いぶし清明塚宝篋印塔、道満塚宝篋印塔(兵庫県佐用町)

 令和3年6月7日(月)、兵庫県西端にある佐用町(さようちょう)へ行き、いぶし清明塚宝篋印塔(ほうきょういんとう、石で造られた仏塔の一種)と道満塚宝篋印塔を拝見しました。公共交通機関でのアクセスは困難ですが、今日は家内が運転する自動車なので自宅から一時間余りと楽ちんです。

 

 佐用町江川地区は「陰陽師(おんみょうじ)の里」と称しており、安倍晴明(あべのせいめい)と蘆屋道満(あしやどうまん)の宝篋印塔があります。

 

 二つの宝篋印塔は直線距離で数百メートルの近さにありますが、互いに見通すことはできません


 陰陽師とは、本来は古代律令制において中務(なかつかさ)省陰陽師寮に属して公的占術を任務とした技能官僚のことですが、後には民間の陰陽師も含められました。
 安倍晴明は平安中期の代表的陰陽師で、摂関家を始め貴族の間で重用されました。京都市上京区にある清明神社は邸宅跡とされています。
 一方、播磨国は、古代から朝廷に仕えていない民間陰陽師の一大拠点でした。しかし、竹田出雲が浄瑠璃『蘆屋道満大内鑑(おおうちかがみ)』で、法術比べで安倍晴明に負けた蘆屋道満は出身地の佐用に流されて死んだと書いたことにより、播磨国でも評判が悪くなりました。その結果、他の地域と同様、この地にも清明伝説が残り清明塚と称されるようになったと考えられます。
 甲大木谷にある いぶし清明塚宝篋印塔は、花崗岩製・高さ120.4cmでほぼ完全な形で残っています。様式や手法から、室町時代前期に造られたと推定されています。

 

 笠は六段式で、塔身には金剛界四仏の種子(しゅじ、梵字)が彫られています。


 西には、棚田の風景が広がります。


 南西に移動して乙大木谷に行けば、道満塚宝篋印塔があります。この地と蘆屋道満の関係についても、南北朝時代に書かれた『峰相(みねあい)記』に書かれているだけで、歴史的確証はありません。
 塔の基礎には「清明塚」と彫られ、造立銘には寛政9(1797)年と彫られています。

 


 南西には、日本棚田百選に選ばれた乙大木谷の棚田が広がります。


 なぜ、佐用町の大木谷に清明と道満の宝篋印塔があるのかと言う根本的な疑問は解決できませんでしたが、気になっていた宝篋印塔を見ることができた一日でした。

2021年06月07日|歴史:中世|兵庫県:播磨