近畿文化会「鴨東の古代寺院と鳥辺野」(京都市)
令和4年12月17日(土)、近畿文化会「鴨東の古代寺院と鳥辺野(京都市)」に参加しました。講師は、近畿大学教授の網伸也先生です。
平城京周辺には陵墓を除いて大規模な葬送地は形成されませんでしたが、平安京周辺では化野(あだしの)・鳥辺野(とりべの)・蓮台野(れんだいの)を始めさまざまな葬送地が形成されました。今回は、平安京の南東に近接する鳥辺野を訪れます。
鳥辺野が平安京の都市的空間に変貌した理由について、網先生は、鳥辺野には多くの寺院が存在しており、都市である平安京と外部の空間とを結界する役割を果たしていたことにあるとされます。そして、その背景には、平安京に遷都した桓武天皇が井上(いのえ)内親王(父・光仁天皇の皇后)や早良(さわら)親王(同母弟)の「怨霊」に悩まされ、鎮魂するために寺院を創建したことがあると考えられます。
六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は、平安遷都以前から存在していた古代寺院で、寺伝によると開基は大安寺(奈良市)の慶俊(けいしゅん)です。平安時代以降は、あの世とこの世の分岐点「六道の辻」に佇む寺として知られるようになりました。
歌人として有名な小野篁(たかむら)が堂塔伽藍を整備したと伝えられ、小野篁作と伝えられる閻魔大王像などが安置されています。
なお、写真撮影禁止の貼紙があるのですが、ご住職から許可をいただいて撮影できました。
閻魔大王像があるのは、小野篁が閻魔庁の第二冥官(次長)だったとの伝説があるからです。
こうしたことから、境内には、篁が冥界へ行く時に使った井戸、帰る時に使った「黄泉(よみ)がえりの井戸」があります。
嵯峨野にある愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)は、この鳥辺野で創建されました。
近くにある法観寺の重文・五重塔「八坂の塔」の内部を拝見します。鎌倉時代の再建で、飛鳥時代の礎石に乗っている心柱は一回り小さいことがわかり、舎利孔の石蓋も見えます。
午後は、子嶋寺(奈良県高取町)の僧・延鎮(えんちん)が創建した清水寺を拝観した後、鳥辺野の南端にあった藤原氏葬送の地に移動します。
一条天皇皇后定子鳥戸野陵に参拝します。藤原定子(ていし)は藤原道長の姪で、清少納言が仕えていたことで有名です。
その後、伝藤原長家・忠通・慈円宝塔に参拝します。この地に藤原氏の火葬場があり、その供養塔です。
最後は、皇室の菩提寺・香華院の泉涌寺(せんにゅうじ)に参拝します。重文「大門」から見下ろした位置に重文「仏殿」など中心伽藍があります。
聖明殿は、明治初期に宮内省が再建したもので、御所のような造りです。
本坊には、一般の門とは別に勅使門があります。
名前だけ知っていた鳥辺野の地を実際に歩いてみて広大な葬送地だと体感しました。