やまとびとツアーズ「仏師と行く!“城下町”大和郡山のかくれ仏を訪ねて」(奈良県大和郡山市)
令和3年6月5日(土)午後、やまとびとツアーズ「仏師と行く!“城下町”大和郡山のかくれ仏を訪ねて」に参加しました。仏師・折上稔史さん(奈良県平群町)の案内で、あまり知られていない仏像を拝見すると言うマニアックなツアーです。確かに、訪問した三寺院とも『奈良まほろばソムリエ検定公式ガイドブック』や『奈良百寺巡礼』(奈良まほろばソムリエの会)に掲載されていない「隠れ寺」です。さらに、三寺とも浄土宗知恩院派で本尊は阿弥陀如来(三尊)様なので、造形の違いを比較することができました。
最初に訪問するのは、浄慶寺です。奈良市に創建されましたが、1637(寛永14)年に現在地に移転しました。本尊の重文「阿弥陀如来坐像」は平安中期の一木造り(両脚部は別材)で、肉厚で温和な顔をされています。寺伝では、1820年代(文政年間)に當麻寺から迎えられたとされています。
若いご住職によると、これまでは檀家さんしか拝見できなかったが、重文であることから公開を考えていたところ、やまとびとツアーズの岡下さんから連絡があり、拝観できることになったそうです。
門前にある木造三階建「町屋物語館」は遊郭だった建物です。
次は、洞泉寺(とうせんじ)です。このお寺も愛知県豊田市に創建されましたが、1585(天正13)年に現在地に移転しました。本尊の重文「阿弥陀三尊像」は鎌倉時代の寄木造りです。
折上さんによると、仏師から見た寄木造りの利点は、(1)木が小さくても良い、(2)分業できる、(3)内剥りがしやすい、の三点です。快慶作との言い伝えがある点に関しては、仏師の目では快慶作でほぼ間違いないとのことです。なお、快慶の仏像は調和のとれた仏像様式「安阿弥様(あんなみよう)」なので、仏師にとって参考になるそうです。
横から拝見すると、阿弥陀如来様は前傾姿勢、脇侍の観音菩薩様と勢至菩薩様は腰を屈めたうえで上半身を前傾されています。
本尊の向かって左には、小さな五劫思惟阿弥陀如来坐像がおられます。気の遠くなるほど長時間考え続けた結果、螺髪がアフロヘアーのようになっています。
中庭には、光明皇后の願により造られたと伝えられる金黒石の垢かき浴槽があります。
洞泉寺に隣接して源九郎稲荷神社が鎮座しています。「源九郎」の名は、源義経が吉野に落ちのびた時、白狐が側室の静御前を送り届けたことへの謝意として与えられたと伝えられています。元々は洞泉寺の鎮守社だったのかもしれません。
最後は、實相寺です。慶長年間(1596年~1615年)の創建です。本尊の「阿弥陀三尊像」は鎌倉時代初期に造られたものですが、洞泉寺の三尊像に比べると少し迫力に欠けます。
折上さんによると、(1)奥行きが薄い、(2)衣の彫りが浅い、(3)ほんわかとした雰囲気の点で、仏像が量産された平安時代後期の特徴を備えているそうです。
本堂内陣の扁額は、柳沢吉里の四男・信鴻(のぶとき)の筆によるもので、木彫の天狗像もあります。
せっかくの機会なので、折上さんにいろいろと質問して、実作者ならではの考えを聞きました。
(1)一番難しいのは筋肉が露出している金剛力士像。デフォルメするにしても基本の筋肉の形を知っておかなければならないので、解剖学の知識が必要。昔の仏師は筋骨隆々とした人にモデルになってもらったのではないか。
(2) 江戸時代の仏像は部材の下処理をキチンとしていないので、古い時代のものより劣化しやすい。修理も釘を打つなどとんでもないものがある。その点、同じ江戸時代でも寶山寺(ほうざんじ、奈良県生駒市)を中興開山した湛海(たんかい)律師が彫った仏像は優れている。
これまで参加した仏像拝観ツアーは講師が研究者でしたが、今回は実作者としての視点による解説が新鮮で、多面的な考察の必要性を実感しました。