信貴山城跡(奈良県三郷町、平群町)
令和4年2月16日(水)、西安寺跡(王寺町)を見学した後、信貴山に向かいます。
大和川右岸からは、これから登る信貴山の雄岳・雌岳がハッキリと見えます。
近鉄信貴山下駅と信貴山の間は、1983年まで東信貴ケーブルが運行しており、駅前には車両が保存されています。
線路跡は、東側の下半分は道路や住宅地になりましたが、上半分はハイキング道として残されています。
道に埋められている木は枕木の再活用で、コンクリートの橋脚も当時のものです。
朝護孫子寺・奥之院へ向かう道をしばらく進み、途中で左に曲がれば、信貴山城跡です。
信貴山城は、戦国時代に松永久秀が雄岳(おだけ、437m)を中心に築いた大規模な山城で、三つに分かれている地区のうち、雄岳地区と北の支尾根地区を探訪します。
これまで、奈良大学教授の千田嘉博先生・天理大学准教授の天野忠幸先生の案内で二度来たことがありますが、今回は中央の階段は登らず北に進みます。
【09 階段】
支尾根地区には、尾根上に造成した五段の平坦地の四方を土塁(どるい、土盛による防御壁)で囲み一体化しています。
切岸(きりぎし、斜面を削った人工的な断崖)は垂直に切り立っていますが、階段があるので角度を体感しながら登ることができます。
中井均先生が、曲輪(山を削平して作った平坦面)・堀切(尾根筋をV字状に切断した遮断線)・土塁より切岸の方が重要だとされることが体感できます。
ここから南に進むと広い平坦地で、松永屋敷跡と言われています。
西側の立派な切岸を見て千田嘉博先生が嬉しそうに解説されたことを思い出しました。
さらに南に進めば雄岳に設けられた主郭部で、二段に連なっている曲輪のうちで東の曲輪から大和盆地が見渡せます。
天野忠幸先生は、久秀は信仰の対象だった山に城を築くことにより権威を高めようとしたとの説明されましたが、この風景を見ると納得できます。
西の一段高い曲輪には石碑「信貴山城趾」が建ち、西に少し下れば信貴山朝護孫子寺「空鉢御法堂(くうはつごほうどう」です。
ここから南には二上山・葛城山・金剛山などが重なって見えるだけでなく、眼下には細長い曲輪が築かれた雌岳(めだけ、399m)が見えます。
この後、主郭部の北側に戻り、北西の高安山(たかやすやま、437m、大阪府八尾市)をめざします。