近畿文化会「上町台地東辺の史跡と旧村をめぐる」(大阪市)
令和4年1月22日(土)、近畿文化会「上町台地東辺の史跡と旧村をめぐる(大阪市)」に参加しました。
講師の来村多加史先生は阪南大学国際観光学部教授として日本史を教えておられますが、最近、『河内平野中部観光資源調査報告』(晃洋書房)を出されました。中国考古学が専門ですが、観観光学が学問として成立するための方法論を示す(平たく言えば「観光学の専門家」に活を入れる)ために書かれたそうです。
対象としている地域は、奈良と違って観光とは無縁と考えられがちな河内平野中部です。
タイトルは「観光資源調査報告」と厳めしいのですが、探訪する際のガイドブックとしても役立ちます。
今回は、この本に記載されているコースのうち上町台地東辺(生野区・東住吉区)を歩きます。
縄文時代、大阪市の大部分は河内湾で、北に延びる上町台地だけが陸地でした。
近鉄鶴橋駅からコリアタウンを通って、彌榮(やえい)神社(生野区桃谷)に向かいます。途中、旧木野村「五榎木山(うえきさん)」の頂上には、旧庄屋・飯田家の大きな建物があります。
彌榮神社の読み方について、神社の方にお聞きすると“本来は「いやさか」と読むべきだが、ほとんどの人が「やえい」と読むので仕方なくそう読んでいる”とのことでした。また、「猪飼野保存会」の提灯が上がっていたので、近くにいた人に尋ねると“猪飼野(いかいの)の地名を残すため”と言っておられました。
南500mには御舘(みたち)神社跡があり、今は彌榮神社の御旅所となっています。
御幸森天神宮(みゆきのもりてんじんぐう)に参拝します。「御幸森」は仁徳天皇の行在所・「天神宮」は京都五條天神社から少彦名命(すくなひこなのみこと)を勧請したことに因んでおり、菅原道真の天神とは直接の関係はありません。
途中には、川船の底板を再利用した舟板張りの家があります。
工楽松右衛門旧邸(兵庫県高砂市)も舟板貼りですが、こちらは松前船など大きな舟板を使っているので横に貼っており、対照的です。
鶴橋の由来となる「つるのはし」は猪狩野村を流れる平野川に掛かっていた橋ですが、1940(昭和15)年に撤去されました。その親柱4本が「つるのはし跡公園」に保存されています。
午前中の最後の見学地は御勝山(おかちやま)古墳です。4世紀末~5世紀初頭に築かれた墳丘長120mの前方後円墳ですが、南側の前方部は削平されて今は御勝山南公園となっています。
出土した鰭付円筒埴輪などは生野区役所のロビーに展示されているのですが、閉庁日なので見ることができません。
公園の北東隅には、釈迢空(折口信夫)の歌碑「小橋(おばせ)過ぎ、鶴橋生野来る道は、古道と思ふ 見覚えのなき」がありますが、本人の書でなく、しかも銅板を貼り付けているのが残念です。
午後は、俊徳街道を通って舎利尊勝寺(しゃりそんしょうじ)に参拝した後、南西の生野神社に行きます。
生野神社の祭神はスサノオノミコトなので以前は「素戔嗚神社」でしたが、1947(昭和22)年に現在の社号になりました。
桑津天神社(東住吉区)は少彦名命をはじめ11柱の神を祀っています。笑顔の狛犬が印象に残りました。
法樂寺には、幹回り8mの府指定天然記念物「大クス」が生えています。
山阪神社(地名は東住吉区山「坂」)の主祭神は野見宿禰をはじめ4柱で、5つの力石が並んでいます。
最後に、西に向かって道が下っていることを体感しつつ、JR阪和線の南田辺駅に向かいます。
観光名所をめぐる講座ではありませんが、身近なところに観光資源があることが理解できた一日でした。