歴史・文化セミナー「日本遺産・龍田古道の歴史と魅力」
令和3年10月2日(土)、近畿文化会の歴史・文化セミナー「日本遺産・龍田古道の歴史と魅力」に参加しました。講師は、大阪府柏原市立歴史資料館長の安村俊史先生で、『大和川の歴史』の著作がある大和川研究の第一人者です。
1 日本遺産
(1) 日本遺産とは
これまでの一点重点主義とは異なり、ストーリーを重視。文化財を観光資源としてインバウンドに活用する狙いだが、抵抗を感じる。
(2) 龍田古道
「龍田古道」(「難波大道」と同様に後世の名称)は大和川に沿って築かれた歴史的意義のある道。したがって、「もうすべらせない」から始まるサブタイトルは不満。
← 私は一部に過ぎない亀の瀬が表に出ていることに対しては違和感を覚えていましたが、安村館長も同じ思いだと知って安心しました。
2 古墳時代以前の龍田古道
ア 大和川沿いに弥生時代の集落や古墳時代の大古墳群が分布。→ 川を通じて人や文化などが交流。
イ 『日本書紀』の「神武即位前紀」に“狭く険しい”・「履中即位前紀」に“龍田山を越えた”とあることから、龍田古道は大和川沿いと推定。
3 飛鳥時代(7世紀)の龍田古道
ア 推古16年、遣隋使・小野妹子の帰国とともに隋から裴世清が来日。難波津から大和川水運で海柘榴市へ(亀の瀬は陸路)。海柘榴市からは陸路で小墾田宮(おはりだのみや)へ。
イ 『日本書紀』に推古21(613)年《難波より京に至る大道を置く。》とあるが、どの経路か。
◎通説(岸俊男説)
難波津→「難波大道」(南北縦貫道路)→竹内街道・横大路(日本最古の官道として日本遺産)→飛鳥
◎安村説
難波津→「渋河道」(大和川左岸)→龍田道→太子道(筋違道)→飛鳥
〔理由〕
①発掘調査により難波大道の完成は7世紀中頃と判明したので裴世清の来日時には未完成、②四天王寺・渋川寺・平隆寺・斑鳩寺・中宮寺など古代寺院が立ち並ぶ、③太子道を利用、④大和川に近接しており利用可能、⑤高低差が少ない(78m)、⑥奈良時代には平城京・難波京の行幸路。
ウ 聖徳太子が住まいを飛鳥から斑鳩に移したのは、大和川と龍田道を整備して押さえるためではないか。
エ 『日本書紀』に、壬申の乱の際に大海人皇子が《初めて関を龍田山・大坂山に置く。》とあるのは、奈良県三郷町関地蔵辺りと奈良県香芝市関屋で大和川沿い。
4 奈良時代(8世紀)の龍田道
ア 聖武天皇の難波宮造営(732年)に伴って、竹原井離宮(頓宮)を置くなど再整備。
イ 平群駅家(へぐりのうまや、奈良県三郷町勢野)や津積駅家(つつみのうまや、大阪府柏原市安堂町)など駅路の整備。
ウ 河内大橋が架けられ、龍田ルートが山越えで安堂に下るルートに変更(高橋虫麻呂の萬葉歌(巻9・1742)に「河内大橋」が登場)。
エ 最も重要な道で、聖武天皇や孝謙天皇・重祚後の称徳天皇が行幸に利用。
5 龍田古道の魅力
ア 聖徳太子や歴代天皇が行幸した面影は残らないが、想像することが可能。
イ 虫麻呂の萬葉歌《我が行きは》(巻9-1747,1748)に詠まれたように古来から景勝の地。
ウ 古代人にとって峠越えは大変なことであり、風の神を祀る龍田大社(三郷町)で神事。
エ 亀の瀬では日本最大の地滑り対策工事。