな埴輪群です。
現在、塀形や門形で四つに区画して230以上の形象埴輪が整然と配列されていた様子が復元されています。
これらの埴輪が作られたのは、北西にある「新池(しんいけ)遺跡」(新池埴輪工房)ですが、この工房は太田茶臼山古墳に埴輪を供給するために造営されたものです。
古墳築造の技術で注目すべき点は二つあります。
一つ目は、大部分が盛土によって造成されており、最初の盛土は周濠を掘削した際の表土層が利用されていることです。今城塚古代歴史館に展示されている剥ぎ取り標本で確認できます。
二つ目は、①盛土内に墳丘内石積みと排水溝、②横穴式石室を支える石室基盤工が設けられていることです。
(3)高槻城跡
高槻城の存在が確認できるのは14世紀後半以降で、戦国時代に城主となった高山右近は畿内のキリスト教布教の拠点としました。
江戸時代には三層の天守・高石垣・土居を備えた近世城郭となりましたが、明治時代に破却・工兵隊移駐があり、往時の面影は残っていません。
高槻市の遺跡と言えば今城塚古墳や藤原鎌足が葬られているとされる阿武山(あぶやま)古墳ぐらいしか知りませんでしたが、今回、弥生時代の安満遺跡があったことを知ったのが最大の収穫でした。