吉野ビジターズビューロー「大津皇子の物語-吉野の盟約から二上山へ―」(奈良県吉野町→桜井市→葛城市)
令和4年1月23日(日)、吉野ビジターズビューロー「大津皇子の物語 ー吉野の盟約から二上山へ」に参加しました。講師は、吉野町学芸職員の中東洋行さんです。
大津皇子は、天武天皇と太田(おおた)皇女の間に生まれました。太田皇女は、鸕野讚良(うののさらら、後の持統天皇)皇女の姉です。
壬申の乱で勝利した天武天皇は、679(天武8)年、鸕野讚良皇女や草壁皇子・大津皇子など6人の皇子とともに吉野宮に行き、皇位継承の争いを起こさないことを盟約させました。
宮滝遺跡では発掘調査が進み、この地に吉野宮(離宮)があったことが確実視されています。
ただ、吉野の盟約が行われたと推定される場所には宮滝醤油の建物が建っており、発掘調査することができません。
天武天皇の没後、大津皇子は謀反の罪で死を命じられました。背景に、我が子・草壁皇子に王位を継承させたい持統天皇の意向があったものと推測されます。
萬葉集の巻二には、大津皇子が訳語田(おさだ)の宮で処刑される際に詠んだ「ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」(416)、その死を悼んで姉・大伯(おおくの)皇女が詠んだ「うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟(いろせ)と我が見む」(165)が収められており、桜井市にある吉備池(きびいけ)の畔には歌碑が建てられています。
また、吉備池に隣接した春日神社境内には、懐風藻に収められた大津皇子の漢詩碑「金鳥望西舎」(福田恒存揮毫)が建てられています。
この地からは二上山が望めて碑にふさわしい場所なのですが、残念ながら、東池尻・池之内遺跡(橿原市)が磐余池跡であることが、道路建設に伴う発掘調査により明らかになりました。
高さ2m・長さ80mの人工堤防が確認され、ここから南の尾根に向かった一帯が磐余池だと考えられています。
次に葛城市に移動して、二上山麓の加守(かもり)廃寺跡を見学します。
薬師寺縁起には“悪龍となった大津皇子を鎮めるために建てられた龍峯寺の後身が掃守寺(かもりでら)”とする記述があり、それが加守廃寺跡だと考えられています。小さな四天王堂の裏には、南北に長い六角堂跡が確認されました。
石光寺(せっこうじ)を経て鳥谷口(とりたにぐち)古墳に行きます。宮内庁が治定する大津皇子墓は二上山・雄岳にありますが、実際の墓は鳥谷口古墳だと考えられています。
鳥谷口古墳は一辺7.6m・高さ2.1mの方墳で、埋葬施設は家型石棺蓋石未成品を転用して組み立てた横口式石槨です。
底石(そこいし)を持つ横口式石槨は、石棺から発展したものと石室から発展したものに分かれていますが、これは石棺型です。
いずれも過去に訪問したことがある場所ですが、中東さんの説明付きで“吉野の盟約 → 逝去 → 埋葬” と時系列的に訪問することにより、体系的な理解を深めることができました。