毎日新聞旅行「丁未の乱(ていびのらん)」(奈良県田原本町→桜井市→大阪府八尾市)
令和3年1月21日(金)、毎日新聞旅行「丁未の乱(ていびのらん)」に参加しました。
丁未の乱とは、587(用明2)年に蘇我馬子が河内に進撃して物部守屋を滅ばした戦いのことです。
従来は崇仏・排仏の思想的対立によるものと理解されていましたが、①当時は仏教教義に関する理解が未成熟だったこと、②物部氏の国際的立場を考慮すると排仏派と位置づけるには無理があることから、現在は蘇我氏・大伴氏と物部氏との権力争いと考えられています。
物部氏は河内国の在地豪族でしたが、第26代・継体天皇に従って大和国に入り活動拠点を設置しました。今回のツアーは、物部氏ゆかりの地を訪ねるものです。
最初に奈良県田原本町(たわらもとちょう)に向かい、村屋神社の境内摂社「物部神社」に参拝します。小さな社殿は西を向いており、「守屋」姓の宮司さんは物部氏末裔とも伝えられています。
天理市に移動し、天理参考館で、物部氏が支配する「古墳時代の布留の祭場」を再現した埴輪や土器などを拝見します。
西山古墳は、4世紀後半に築かれ、墳長185mと日本最大の前方後「方」墳です。後方部の墳頂上から西を眺めた景色が素晴らしく威容を誇っていたことが体感できるのですが、コロナ禍で草刈りが行われていないので、下から眺めるだけです。
その後、武門の棟梁だった物部氏の総氏神として創建された石上(いそのかみ)神宮に参拝します。
昼食後は、本拠地だった大阪府八尾市に移動します。
最初に、守屋の邸宅跡とされる跡部(あとべ)神社に参拝します。
大聖勝軍寺(だいしょうしょうぐんじ)の山門前には、石碑「聖徳太子古戦場」が建ち、その東には守屋の首を洗った伝わる守屋池があります。
寺を出て少し東に進めば、物部守屋の墓があります。廃仏派として神道を擁護したからでしょうか、玉垣は全て全国の神社が寄進したものです。
【13 物部守屋の墓】
南に進めば、守屋を射た鏑矢が埋められたと伝えられる鏑矢塚、その弓を埋めたと伝えられる弓代塚があります。
物部氏の祖神「布留大神(ふつのおおかみ)」を祀ったとされる樟本(くすもと)神社は、北木の本・南木の本・木の本の三か所にあり、北木の本には守屋首洗池があります。
最後に、光蓮寺の門前にある石碑「稲城址」を見ます。稲城とは稲を積んだ砦のことで、防戦のために守屋が作ったと伝えられています。
戦いが終わった後に寺が建立され、住職の姓は「稲城」です。
午後に訪問した八尾市の遺跡は、いずれも伝承に基づくものばかりでしたが、本拠地で物部氏が大切にされていることがわかりました。