かぎろひ歴史探訪「平城京、京北条里を歩く」(奈良県奈良市)

 令和3年5月31日(月)、かぎろひ歴史探訪「平城京、京北条里を歩く」に参加しました。前回の参加が令和2年3月なので、一年以上振りの参加です。

 

 近鉄京都線「高の原駅」に集合し、奈良県と京都府を隔てる奈良山丘陵に沿って西に移動して「石のカラト古墳」に行きます。
 標高112mの丘陵傾斜地に作られた上円下方墳で、上円は直径9.2m・下方は一辺13.7mです。高松塚古墳と同様に凝灰岩切石を組み合わせた「組合せ式棺室(石槨)」を持っていたことから、「カラト(唐櫃、脚の付いた櫃)」古墳と呼ばれています。残念ながら埋め戻されているので棺室を見ることはできません

 

 奈良山丘陵に沿って奈良山瓦窯(がよう)群が連なります。これは、粘土・砂・槙が豊富にあり瓦を焼くのに適していたからです。
 窯は、西側斜面に並列して六基、丘陵裾に離れて一基ありました。平城遷都後の八世紀前半から後半にかけて軒平瓦や軒丸瓦を焼成し、秋篠川に沿って平城京右京に運んだと考えられています。その一つが「押熊(おしくま)瓦窯」で、東から西にのびる尾根先端の台地の上に造られています。

 

 

 「押熊」に関しては、「大熊」と同義で、(1)「大」は美称、(2)「熊」=「隈」で奈良市西北部の極地を表わす方位地名と言われています。
 歴史講話と昼食の後、「忍熊(おしくま)王子・麛坂(かごさか)王子舊蹟地」を訪れます。ここは、誉田別尊(ほんたわけのみこと)(後の応神天皇)が即位するのを恐れて戦ったものの敗れ去った二人の皇子の墓との伝承があります。さらに、平城ニュータウン建設に伴って「忍熊皇子社」が移転して来ています。

 

 一方、すぐ側にある「忍熊八幡神社」の祭神は、二人の皇子の敵だった応神天皇(八幡神)ですから、おおらかなものです。

 

 

 さらに南下すると、「中山八幡神社」があります。周辺の宅地化が進むまでは農村地域であり、今でも祭祀組織「宮座」が残っています。当番で神主を務めている住民の方が、6月1日の月次祭を控えて準備をされていました。

 

 

 秋篠の地まで下ると、円墳の上に「堅牢地(けんろうじ)神社」があります。祭神の「堅牢地神(けんろうじじん)」は、仏教では大地を堅固に保つ大地の神とされています。

 

 

 重文「伎藝天立像」で有名な「秋篠寺」は、八世紀後半に光仁天皇の勅願により「内経寺(ないきょうじ)」として創建されました。七堂伽藍を有していた大きな寺でしたが、十二世紀前半に講堂(現本堂)を除く全ての建物が焼失しました。東塔跡の礎石が往時を偲ばせます。礎石の中央部には、耐震性を向上させる出枘(でほぞ)があります。

 


 南門の西には、會津八一の歌碑あきしのの みてらをいでで かへりみる いこまがたけに ひはおちむとす」が建っています。石材は御影石ですが、表面が光って読みに難いのが問題です。八一が訪れた時、伎藝天立像など仏像は奈良帝室博物館に寄託されていたため、拝観できませんでした。そこで「たかむらに さしるかげも うらさびし ほとけいまさぬ あきしののさと」とも詠んでいます。

 

 南門を出た西に、かつては秋篠寺の鎮守社だった「八所御霊神社」があります。その名のとおり八柱を祀っていますが、主祭神は「崇道天皇」です。光仁天皇の皇子で桓武天皇の同母弟だった早良(さわら)親王は淡路に流される途中で死去しましたが、その怨霊が祟ったとして「崇道天皇」の尊号が追贈されました。強い力を持つ神霊によって災厄を鎮める御霊信仰から生まれた神社です。


 最後は、近鉄大和西大寺駅北西にある「十五所神社」です。西大寺の鎮守社として近隣にあった小さな神社をまとめたものと言われ、現在は十六柱を祀っています。


 和気藹々とした雰囲気の中、奈良市の遺跡探訪とウォーキングを楽しむことができました。

2021年05月31日|古墳:その他, 円墳|奈良県:奈良市|トレッキング:トレッキング