吉野ビジターズビューロー「天誅組終焉の地」(奈良県東吉野村)

 令和3年12月12日(日)、吉野ビジターズビューロー「天誅組終焉の地」に参加しました。
 「天誅組の変」とは江戸時代末期に起きた倒幕運動で、以後、生野の変や禁門の変などが起たことから、明治維新の魁けと位置づける人もいます。

 


 案内は、天誅組研究の第一人者である阪本基義先生です。阪本先生は東吉野村の中学校に長く勤務して「もっちゃん先生」として親しまれるとともに、村教育長も務められました。天誅組総裁・吉村虎太郎の出身地の高知大学で数学を学ばれましたが、天誅組研究に目覚められたのはもっと後のことだそうです。
 最初に住民ホールで天誅組に関する講演があります。私のように体系だった知識を持たない者にとっては、ありがたいです。


 住民ホールや村役場がある場所には、かつて、天誅組を討伐した彦根藩が本陣を置いていました。

 
 1863(文久3)年8月17日、孝明天皇の大和国行幸の詔が出され、これに対応して天誅組は五條代官所を襲い、櫻井寺に五條新政府を置きました。しかし、反対派による宮中クーデターにより行幸は中止となり、天誅組に対して討伐命令が出されました。
 このため、天誅組は五條市・十津川村などに逃れて戦いを続けましたが、1863(文久3)年9月、東吉野村で終焉を迎えました。

 

 最初に訪れるのは、明治谷(みょうじだに)墓地です。街道から石段を登った場所には総裁の吉村虎太郎を始め9人の墓碑があります。

 

 当初は、村人が遺骸を街道脇に葬っていましたが、1912(大正元)年の天誅組五十年祭を契機として、政府の費用により現在の形に整備されました。後ろにあるのが整備以前の墓碑です。 

 

 ここから歩いて宝泉寺に向かいます。
近くに、彦根藩が脇本陣を置いていたので天誅組の決死隊が切り込んだ「碇屋があることから、「天誅義士」「彦根義士」双方の菩提寺となっています。

 


 宝泉寺の門前には、元土佐藩士・土方久元が揮毫した石碑「天誅組義士記念」が建てられています。

 

 宝泉寺から碇屋に向かう出合坂の途中には石碑「植村定七戦死の地」、鷲家川の畔には石碑「宍戸弥七郎戦死の地」が建てられています。

 

 

 バスで「吉村虎太郎原瀛(げんえい)處」に移動します。

 かつては墓所でしたが、1896(明治29)年の天誅組三十三回忌を機に墓碑は明治谷墓地に移され、今は石碑「吉村虎太郎原瀛處」が建てられています。

 

 また、鷲家川を渡る手前には、虎太郎が詠んだ辞世の歌を彫った歌碑や石碑「天誅組終焉之地」碑が建っています。

 

 最後に、藤本鉄石など6人を葬る湯ノ谷墓地へ行きます。明治谷墓地と同様に天誅組五十年祭を契機として整備されたものですが、こちらは共同墓地の奥にあります。


 東吉野村で、今に至るまで天誅組が大切にされていることを実感した一日でした。

2021年12月12日