近畿文化会「北宇智周辺の古墳と史跡(奈良県五條市)」
令和5年1月14日(土)、近畿文化会「北宇智周辺の古墳と史跡(奈良県五條市)」に参加しました。講師は、県立橿原考古学研究所研究顧問の泉森皓先生です。
泉森先生は畿内の古墳研究をライフワークとしておられ、昨年は畿内の男山古墳群(京都府八幡市)を訪ねたので、今回は南端の近内(ちかうち)古墳群を中心に探訪します。
泉森先生は、古墳の位置付けを考察するのに際して、道に着目されます。この視点によると、近内古墳群は、東を走る葛城山辺道(後の下街道)に巨勢(こせ)道や吉野道が合流し、西の金剛山麓は重阪(へいさか)峠道が走る位置、すなわち大和の入口に位置あります。そこで、この古墳群を築いたのは大和の入口部を守っていた一団である内氏(うちうじ)だと考えられます。
近内古墳群の中心である「近内鑵子塚(ちかうちかんすづか)古墳」は、葛城山辺道と巨勢道が合流する地点のすぐ西・近内丘陵の最高所(213.7m)に位置する直径85m・高さ10mの大円墳で、周囲を空堀が巡っています。
近内鑵子塚古墳の東にある「西山古墳」は、一辺54m・高さ8.0mの方墳で、箱式石棺の石材が神社の燈籠の部材として残っています。
西にある「五條猫塚古墳」は一辺27mの方墳で、出土した蒙古鉢形冑などは五條文化博物館で展示されています。
今井1号墳は、この地域で唯一の帆立貝型前方後円墳で、墳長は35mです。
近くにある今井2号墳は円墳だと思われますが、未調査です。
近内古墳群の最北端にある「塚山古墳」は一辺24m・高さ5mの方墳で、墳丘に登ってみると尾根を切断して作られたことが体感できます。
この古墳について、泉森先生は、築造者は葛城氏が支配する馬見古墳群の豪族の次男以下であり、古墳を守る人々が近くに住んでいたと大胆な推理をされます。
この地は隣接する紀伊国の強い影響下にあると思い込んでいたのですが、実際に数々の古墳を訪ねることにより、畿内の入口に当たる宇智国として重要な位置を占めていたことが体感できました。