浄土寺・広渡廃寺跡(兵庫県小野市)
令和3年12月4日(土)、兵庫県小野市立好古館主催の見学会「浄土寺と周辺の文化財を巡る」に参加するとともに、終了後に一人で関連史跡を巡りました。
浄土寺は、鎌倉時代に東大寺の播磨別所として重源上人が創立した寺院です。念仏道場であるとともに、東大寺領荘園「大部荘(おおべのしょう)」の東部に位置することから荘園の管理機関の役割を担ったとされます。
1197(建久8)年に落慶した浄土堂と、内部に安置されている快慶作の阿弥陀三尊像が国宝です。
東を向いた浄土堂の西側は蔀戸となっており、夕陽に照らされた幻想的な阿弥陀三尊象の写真が有名です。
しかし、拝観時間が春夏は午後5時・秋冬は午後4時で終わるので、このようなお姿を拝見することはできません。好古館の学芸員の方も見たことがないそうです。
阿弥陀三尊像には二つの特徴があります。
一つは、三尊の幹部材が須弥壇を貫通して床板の礎石に達して堂と一体化していることです。したがって、建物を解体しない限り仏像は運び出せません。
もう一つは、(1)本尊の両手の上げ下げが一般の仏像と逆、(2)阿弥陀如来なのに右手が釈迦如来の与願印、(3)脇侍の観音・勢至菩薩の位置が逆などです。学芸員の方に理由を尋ねましたが、“重源の指示に基づいて快慶が作ったので、重源に聴かないとわからない”とはぐらかされました。
京都大学の根立研介先生は、《三尊の両腕の構えや印相などが特殊なものとなっているのは、宋代絵画の本様に従ったためかと思われる。》(『慶派の仏たち』(東京美術、2018年))と書かれていますが、なぜ宋の絵画を参考にしたのかわかりません。
他にも、快慶作の重文「阿弥陀如来立像(裸形)」・重文「菩薩面」がありますが、奈良国立博物館に寄託されています。
これらは迎会のために作られたもので、阿弥陀如来立像は実際に布製の衣を着せ台車に乗せて動かしたものと考えられています。
小野市立好古館での特別展「知られざる浄土寺の至宝」では、江戸時代に使われていた菩薩の衣装が展示されていました。
来迎会は、西の浄土堂と東の薬師堂の間を橋掛かりとして行われていました。毎年4月に當麻寺で行われている練供養会式のような法要だったのでしょう。
現在、浄土寺の本堂は、浄土堂ではなく薬師堂です。当初の薬師堂が1498(明応7)年に焼失したため、1517(永正14)年再建されたのが現在の重文「薬師堂」です。
薬師堂の本尊は絶対秘仏で、近くにあった古代寺院の広渡寺(こうどじ、正確な寺名は不明)から移されたと伝えられています。
広渡廃寺跡は発掘調査された結果、南北に南大門・東西両塔・金堂・講堂などが並ぶ薬師寺式伽藍配置であることが判明しました。
現在、史跡公園として基壇などが復元されるとともに、縮小伽藍模型も置かれています。
小野市の浄土寺と言えば夕陽に照らされる阿弥陀三尊像のイメージしかありませんでしたが、もっと奥深い背景を持つことが分かりました。