吉野ビジターズビューロー「決戦の地と大海人皇子の吉野入りルートを辿る」(奈良県→三重県→滋賀県→京都府)
令和4年6月26日(日)~27日(月)、吉野ビジターズビューロー「決戦の地と大海人皇子の吉野入りルートを辿る」に参加しました。案内役は、前吉野歴史資料館長の池田淳先生です。
今から1,350年前の672年6月24日、大海人皇子が吉野宮を脱出したことで壬申の乱が始ったので、それを記念してのツアーです。
近鉄名張駅前を貸切バスで出発し、「伊賀の中山」(三重県伊賀市)に向かいます。
大海人皇子の一行は、吉野宮を脱出した時には少人数でしたが、「伊賀の中山」で伊賀の豪族の兵と合流します。池田先生は、合流するまでの行動を「計画された逃避行」と表現されます。
「伊賀の中山」の所在地については、依那具(いなぐ)から下友生(しもともの)にかけての山間部とする説が有力です。
これに対して、池田先生は、目立つ道なので逃避行にふさわしくないとして、東の比自岐(ひじき)から喰代(ほうじろ)・平田にかけてとする説を支持されます。
実際に道の一部を歩きましたが、確かに、目立たなく逃避行にふさわしい道です。
比自岐神社(祭神は比自岐神)に参拝した後、バスに乗ります。
昼食は「田楽座わかや」(三重県伊賀市)で味噌田楽を頂きます。民俗学者の池田先生から、“名前の由来は田楽法師が高足(こうそく)に乗る様に似ていることから”と説明があります。
大海人皇子は、和蹔(わざみ)で検軍しました。
近くには、大海人皇子の「兜掛石」「沓脱石」(岐阜県関ヶ原町)がありますが、池田先生は、後世に「大海人皇子」と修飾語が付けられたとされます。
近江路決戦が始まったのが「息長横河(おきながのよこかわ)」で、梓河内(あんさかわち、滋賀県米原市)に比定する見解が有力です。
この地では、天野川に注ぐ梓川が流れる谷が東西方向に形成されて横河となっています。この小さな川を挟んで、大海人皇子軍と大友皇子軍が対峙しましたが、息長氏を味方につけた大海人皇子軍が大勝しました。
大海人皇子軍は、安河(やすかわ)浜(野洲川、野洲市)の戦いでも大勝して、瀬田橋(大津市)に進みました。軍隊が大きくなっているので、進む速度は遅くなります。
最終決戦が行われた瀬田橋は、今の瀬田の唐橋から80m下流の場所にありました。
池田先生は、丸木舟を並べた橋(空荷橋(からにばし)→からはし)だった可能性も示されます。さらに、橋=端で、現世と他界との接点だとも説明されます。
一日目の行程は、これで終わりです。
大海人皇子は随分と遠回りして大津に向かいましたが、道中で地方豪族が集結して兵力を増強することが目的でした。
二日目の6月27(月)は、最初に近江大津宮錦織遺跡に向かいます。
白村江(はくすきのえ)の戦いに敗れた天智天皇は、防衛上の理由から都を畿外の大津に移しましたが、ここは近江大津宮内裏正殿跡です。
天智天皇を祭神とする近江神宮に参拝した後、宇治橋(京都府宇治市)に向かいます。
天智天皇の大王位継承要請を固辞した大海人皇子は、出家して吉野に向かいますが、蘇我赤兄などは宇治橋まで送りました。
池田先生によると、山城の「宇治」・大和の「宇智」・伊勢の「宇治」山田の範囲内が初期大和王権の権力基盤です。その地域に大海人皇子が入ったことから、『日本書紀』は《虎に翼を着けて放てり。》と記しています。
昼食後、嶋宮(奈良県明日香村)に向かいます。嶋宮は、蘇我馬子の邸宅跡だったと考えられており、その墓・石舞台古墳に隣接しています。蘇我本宗家滅亡後は、舒明・皇極天皇系の嶋皇祖母命(しめのすめみおやのみこと)の居宅となっていました。
大海人皇子は、吉野宮に入る前夜、嶋宮に泊まりました。その理由について、池田先生は、舒明・斉明天皇の直系であることをアピールすること(大友皇子は天智天皇・采女の子で傍系)にあったとされます。
最後に、吉野宮(吉野町)に向かいます。
東西に流れる吉野川の南岸から吉野宮方向を見て、川に近接する場所であることを確認します。
吉野宮からは、飛鳥時代と奈良時代の遺構が発見されています。
奈良時代の大型掘立柱建物は、吉野川に近い場所で吉野川に向かって建てられていたことが判明しました。行幸した天皇がどのようなルート・方法で宮に入ったのか興味があるところです。
飛鳥時代の建物は北東に位置し、池状遺構がありました。
天武天皇が「吉野の盟約」を結んだ建物があったと思しき場所には梅谷醤油の建物があるため、発掘調査は行われていません。
一日目は壬申の乱の決戦のルート、二日目は壬申の乱の前に吉野入りしたルートを見学すると言う盛りだくさんの内容でした。
現地で、池田先生から独自の視点による説明を聞くことにより、理解を深めることができました。