近畿文化会「特別講演『聖徳太子聖蹟としての斑鳩』(東野治之先生)」
令和3年8月29日(日)午前、大和文華館(奈良市)で近畿文化会の 特別講演「聖徳太子聖蹟 としての斑鳩 」を聴講しました。講師は東野治之先生です。
東野先生の講演は、5月1日(土)に奈良博で行われた「聖徳太子―史実から信仰へ―」を聞いたばかりですが、太子研究の第一人者だけあって、内容的に重なる部分はほとんどありませんでした。
以下は、私が理解した範囲での講演概要です。
(1) 斑鳩地域の特色
ア 聖蹟とは聖地のことで、斑鳩がどのように聖蹟として作り上げられたかを考察するのが講演の目的。
イ 太子は、膳妃(かしわでのきさき)王姫の出身地に斑鳩宮を設置。これが、生前から聖人とされていた太子の聖蹟の起源。
ウ 今は、東院伽藍として夢殿などが建つ。
(2) 法隆寺(斑鳩寺)の消失と再建
ア 太子は、斑鳩宮近くの「若草伽藍」に法隆寺(斑鳩寺)を創建。
イ ①本尊は薬師如来、②伽藍配置は四天王寺式(門・塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ。本来は「創建法隆寺式」と呼ばれるべき)。
ウ 太子が没してから半世紀後の670年に焼失。
エ 711年、現地でなく、北西の「西院伽藍」に再建。理由は、焼け跡の整地が大変だから。
(3)「再建」法隆寺の性格
ア 再建法隆寺は、①本尊が飛鳥時代の釈迦三尊、①)伽藍配置は法隆寺式(門の奥に金堂と塔が横に並んで奥に講堂)で飛鳥時代の「百済大寺」に類似、③最新の唐様式の壁画。
イ これらから、創建法隆寺とは別の寺であり、聖徳太子を記念するものだと考えられる。
(4) 法輪寺・法起寺・中宮寺
法隆寺の復興と並行して整備。
ア 法輪寺は、膳氏の氏寺。
イ 法起寺は、太子の子である山背皇子(やましろのおうじ)が住んでいた岡本宮の跡。
ウ 中宮寺(現在地の500m東)は、太子の母・穴穂間人(あなほべのはしひと)が住んでいた中宮(なかみや)の跡。
ここから、核心に入ります。東野先生は『新修 斑鳩町史』(令和4年刊行予定)の古代部分を執筆されており、その内容です。
(5) 法隆寺東院の造営
ア 再建法隆寺は太子を記念するものだったが、それをさらに進めたのが斑鳩宮跡に作られた東院伽藍。
イ 再建に際して表に出ているのは阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)だが、実際に進めたのは光明皇后と異母兄の藤原房前(藤原北家の祖)。
ウ 太子は観音菩薩の化身であると言う太子信仰を具体化するために、別の寺から飛鳥仏「救世(ぐぜ)観音」を移して夢殿の本尊とする。
エ 救世観音は金堂にあったとする説もあるが、170cmと背が高いので金堂の本尊である釈迦三尊像とアンバランス。
オ 夢殿は、興福寺の北円堂・南円堂や榮山寺の八角円堂と同様に廟建築。
カ 創建当時の東院伽藍は、太子の斑鳩宮を意識した夢殿は礎石・瓦葺だったが、回廊など他の建物は掘建柱・檜皮葺。
(6) 道詮による東院の整備
ア 平安時代前期には荒廃が進んでいたので、859年、道詮(どうせん)が建議して大規模な改修。
イ 全ての建物を礎石に変更。
ウ 太子信仰の恒久的拠点とするため、絵殿(絵画館)を建てたほか、西院伽藍の西に聖霊会を行うために聖霊院を建立。
(7) 斑鳩の聖蹟化
ア 平安時代から江戸時代までは、西院伽藍より東院伽藍が重要視。
イ 明治時代以降は、飛鳥文化の殿堂として西院伽藍が重用視され、従来の太子信仰は弱体化。
ウ 1922(大正11)年の千三百年御遠忌を契機として「新しい太子信仰」が作られ、斑鳩が太子信仰の聖蹟にされてしまっている。
エ 具体的には、①法隆寺国宝保存事業(1934~1959)、②文化庁主導による世界文化遺産登録第1号(1993(平成5)年)など。
講演内容を整理してみて、東野先生が難しい内容を分かりやすく説明されていることを再認識しました。
この講演を聞いて、私が敬愛する會津八一が《うまやどの みこのみことは いつのよの いかなるひとか あふがさらめや》(厩戸の皇子さまは、どんな世のどんな人でも崇敬し奉らずにゐられようか(吉野秀雄))と詠んだのも、新しい太子信仰に基づくものだと理解できました。