榮山寺ほか(奈良県五條市)
令和3年5月22日(土)、JR西日本「休日ぶらり旅きっぷ」(2,500円)を利用して、奈良県五條市へ行きました。姫路駅から五条駅までの片道運賃が2,600円なので随分とお得です。
駅前の観光案内所でレンタサイクルを借りて、移動を開始します。前のカップルが普通車を借りてしまったので、やむなくパワーアシスト自転車にしましたが、結果的に行動範囲が広がりました。
まず、真言宗豊山派「学晶山榮山寺(がくしょうざん えいさんじ)に向かいます。午前11時から行われる住職による案内に参加するのが目的です。
榮山寺は、719年に藤原不比等の長男・武智麻呂(むちまろ)が創建し、国宝「八角堂」は武智麻呂の菩提を弔うために仲麻呂(惠美押勝)が建立したと伝えられています。古くは前山寺(さきやまでら)と称し、鎌倉時代になるまでは藤原南家の菩提寺として栄えていましたが、戦国時代末期に八角堂を除く堂宇が焼失しました。
当初から残る唯一の建物・国宝「八角堂」の扉は普段は閉じられているのですが、4月末~5月末は、本堂におられる本尊・重文「薬師如来坐像」とともに特別拝観できるのです。
八角堂は、外から見ると本瓦葺の八角形ですが、中に入ると須弥壇周辺に八角柱が四本建っています。内陣に描かれた装飾画は重要文化財に指定されています。薄くなっていますが、現地で住職から教えていただき、音声菩薩像などを確認できました。
本堂におられる薬師如来坐像は、建物の外から拝観します。両手を膝の上で組んだ法界定印を結び、その上に薬壺を載せておられます。一般的に薬師如来様は与願印を結んだ左手の上に薬壺を載せておられるのに比べて、珍しい印相です。
本堂の前に建つ重要文化財「石燈籠」は、高さ243cmで弘安7(1284)年の銘があります。
国宝「梵鐘」は、山城国の道澄寺(どうちょうじ)から移されたもので、銘文には、鋳成は延喜17(917)年で書は小野道風と書かれています。特に上部の龍頭の造作が素晴らしいです。
境内には、井上(いのえ)内親王(聖武天皇の皇女で、光仁天皇の元皇后)を祀る御霊(ごりょう)神社があります。元々は、お寺が興福寺系だったので鎮守社も春日神社でしたが、1238年にご祭神が変わったそうです。
参加者が私を含めて三人だけだったので、住職に質問するなど濃密な30分を過ごせました。
その後、一人で再度、拝観した後、裏山の「藤原武智麻呂墓」にお参りします。平城宮北方の佐保山で火葬された後、ここに改葬されたとされます。東西5.8m・南北6.4mの方形で、緑泥結晶の石積み基壇の上に墓碑が建っています。墓がある小島山(標高234m)には良継(よしつぐ)の墓もあり、藤原南家の墓域と考えられています。
次に、宇智川(うちがわ)右岸にある国史跡「宇智川磨崖碑」に向かいます。道から少し下っただけで、深山幽谷の雰囲気がする場所です。摩崖碑は奈良時代のもので、現存するものとしては最古です。大般若経の経文が彫られた金石文で、末尾に観音菩薩と思われる立像が線彫されているそうですが、川の流れて薄くなっており、よくわかりません。榮山寺に近い場所にあることから、榮山寺との関係も想定する見方もあります。
吉野川を南に越えて、真言宗高野山派「小松山 金剛寺」に向かいます。平安時代に平清盛の長男・重盛が創建したと伝えられていますが、安土桃山時代に戦火により全焼しました。江戸時代の初めに復興して、その後、井上内親王・他戸(おさべ)親王(井上内親王と光仁天皇との間に生まれた皇子。皇太子だったが廃絶され五條で逝去)を祀る神社に附属する神宮寺となりました。
江戸~大正時代は唐招提寺長老の隠居寺で、茅葺きの庫裡が、かつての隠居之間です。
また、明治時代に建てられた観音堂は唐招提寺の金堂を模した造りです。
時間に余裕があったので、井上内親王と他戸親王を祀る御霊神社本宮にも参拝します。
さらに、井上内親王宇智陵と他戸親王墓にも行きます。いずれも柿山の中で高い場所にあるので、パワーアシスト自転車でないと寄る気になりませんでした。
五條市には、他にも明治維新の魁「天誅組」関係の遺跡もたくさんあるのですが、寄っていると時間がかかるので今回はパスして、幻の「五新鉄道」の終着点跡を確認した後、帰路に向かいました。
パワーアシスト自転車を借りたおかげで予定外の場所まで訪問できて、充実した一日でした。